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第三章 25 『白耀・自律・刹那』



 中央広場の無所属旗が、三色の軍旗の間で乾いた音を立てていた。


 東に群青、北西に白耀、南に黒旗が並び、それぞれの前列は行政塔へ続く石段を挟んで止まっている。


 候補戦管理局の灰色信号が上がった直後から、三陣営は誰も先に攻撃していなかった。


 地下反応の増加が共有され、領地核へ接触する前に行政塔の封印状態を再確認する必要が生じたためである。


「封印解除まで、推定十分です」


 中立台の立会官は、行政塔の扉へ差し込まれた三本の解除鍵を確認した。


「解除後も、領地核室までの通路には無所属防衛機構が残っています。破壊ではなく停止、または通過を選んでください」


「三陣営が同時に入っても?」


 エルザヴェートは腕を組んだまま尋ねた。


「規則上は問題ありません。ただし、塔内での高出力魔法は戦力天秤〈リブラ〉による制限対象です」


「狭い場所で三人一緒か。面白そうだね」


「エルザヴェート様」


 ローデリヒの低い声が飛ぶと、エルザヴェートは笑みを崩さず視線だけを向けた。


「分かっているよ。面白さで入る順番は決めない」


 北西側では、ジークヴァルトが石段と塔の窓を見上げていた。


 行政塔は五階建てだが、領地核室は地下にあり、地上階は管理局の記録庫と防衛機構の制御室に使われている。


「ヘレナ。塔内へ鏡界を広げられますか?」


 ジークヴァルトが尋ねると、ヘレナは入口の角度を確かめた。


「三枚までなら可能です。ただし、地下の古い導線へ反射面が触れる恐れがあります」


「入口、階段、領地核室前だけに限定してください。攻撃の反射には使わない」


「承知しました」


 白耀陣営の盾兵は二列のまま待機し、剣先を地面へ向けていた。


 正面へ群青、右前方へ黒旗が見えているが、どちらにも盾を向けていない。


 南側のカインは、行政塔ではなく広場外周へ視線を巡らせていた。


 外縁補給路へ向かった黒旗の小隊から、軍用路を二本確保したという短い信号が届いている。


「南倉庫は?」


 カインが尋ねると、ガルムは黒札を一枚裏返した。


「群青の軍用箱を四つ、白耀の矢束を二箱確保した。住民用と商業用には触れていない」


「東市場から中央へ来る道は残せ」


「残している。だが、群青側の兵站は確実に遅れる」


「それでいい」


 ノアはカインの横で、中央広場の避難線が空いていることを確認していた。


 非戦闘区域へ続く南路には管理局の職員が立ち、候補戦対象区画へ迷い込む住民がいないか見張っている。


「カイン。塔へ入るなら、私も一階までは行く」


「治療班にいろ」


「三陣営が同時に入るんでしょ。怪我が出てから呼ばれても遅い」


「塔内は狭い」


「だから近くにいる」


 カインはすぐに答えず、行政塔の扉へ視線を戻した。


「一階までだ」


「分かった」


「地下へは来るな」


「重傷者が出たら行く」


「出さない」


「それを決めるのはカイン一人じゃないよ」


 ノアの言葉に、カインは僅かに目を細めた。


 返答はしなかったが、拒否も重ねなかった。


 行政塔の封印解除を待つ間にも、市街領の候補戦は動いていた。


 東市場では、軍用物資と住民用物資の分離が続き、三陣営の補給担当が同じ積み替え場で荷札を確認している。


「白札二つ、赤札一つ、緑札一つ!」


 候補戦管理局の職員が荷台を確認し、卓斗へ声を上げた。


「白札って白耀の軍用?」


「はい! 白耀陣営の医療用包帯と、住民病院用の薬草が同じ荷車です!」


「また混ざってるのかよ」


 卓斗は荷台へ上がらず、地上から箱の印を確認した。


 白耀の医療箱には候補戦用の認証紋があり、病院用の薬草箱には緑の封蝋が付いている。


「白耀の人、そっちの箱だけ持ってって。薬草は病院路へ通す」


「群青側が指示する立場か?」


 白耀の補給兵が眉を寄せた。


「俺が指示してるんじゃなくて、札どおり分けてるだけ。嫌なら管理局の人に聞いて」


 候補戦管理局の職員が間へ入り、卓斗の分け方に問題がないことを示した。


