第三章 24 『三陣営の均衡』
夜明け前の市街領には、昨日まで残っていた市場のざわめきがなかった。
東市場の屋台は非戦闘区域へ寄せられ、北工房区の炉は火を落とし、中央広場から行政区画へ続く灰色線の内側だけが、候補戦のために静かに空けられている。
それでも、街そのものが眠っているわけではない。
病院では治療役が夜通し動き、南住民区では避難を終えた家族が名簿を確認し、商業用の荷車は候補戦対象区画を避ける新しい道へ少しずつ移されていた。
「住民避難、九割八分完了です」
候補戦管理局の立会官は、中央広場へ設けられた中立台で三色の報告札を確認した。
「残る二分は、病院から移動できない重傷者と、非戦闘区域内に留まる許可を得た商人です。各陣営は、対象区画外へ攻撃を流さないよう厳守してください」
中立台の東側には群青、北西側には白耀、南側には黒い旗が並んでいた。
三陣営はまだ灰色線の外へ留まり、開始の鐘を待っている。
群青陣営では、ミレーネが市街地図へ最後の配置札を置いていた。
東市場の積み替え場、北工房区の仮設避難扉、中央広場へ続く二本の行政路、地下観測点が色分けされている。
「卓斗は東市場。軍用の赤札だけを中央倉庫へ入れないようにする」
ミレーネは東側の積み替え場へ黒い小札を置いた。
「でも、商業用の黄札と住民用の緑札は通す。荷札が混ざってる車両は、管理局の検査班へ回して」
「力で止めるのは最後、だろ?」
卓斗は薄い固定布の巻かれた右手首を見せず、左手で自分の配置札を押さえた。
「最初は札と伝令。次に車輪止め。どうしても間に合わなかったら、左手だけで小さく斥力」
「右手は?」
ナーヴァは地図から目を上げずに尋ねた。
「使わない」
「左肩は?」
「二回続けて大きく使わない」
「地下へ引かれたら?」
「触らない。ティナに先に言う」
「いい」
ティナは卓斗の隣で腕を組み、白銀の瞳を細めた。
「今日は合格を先に出すのね。始まってから忘れたら取り消す」
「普通に厳しいな」
卓斗が小さくぼやくと、ティナは右手首の固定布へ視線を落とした。
「タクが自分の上限を守るなら、私も勝手に白銀を重ねない。荷車の質量を変える時は、必ず先に言うわ」
「了解」
北工房区の地図では、絵麻とラールが仮設避難扉の位置を確認していた。
工房主の許可を得て夜のうちに設置された扉は、平常時には閉じたまま使われ、火災や通路封鎖が起きた時だけ開放される。
「絵麻は避難路から動かない」
ナーヴァは北工房区へ白い札を置いた。
「中央が危なくなっても、呼ばれるまで来ない」
「カインがそっちに出ても?」
「位置を共有。先に飛ばない」
「分かってる」
「本当に?」
「昨日と同じ確認しなくていいって」
ラールが絵麻の横で勢いよく手を上げた。
「私が見ます! 絵麻ちゃんが転移の起点を作ろうとしたら、先に言います!」
「私の意思より早く申告するのやめてくれる?」
「絵麻ちゃんが無理するより早く止めます!」
「最近、ラールの方が強くなってない?」
「守る時は強いです!」
恵依とゲブは、中央広場東側の行政記録所へ配置される。
領地核の直接解析ではなく、北工房区、中央広場、外縁補給路の三地点に置かれた計測杭から、地下欠損の時刻と方向だけを受け取る役割だった。
「広域解析は行いません」
恵依は三地点の記録欄へ同じ時刻印を押した。
「地下網がこちらの波形を拾う可能性があります。変化を確認しても、接続先までは追いません」
「流川様。白銅も信号と戻り値の共有だけへ限定します」
ゲブは両手を胸前で重ねた。
「候補者の感情、敵陣営の魔素、地下の残響には共鳴しません」
「お願いします」
中央広場へ向かう主隊は、エルザヴェート、ローデリヒ、ナーヴァを中心に編成されていた。
ミレーネは後方の記録班から全体を見渡し、必要に応じて各班の情報を重ねる。
「ボクの自律刃は十二本まで」
エルザヴェートは腕を組んだまま、自分から条件を口にした。
「四本は中央。四本は東市場と北工房区へ分ける。残り四本は出さずに置く」
「出さずに置く、とは?」
ローデリヒが確認すると、エルザヴェートは楽しげに笑った。
「必要になっても、先にミレーネかナーヴァへ言うという意味だよ」