 白耀の補給兵は不満を残しながらも、軍用箱だけを荷車から下ろす。


「敵の物資を通していいの?」


 ティナは薬草箱を運ぶ御者の進路を見ながら尋ねた。


「白耀の治療班が使うなら軍用だけど、今の箱は街の病院行きだろ」


「ええ」


「止めたら、街の人が困る」


「なら、その判断でいいわ」


 卓斗は次の荷車へ向かおうとしたが、右手首へ僅かな熱が走って足を止めた。


 地下からの反応ではなく、遠くで強い魔素が立ち上がりかけた時に竜紋が拾う圧に近い。


「今、中央?」


 卓斗が広場の方向を見ると、ティナも白銀の瞳を細めた。


「まだ発動していない。誰かが出力を上げかけて、止めたようね」


「ジークヴァルト?」


「断定しない」


「分かってる」


 中央広場では、行政塔の解除鍵が一段深く沈んでいた。


 塔の扉へ刻まれた円環紋が白く光り、無所属防衛機構が内部点検を始めている。


 その時、広場南側の石畳が一度だけ沈んだ。


 カインの足元からではなく、黒旗小隊が確保した外縁補給路の方向から伝わった振動である。


「地下です」


 ヘレナは鏡界の一枚を地面へ向けず、反射面に映った石畳の揺れだけを見た。


「外縁路から中央へ、細い振動が来ています」


「白耀陣営の進軍は停止したままです」


 ジークヴァルトは自陣の兵へ視線を巡らせた。


「群青は?」


 エルザヴェートが尋ねると、ミレーネは記録紙へ届いた灰色信号を開いた。


「東市場は継続。北工房区も避難路を維持。地下だけが動いたみたい」


「黒旗が補給路を取った時刻と重なっています」


 ローデリヒは南側の黒旗を見た。


「カイン殿。外縁路で何をした?」


「旗を立てた」


 カインは短く答えた。


「領地核には触っていない」


「接続先が所属変更へ反応した可能性があります」


 ジークヴァルトは行政塔の扉から目を離さなかった。


「この市街領では、領地核だけでなく補給路も地下網の一部として扱われているのでしょう」


「なら、先に道を取るほど地下が動く」


 エルザヴェートは楽しそうな笑みを薄めた。


「候補戦の正しい手順そのものが、誰かの仕掛けを進めるわけだ」


「だからといって、停止はしない」


 カインは無所属旗を見た。


「地下に従って動くわけじゃない。俺が取ると決めた道を取る」


「同意はします」


 ジークヴァルトは穏やかに答えた。


「ただし、選んだ結果まで引き受ける必要があります」


「分かっている」


「本当に?」


 エルザヴェートが口を挟むと、カインの視線が鋭くなった。


「お前に言われることじゃない」


「ボクは、君がどこまで分かっていて勝ちを選ぶのか興味があるだけだよ」


「興味で他人を見るな」


「知ろうとしないよりはいいと思うけれどね」


 カインの足元へ殺気は生まれなかったが、広場の空気が一段硬くなった。


 ローデリヒとヘレナは同時に前列へ停止の手を上げ、無用な抜刀を防ぐ。


 行政記録所では、恵依とゲブが中央広場と外縁補給路の記録線を見比べていた。


 黒旗の補給路登録から七秒後、中央広場の地下線が一段だけ開いている。


「所属変更を受け取っています」


 恵依は候補戦管理局の登録時刻と地下反応を重ねた。


「軍用路へ旗印を立てただけで、古い導線が接続先を更新しました」


「流川様。行政塔の封印解除も進んでいます」


 ゲブは中央広場の計測杭へ届く戻り値を読み上げた。


「解除率が上がるたび、地下の三方向が同じ強さへ近づいています」


「候補者三人を均等に扱おうとしている?」


「可能性はあります」


「でも、候補者本人を見ているとは限りません」


 恵依は三陣営の旗印、部隊数、補給路登録、塔の解除率を別々の欄へ分けた。


「地上の制度を模倣しているだけかもしれません。誰かが操作しているとしても、何を目的にしているかはまだ分かりません」


「警告を送りますか?」


「送ります。ただし、塔の解除中止までは求めません」


 恵依は灰色信号札へ短い文を記した。


「解除率と地下反応が連動。領地核室へ入る前に、三陣営で停止条件を共有してください」


 北工房区では、絵麻とラールが仮設避難扉の内側を確認していた。


 先ほどの振動で壁の一部から砂が落ちたが、白鋼で補強した扉枠は変形していない。


「中央の反応が増えたって」


 絵麻は恵依から届いた記録札を読み、工房区の点検口へ目を向けた。


「こっちは?」


「少しだけ戻りが減っています!」


 ラールは点検口へ触れず、周辺の壁と床の位相だけを読んだ。


「でも、奥から何か来る感じじゃないです。ここの流れが中央へ取られています!」


「じゃあ、開けない」


「はい!」


 絵麻は点検口から二歩下がり、管理局の職員へ封印札の追加を頼んだ。


 地下の第三者を追うより、戦闘中に誰かが誤って開けないよう目印を増やす方を選ぶ。


「絵麻ちゃん、中央へ行きたいですか?」


 ラールが尋ねると、絵麻は少しだけ眉を上げた。


「そりゃ気になるよ。三人揃ってるし、卓斗たちも別々の場所にいる」


「でも、行かないです?」


「呼ばれてないからね」


「偉いです!」


「また幼児向けの褒め方」


「でも、本当に偉いです!」


「……ありがと」


 行政塔の封印解除は、最後の一段階へ入っていた。


 扉の円環紋が三つに分かれ、それぞれ群青、白耀、黒旗の候補者印を読み取る。


「候補者本人だけ、石段中央へ」


 立会官の指示に従い、エルザヴェート、ジークヴァルト、カインが前へ出た。


 三人の側近と兵士は灰色線の外に残り、候補者が解除認証を受けるのを見守る。


「本人確認後、三十秒で扉が開きます」


 立会官は三人の手元へ小さな認証札を渡した。


「認証札を円環紋へ触れさせてください」


 ジークヴァルトが最初に札を置いた。


 白い光が一度だけ脈打ち、北西側の円環が安定する。


 カインは二番目に札を置いた。


 黒い候補者印が南側の円環へ走り、外縁補給路の登録と繋がった。


 エルザヴェートが最後に札を近づけると、胸元のネックレスが僅かに熱を持った。


 本人より先に、ミレーネと恵依の記録札が同時に反応する。


「エルザヴェート様」


 ローデリヒが呼びかけると、エルザヴェートは札を円環へ触れさせる直前で止めた。


「分かっている」


「ネックレスが反応しています」


「熱だけだよ。刃は出ていない」


「無理に認証する必要はありません」


 ジークヴァルトは自分の札を置いたまま、エルザヴェートへ視線を向けた。


「一度下がって、反応を確認してもよいでしょう」


「優しいね。でも、それをしたら認証は君とカインの二人で進む」


「安全を選ぶことと、権利を放棄することは別です。管理局へ中断を求めます」


「必要ない」


 カインが短く言った。


「反応しても、置けるなら置け」


「随分と乱暴な助言だね」


「置けないなら下がれ」


「分かりやすい」


 エルザヴェートは笑ったが、認証札を動かさなかった。


 ネックレスの石座から伝わる熱は強くも弱くもならず、行政塔の円環紋と同じ周期で脈打っている。


 ミレーネは後方から、再録魔典〈パリンプセスト〉の記録紙を一枚だけ開いた。


「前と同じ波形。ヴァイスの領地核へ近づいた時より弱い」


「地下への引き込みは?」


 ナーヴァが尋ねると、ミレーネは首を横へ振った。


「今はない。認証紋と呼吸を合わせてるだけ」


「エルザヴェート」


 ナーヴァは灰色線の外から、候補者としてではなく一人の少女へ呼びかけた。


「置くかは、自分で決める。でも、反応を隠さない」


「隠していないよ」


「怖いなら怖いでいい」


「怖くはない」


「なら、何を待ってる?」


 エルザヴェートはネックレスへ触れなかった。


 腕を組んだ姿勢を崩さず、認証札だけを右手へ持っている。


「ボクが置いた瞬間に、石が何を選ぶか見ている」


「石に選ばせるの?」


 ナーヴァの問いに、エルザヴェートの笑みが僅かに止まった。


「違うね」


 エルザヴェートは認証札を円環紋へ押し当てた。


「置くのはボクだ」


 三つ目の円環が群青へ染まり、行政塔の扉が重い音を立てて開き始めた。


 同時にネックレスの熱が一段だけ上がったが、自律刃は現れず、エルザヴェートの姿勢も崩れない。