「珍しく自制的ですね」
「昨日、興味だけで試すなと言われたからね」
「覚えていたのですか」
「失礼だな。ボクは記憶力がいい」
「実行するかどうかが問題なのです」
ミレーネは二人の会話を聞きながら、エルザヴェートの停止条件を記録紙へ追加した。
「自律刃が地下へ向いた場合は?」
「全停止。ボクが消せなければ、ローデリヒが重圧で刃を床へ落とす。ミレーネは発生時刻とネックレスの反応を記録」
「私たちも触らない」
ナーヴァが短く加えた。
「卓斗とティナも、恵依とゲブも、絵麻とラールも、止めるだけ。原因を探さない」
「了解」
卓斗たち三組の返答が、別々の位置から重なった。
北西側の白耀陣営では、ヘレナが透明な鏡片を空中へ並べていた。
市街の屋根と看板が多いため、極光を通す射線ではなく、部隊同士の位置を誤認させないための連絡鏡として配置している。
「鏡界は九枚までです」
ヘレナはジークヴァルトへ最終配置を示した。
「三枚を北西関門、三枚を行政路、残る三枚を救助班へ。攻撃反射には使用せず、視線と信号の中継へ限定します」
「極光は?」
オスカーが確認すると、ジークヴァルトは腰の剣へ触れずに答えた。
「原則として使いません。地下欠損の拡大が確認されている以上、市街領で高出力を使う理由はない」
「群青やカインが領地核へ先行した場合も?」
オスカーはジークヴァルトの判断を確かめるように尋ねた。
「同じです」
ジークヴァルトは中央広場の方向を見た。
「勝つために街と地下を危険へ寄せれば、剣聖候補としての勝利ではありません」
「通常剣術と部隊運用のみで制圧を狙います」
ヘレナは白耀の前列へ停止信号を共有した。
「鏡界の色が赤へ変わった場合、前進より先に周辺の住民と建物を確認してください」
オスカーは北西商業路の台帳を閉じた。
「商人組合との交渉は完了しています。白耀側は軍用倉庫だけを候補戦対象とし、商業用倉庫へ兵を入れません」
「群青と同じ条件ですか?」
ヘレナが尋ねると、オスカーは僅かに眉を動かした。
「結果として一致しただけです。互いの作戦を共有したわけではありません」
「似ていると言われるのが嫌なのですね」
「政治上、余計な誤解を生む比較を避けているだけです」
ジークヴァルトは二人の会話へ小さく笑い、白耀の旗へ視線を戻した。
「守る対象が同じなら、手段の一部が似ることはあります。違いは、勝敗が決まる場面で現れるでしょう」
南側の黒旗陣営では、ガルムが外縁補給路と中央広場の間へ三本の細い経路を示していた。
正面の行政路ではなく、商業倉庫の裏、排水路沿い、南住民区の外縁を通る道である。
「中央広場へ最初から向かう必要はない」
ガルムはカインへ地図を差し出した。
「群青は東市場、白耀は北西関門から入る。両方の軍用補給が中央倉庫へ集まる前に、外縁路を押さえればいい」
「住民用の荷車は通す」
カインは地図を一度見ただけで返した。
「もちろんだ」
ガルムは笑みを崩さなかった。
「我々が市街の支持を得るには、生活を止めない方がいい。軍用物資だけを分け、他陣営の前進を遅らせる」
「理由が違う」
カインの声は低かった。
「何がだ?」
「支持のために通すんじゃない。住民の物だから通す」
ガルムは一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかな表情へ戻した。
「結果が一致するなら、今はそれで構わない」
ノアは南住民区の避難名簿を抱え、二人から少し離れた場所に立っていた。
病院、子供、老人の三班はすでに安全区域へ移り、候補戦対象区画に残るのは管理局の職員と許可を得た治療役だけである。
「カイン。中央広場へ行く前に、外縁路の北側を見て」
ノアは地図の一点を指した。
「昨日、壁に亀裂があった。戦闘で崩れたら、東市場から逃げる人の道を塞ぐ」
「縫えるか」
「崩れる前なら補強できる。でも、私一人では位置が分からない」
「先に見る」
「それと、傷ついたら戻ること」
「傷つかない」
「またそれ」
ノアは呆れたように息を吐いた。
「刹那逆断〈ファリブル〉があっても、誰も攻撃してこないとは限らない。能力を知らない兵もいるし、見えない罠もある」