 地下では三本の古い導線が同時に脈打った。


 行政記録所の計測杭が規定値を越え、恵依の前で赤い警告線を浮かべる。


「解除と同時に上昇!」


 ゲブは白銅を広げず、記録石の音だけを拾った。


「三方向が中央へ集まっています!」


「追わないでください」


 恵依は警告札を三枚同時に起動した。


「塔内へ入る前に停止。領地核室の防衛機構が動いても、高出力を使わないでください!」


 灰色信号が広場へ上がった時、行政塔の扉は人一人が通れる幅まで開いていた。


 内部から冷たい空気が流れ、石段の上へ古い魔素の匂いが広がる。


「停止信号です」


 ヘレナは鏡界へ映った灰色光を見た。


「ジークヴァルト様。先行は見送りますか?」


「信号内容を確認します」


 ジークヴァルトは塔内へ足を入れず、立会官から警告札を受け取った。


「地下反応の上昇。高出力禁止。領地核室前で再確認」


「なら、通常の手順で入るだけだ」


 カインは扉へ向けて一歩進んだ。


「カイン」


 ノアの声が背後から飛ぶ。


「一人で先へ行かない」


「三人で入る」


「そういう意味じゃない」


 カインは足を止めず、しかし二歩目は踏み出さなかった。


 ジークヴァルトとエルザヴェートが動くのを待つ。


「では、順番を決めましょうか」


 ジークヴァルトは三人の位置を見た。


「先頭一名、中央一名、最後尾一名。塔内で互いの背後を取らないよう、管理局の立会官を間へ入れる」


「ボクが先頭でいいよ」


 エルザヴェートは腕を組んだ姿勢へ戻った。


「自律刃なら、通路の罠を先に見つけられる」


「動かずに先頭?」


 カインの声に、明確な嫌悪が混じった。


「歩くくらいはするよ」


「剣は自分で持て」


「またその話かい?」


「お前の剣は、誰かが死ぬ前にお前へ痛みを返さない」


 エルザヴェートの笑みが僅かに薄れた。


「君は、自分が傷つけば正しいと思っているのかな」


「傷つかない位置から切る奴よりはましだ」


「どちらも違います」


 ジークヴァルトが二人の間へ声を入れた。


「傷つくこと自体に価値はありません。傷つかずに守れるなら、その方がよい。ただし、自分だけが安全なまま他者へ責任を押しつけるなら、剣聖の剣ではない」


「きれいにまとめるね」


 エルザヴェートはジークヴァルトを見た。


「君はどちらにも嫌われない言い方が得意だ」


「嫌われないためではありません」


「なら、君はボクの自律刃を認める?」


「使い方を見ます」


「カインは?」


「嫌いだ」


「即答だね」


 カインは行政塔の扉へ視線を戻した。


「先頭は俺が行く」


「罠へ攻撃されたら、君の能力は使えるのかい?」


「使う必要があれば」


「対象が人でなくても?」


「関係ない」


 エルザヴェートの目に好奇心が戻った。


 彼女の周囲で、四本の自律刃のうち一本だけが僅かに角度を変える。


「エルザヴェート様」


 ローデリヒの声が飛んだ。


「攻撃はしないよ」


「刃が動きました」


「観察のために向きを変えただけだ」


「カイン殿へ向いています」


「本人ではなく、彼の足元だよ」


 カインは刃を見ず、エルザヴェートだけを見た。


「試すな」


「君が罠へどう反応するか考えていただけさ」


「考えるだけなら、刃を向けるな」


「怖いのかい?」


「違う」


 カインの右足が半歩だけ前へ出た。


 攻撃ではなく、塔へ入るための動きだった。


 その瞬間、自律刃が反応した。


 エルザヴェートの意思より早く、カインの踏み込みを接近行動として判定し、一本が足元の石畳へ走る。


「止まれ!」


 ローデリヒが叫ぶより早く、ジークヴァルトが鞘から剣を抜いた。


 極光は纏わせず、自律刃の軌道へ通常の刃を差し込む。


 金属音が鳴るはずだった。


 だが、音が届く前に結果だけが変わった。


 カインは一歩も動いていない。


 自律刃は彼の足元へ届かず、半ばから斜めに断たれて石畳へ落ちていた。


 同時に、エルザヴェートの外套の襟が細く裂けた。