「分かっている」
「分かってるなら、怪我を隠さない」
「必要なら言う」
「必要か決めるのは私も一緒」
カインはすぐに返さなかった。
数秒後、視線を地図へ戻したまま短く頷く。
「分かった」
ノアはそれ以上言わず、治療班の位置へ戻った。
ガルムは二人のやり取りを見ていたが、口を挟まなかった。
日が昇り、市街領の屋根へ朝の光が届く頃、中央広場の中立台へ現剣聖レオニード・ヴァルグレンが上がった。
均衡の魔素を纏う彼の背後で、候補戦管理局の灰色旗が真っ直ぐ伸びる。
「各陣営、最終確認を行え」
レオニードの低い声が、三方向の信号鏡と伝令石を通して市街全域へ届いた。
「戦闘対象区画は、中央広場、行政区画、軍用倉庫、外縁補給路。市場、病院、北工房区、南住民区は非戦闘区域とする」
三陣営の指揮官が、それぞれの位置で確認札を上げた。
「民間人への攻撃、街の故意の破壊、降伏者への加害は失格対象だ。領地核を破壊した場合、制圧は認めない」
レオニードは中央広場の無所属旗を見上げた。
「勝利条件は一つ。領地核へ自陣の旗印を登録し、候補戦管理局の認証を得ること」
次の瞬間、戦力天秤〈リブラ〉が市街領全体へ広がった。
透明な天秤のような光が屋根の上を走り、三候補の魔素出力を同じ規定域へ押し戻す。
卓斗は東市場の積み替え場で、空気が僅かに重くなる感覚を覚えた。
自分たちは候補者ではないため直接の制限は弱いが、戦場全体の魔素密度が一定に整えられている。
「始まるな」
卓斗が呟くと、ティナは市場側と軍用路を順に見た。
「先に見る場所を忘れないで」
「荷札、車輪、人、最後に地下」
「そう」
「地下を最後に回すの、まだちょっと怖いけど」
「最初から地下を見れば、目の前の人を見落とすわ」
「分かってる」
東市場の検査班が、赤、黄、緑の札を掲げた。
候補戦開始と同時に軍用荷車だけを中央倉庫へ送らず、東側の仮置き場へ回す準備が整う。
北工房区では、絵麻が仮設避難扉の前へ立っていた。
ラールは扉周辺の壁だけへ白鋼を薄く流し、強い衝撃が来ても開口部が潰れないよう補強する。
「広く固めない」
絵麻が確認すると、ラールは大きく頷いた。
「扉の縁だけです! 通る人の足場は変えません!」
「いいね」
「褒められました!」
「今のは普通に褒めた」
行政記録所では、恵依とゲブが三地点の計測杭へ同時時刻を設定していた。
候補戦開始前の基準値を記録し、鐘が鳴った瞬間から変化を比較する。
「流川様。北工房区、中央広場、外縁補給路、すべて基準域です」
「地下の第三者が動いた形跡は?」
「現在はありません」
「開始後も、変化だけを記録します」
恵依は自分へ言い聞かせるように、解析範囲をもう一度確認した。
「追わない。接続しない。こちらから魔素を流さない」
「承知しました」
中央広場東側の群青主隊では、エルザヴェートが腕を組んだまま灰色線の向こうを見ていた。
北西の屋根越しには白耀の旗、南側の通りには黒い旗が見える。
「三人とも、同じ街へ来た」
エルザヴェートは楽しそうに目を細めた。
「ジークヴァルトは正面から。カインは見えない道から。ボクたちはどう見えるかな?」
「エルザヴェート様は、どう見えるかより役割を守ってください」
ローデリヒは剣を抜かず、鞘へ手を添えた。
「自律刃は十二本までです」
「覚えているよ」
「興味だけでカイン殿へ攻撃しない」
「それも覚えている」
「ジークヴァルト殿の極光を正面から試さない」
「今日は彼も使わないだろう」
「推測で条件を外さないでください」
「君は本当に細かいね」
「必要です」
ナーヴァはエルザヴェートとローデリヒの間へ視線を向けた。
「鐘が鳴っても、最初に走らない」
「なぜだい?」
「他二陣営の方向を見る。住民用の道が動いてないか確認する」
「一歩遅れる」
「分かってる」
「それでも?」
「それでも」
エルザヴェートは一瞬だけ無所属旗を見つめ、やがて笑みを深めた。
「分かった。最初の一歩は、街が動いた後にする」
レオニードが右手を上げた。
中央広場の鐘楼で、巨大な青銅鐘を打つ準備が整う。
「これより、市街領候補戦を開始する」
振り下ろされた槌が鐘を叩いた。
重い音が市街全体へ広がった瞬間、三色の旗が同時に動いた。
白耀陣営は北西関門から二列で進み、ヘレナの鏡界を信号中継として行政路へ入った。
白い盾兵は走らず、住民用の荷車が横切るたびに進行を止め、通過を確認してから隊列を戻していく。
黒旗陣営は南の主街道へ出なかった。
三つの小隊へ分かれ、商業倉庫の裏路地、排水路沿い、外縁路へ同時に散る。
群青陣営は鐘の直後に動かず、東市場から最後の商業荷車が非戦闘区域へ入るのを待った。
緑札が上がったのを確認してから、ローデリヒが前進の合図を出す。
「群青主隊、進め!」
盾兵が中央広場へ続く東行政路へ入った。
エルザヴェートは腕を組んだまま歩き、その周囲へ四本の自律刃だけを出す。
「約束どおり四本だね」
ミレーネは後方から本数を記録した。
「今のところは」
「最後まで今のところでいて」
東市場では、開始直後から赤札の荷車が三台続けて積み替え場へ入った。
検査班は一台目と二台目を軍用仮置き場へ誘導したが、三台目だけは黄札と緑札も重なっている。
「混載です!」
管理局の職員が荷札を確認し、卓斗へ声を上げた。
「軍用箱二つ、商店用の油樽四つ、病院用の布が一箱!」
「止めないで右へ!」
卓斗は中央倉庫へ続く左路ではなく、検査用の右路を指した。
「病院用を先に下ろして、軍用だけ別車へ! 油樽は商業路へ戻す!」
御者が手綱を切ろうとした瞬間、後方から黒旗の管理員が二人現れた。
外縁路を先に押さえたカイン陣営が、軍用物資の移送先を黒側の検査所へ変えようとしている。
「その軍用箱は南倉庫へ回す」
黒旗の兵士が宣言した。
「外縁補給路は黒旗陣営が管理下へ置いた」
「住民用と商業用には触るなよ」
卓斗は左手を上げず、荷車と兵士の間へ立った。
「軍用は候補戦対象だ」
「分かってる。だから、病院用と油樽を下ろしてからにしろって言ってる」
「時間を稼ぐつもりか?」
「人の物を勝手に一緒に持ってく方が駄目だろ」
黒旗兵は荷車へ手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。
卓斗へ攻撃の意思はなく、荷車を奪うために力を使う様子もない。
「分離後、軍用箱だけ南へ運ぶ」
「それならいい」
候補戦管理局の職員が間へ入り、三者の合意を記録した。
卓斗は力を使わず、病院用の布と油樽を先に下ろす作業へ加わる。
「戦場なのに、荷下ろししてる」
卓斗が布箱を左腕で支えると、ティナは反対側を持った。
「市街を守りながら戦うなら、これも戦いよ」
「地味だな」
「大事なことは、目立つとは限らないわ」
軍用箱だけを積み直した荷車は、黒旗兵の監視下で南倉庫へ向かった。
群青側は物資を失ったが、病院と市場の品は残り、住民用の流れも止まっていない。
「取られたけど、止めなかった」
卓斗は遠ざかる軍用箱を見た。
「勝敗だけなら不利ね」
「でも、全部止めて病院の布まで巻き込むよりマシ」
「ええ」
ティナは卓斗の左肩へ負担が出ていないことを確認し、次の荷車へ視線を移した。
北工房区では、鐘が鳴ってから間もなく、南側から避難許可を持つ職人十数名が流れ込んできた。
候補戦対象区画へ工具を残してきた者たちで、管理局の誘導に従って非戦闘区域へ移動している。
「二列のまま、扉は使わない!」
絵麻は広い正規路を指した。
「仮設扉は塞がれた時だけ! 今は正面から抜けられる!」
その時、行政区画側から低い振動が伝わり、工房の軒先に積まれていた石材が一つ崩れた。
職人たちが足を止めかける。
「止まらないで!」
ラールは石材の落下地点だけへ白鋼を出し、地面へ当たる直前で形を固定した。
「頭を下げて、そのまま通ってください!」
固定された石材は空中へ浮かず、路肩へ斜めに支えられた状態で止まっている。
職人たちは列を崩さず、その横を抜けた。
「今の振動、戦闘?」
絵麻は中央広場の方向を見た。
「地下かもしれません!」
ラールは工房の壁へ触れず、足元の位相だけを確認した。
「真下ではありません。中央広場から来ています!」
「恵依に送る。私たちはここを守る」
「はい!」
行政記録所では、中央広場の計測杭だけが基準値を下回っていた。
北工房区と外縁補給路は一度上がり、直後に同じ量だけ下がっている。