 刃は喉へ触れていないが、布地だけが首筋のすぐ横で切れている。


「エルザヴェート様!」


 ローデリヒが前へ出ようとすると、ナーヴァが腕を横へ出して止めた。


「攻撃しない」


「しかし!」


「次も同じになる」


 エルザヴェートは裂けた襟へ目を落とし、腕を組んだまま動かなかった。


 首筋に傷はなく、ネックレスの鎖も切れていない。


「今のが刹那逆断〈ファリブル〉か」


 ジークヴァルトは自分の剣を下げた。


 彼が自律刃を受け止めようとした動きは、カインへの攻撃ではなかったため、何も起きていない。


「ボクの刃が君へ向かった瞬間、先にボクの襟を斬った結果へ変えた」


「喉を外した」


 カインは短く答えた。


「候補戦だから?」


「殺す必要がない」


「随分と器用だね」


「次は外すとは限らない」


 カインの言葉に、群青騎士たちの空気が張り詰めた。


 だが、誰も剣を抜かなかった。


「自律刃は、エルザヴェート様の意思より先に攻撃しました」


 ローデリヒは落ちた刃を見た。


「接近を敵対行動と判定したようです」


「分かっている」


 エルザヴェートの声から、先ほどまでの軽さが少し消えていた。


「ボクは止めるつもりだった。でも、刃はカインを危険と見て動いた」


「それが嫌いだ」


 カインはエルザヴェートを見た。


「お前が決める前に、剣が誰を切るか決める」


「ボクの魔素だよ」


「なら、責任もお前だ」


 広場の空気が静まった。


 エルザヴェートはすぐに言い返さず、断たれた自律刃と裂けた襟を順に見た。


「その通りだね」


 彼女は四本すべての自律刃を消した。


「今の一撃は、ボクの責任だ」


「エルザヴェート様」


「ローデリヒ。反論しなくていい」


 エルザヴェートはカインへ向き直った。


「君が踏み込んだだけで動いた。なら、今の設定では市街領に向いていない」


「退くのか」


「刃を出さずに入るだけさ」


「勝てるのか?」


「試してみよう」


 ジークヴァルトは剣を鞘へ戻し、二人を順に見た。


「最初の交錯で、互いの条件は確認できました。これ以上は領地核室へ着いてからにしましょう」


「君は止める役が似合うね」


 エルザヴェートが言うと、ジークヴァルトは僅かに笑った。


「必要なら、勝つ役も務めます」


 行政塔の地下から、二度目の振動が届いた。


 今度は広場だけでなく、東市場、北工房区、外縁補給路の三方向へ同時に広がる。


 卓斗は病院用の薬草箱を荷車へ戻した直後、石畳の下で何かが走る感覚を覚えた。


 右手首の竜紋が熱を持ち、ティナも足元を見下ろす。


「中央で何か起きた」


「魔素が一度だけ切り替わったわ」


「攻撃?」


「分からない。でも、今のは地下だけじゃない。候補者の魔素が一瞬重なった」


 東市場の信号鏡へ、灰色と群青の二色が同時に灯った。


 エルザヴェートの自律刃がカインへ反応し、カインの能力が発動したという簡潔な報告である。


「始まったのかよ」


 卓斗は中央へ向かう道を見た。


「行かない」


 ティナが先に言った。


「分かってる」


「本当に?」


「俺の担当、ここだから」


 卓斗は中央へ背を向け、次の荷車へ視線を戻した。


 軍用箱を積んだ黒旗の車両が南倉庫へ向かい、その後ろから住民用の緑札を付けた荷車が来ている。


「緑を先に通す!」


 卓斗は管理局の職員へ手を上げた。


「黒旗の軍用は一回止めて、住民用の道を空けて!」


 黒旗の御者は不満そうに手綱を引いたが、住民用の荷車が通過するまで待った。


 候補者同士の能力戦が始まっても、市街の流れを止めないという役割は変わらない。


 行政記録所では、カインの能力発動時刻と地下反応が重なっていた。


 だが、恵依はその一致をすぐに因果関係として記録しなかった。


「候補者魔素の衝突と、行政塔の解除進行が同時です」


 恵依は二つの事象を別欄へ分けた。


「刹那逆断〈ファリブル〉だけが地下を動かしたとは断定できません」


「流川様。三方向の接続は開いたままです」


 ゲブは計測杭の戻り値を確認した。


「ですが、高出力へは上がっていません。地上の攻撃が一度で止まったため、地下も増幅していないように見えます」


「止めた判断が効いています」


 恵依は中央広場へ追加信号を送った。


「現状維持。次の能力発動前に、塔内の停止条件を再設定してください」


 中央広場では、三候補と管理局の立会官が行政塔の入口前へ集まっていた。


 カインは先頭を譲らず、エルザヴェートは自律刃を消し、ジークヴァルトは剣を鞘へ戻している。


「停止条件を決めます」


 立会官は三人へ同じ確認札を見せた。


「塔内では、候補者本人への直接攻撃を禁止。防衛機構の停止と進路確保のみ認めます」


「相手が先に領地核へ触れた場合は?」


 カインが尋ねた。


「その時点から候補者間の戦闘を認めます。ただし、高出力禁止、急所攻撃禁止です」


「俺の能力は急所へ届く」


「制御できますか?」


「できる」


「先ほどの外套と同様に?」


「そうだ」


 立会官はカインの返答を記録した。


「エルザヴェート候補。自律刃の敵対判定を停止できますか?」


「完全停止はできる。塔内では、ボクが一つずつ命令した時だけ動かす」


「自動迎撃は?」


「切る」


「ジークヴァルト候補。極光の魔素は?」


「使用しません。通常剣術のみです」


「三名とも、条件違反が確認された場合は塔外へ強制退去します」


「異論はないよ」


「ありません」


「ない」


 三人の返答が揃った。


 カインが先頭へ入り、その後ろを立会官、エルザヴェート、二人目の立会官、ジークヴァルトの順で進む。


 側近たちは一階まで同行し、地下階段の手前で待機することになった。


 行政塔の内部は、外から見たよりも暗かった。


 壁面の魔素灯は半分しか点いておらず、床には古い防衛機構の線が幾重にも刻まれている。


「右壁、動きます」


 ヘレナは入口に置いた鏡界から、壁内の歯車を確認した。


「前方六歩で射出孔。候補者の認証札を見せれば停止するはずです」


「俺が出す」


 カインは認証札を前へ掲げた。


 射出孔の奥で金属音が鳴ったが、矢は放たれず、壁の線が暗くなる。


「便利だね」


 エルザヴェートは後ろから言った。


「君が先頭なら、ボクの刃は要らなかった」


「最初から要らない」


「まだ嫌われている」


「当たり前だ」


「会話は塔を出てからにしてください」


 立会官が二人を制し、地下階段へ続く扉を開けた。


 階段の下から、冷たい魔素が上がってくる。


 領地核の波形とは違い、ガルド、ハイゼン、ヴァイスで確認された古い導線の残響が混ざっていた。


 エルザヴェートのネックレスが再び熱を持った。


 今度は円環紋と同じ周期ではなく、地下深くから呼ばれるように短く二度脈打つ。


「また反応したね」


 エルザヴェートが呟くと、ジークヴァルトは階段の奥を見た。


「下がりますか?」


「下がらない」


「理由は?」


「ボクが決めたからだよ」


 エルザヴェートは腕を組んだまま、一段目へ足を置いた。


「石が呼んでいるとしても、行くかどうかはボクが選ぶ」


 カインは先頭で振り返らなかった。


「なら、遅れるな」


「君は本当に言い方が雑だね」


「進め」


 三人は地下階段を下り始めた。


 白耀の剣は鞘へ、自律の刃は沈黙へ、刹那の影は次の攻撃を待たずに前へ進む。


 その足元よりさらに深い古い導線では、鉄色の靴を履いた第三者が、三本の光が中央へ集まる様子を見ていた。


 候補者たちが高出力を使わなかったため、環状刻印は完全には開かず、細い脈動だけを続けている。


「……まだ足りない」


 低い声が、誰にも届かない石廊下へ落ちた。


 黒い手袋が次の石盤へ触れると、市街領の外縁補給路から一本の線が伸びた。


 その先は行政塔ではなく、群青陣営がすでに所有する別の候補領へ向いている。


 地上では、三候補が同じ領地核を目指して階段を下りていた。


 だが、市街領で交わされた最初の一撃の裏で、別の道が静かに選ばれ始めていた。




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