「始まりました」
恵依は三本の記録線を追った。
「戦闘開始から二分十七秒。候補者の高出力魔法はまだ使われていません」
「流川様。上の部隊移動に合わせて、地下の接続先が切り替わっています」
ゲブは白銅の感知点を一つずつ閉じず、信号の変化だけを読み上げた。
「黒旗の部隊が外縁補給路へ入った時、外縁側が低下。白耀陣営が行政路へ入った時、中央広場側が低下。群青主隊が東行政路へ入った時、北工房区の戻りが一度減っています」
「戦闘出力ではなく、陣営の移動そのものを拾っている?」
「可能性があります」
恵依は地下網の図へ三色の矢印を書き込んだ。
「領地核への接近、補給路の所属変更、部隊数。何に反応しているかはまだ分かりません」
「追いますか?」
「追いません」
恵依は即答した。
「時刻と方向だけを三陣営へ共有します。地下が動いたからといって、地上の役割を変えないように伝えてください」
「承知しました」
中央広場へ近づく東行政路では、群青主隊が最初の防衛柵へ到達していた。
市街領の無所属防衛機構が起動し、石畳から三枚の金属柵がせり上がる。
「自動防衛です!」
ローデリヒは前列を止め、柵の根元へ重圧を集中させた。
上がり切る前の金属柵が途中で止まり、左右の路地へ逃げる道を塞がずに固定される。
「切るのは留め具だけ」
エルザヴェートは自律刃二本を床の隙間へ走らせた。
柵を倒さず、動力線と上昇機構だけを切って、その場へ残す。
「正面は通れます」
ローデリヒが盾兵へ合図を送った。
同じ頃、北西行政路では白耀陣営が鏡界を使い、防衛柵の位置を別の角度から確認していた。
ジークヴァルトは剣を抜かず、盾兵と共に柵を横へ押して歩行路を確保する。
「極光を使わないんだね」
エルザヴェートは屋根越しに見える白い旗へ視線を向けた。
「地下の反応を気にしているのでしょう」
ローデリヒは東側の進路から目を離さなかった。
「こちらも、本数を増やさないでください」
「分かっているよ」
南側の外縁路では、カインが最初の亀裂へ到着していた。
ノアが指摘した壁は、地下の振動を受けて細い石片を落としている。
「人を止める」
カインは黒旗の小隊へ短く命じた。
「外縁路の軍用荷車は?」
ガルムが尋ねると、カインは壁を見たまま答えた。
「後回しだ」
「群青と白耀に中央へ先行される」
「崩れたら東市場の道が塞がる」
ノアは壁の亀裂へ近づき、仮命縫合〈ステッチ〉を細く伸ばした。
白い糸状の光が石の裂け目へ入り、完全修復ではなく崩落を止める形で縫い合わせる。
「カイン、上を見て」
ノアの声に、カインは壁の上部へ視線を上げた。
緩んだ石材が一つ、黒旗兵の頭上へ落ちようとしている。
兵士が反射的に剣を抜き、落石へ斬りかかった。
「待て」
カインの声が先に届いた。
落石は剣へ当たる前に、カインが素手で横へ弾いた。
攻撃を仕掛けた相手が人ではなく石であっても、刹那逆断〈ファリブル〉を使う必要はないと判断したらしい。
「能力を使わなかったの?」
ノアが尋ねると、カインは落ちた石を見た。
「必要ない」
「右手は?」
「平気だ」
「見せて」
「傷はない」
「見せて」
カインは一瞬だけ黙り、右手を開いてノアへ見せた。
皮膚に浅い赤みはあるが、裂傷も腫れもない。
「本当にないね」
「言った」
「言うだけじゃ足りない時がある」
カインは返事をせず、壁の補強が終わるまでその場に残った。
黒旗陣営は外縁補給路の確保で一歩遅れたが、東市場へ続く道は崩れずに済んでいる。
候補戦開始から半刻が過ぎる頃、三陣営は別々の道から中央広場外周へ到達していた。
白耀は北西行政路、群青は東行政路、黒旗は南外縁路から入り、無所属旗を中心に三角形を作る。
広場にはまだ領地核へ続く行政塔の入口が閉じたまま残っている。
三陣営の兵士たちは互いへ武器を向けず、候補者の命令を待っていた。
「白耀、停止」
ジークヴァルトは北西側の灰色線手前で右手を上げた。
ヘレナの鏡界が三陣営の位置を映し、非戦闘区域へ攻撃が流れない角度を確認する。
「群青も止まる」
ナーヴァは東側で前進を止めた。
エルザヴェートの自律刃四本は広場へ出ず、主隊の頭上で静止している。
「黒旗は?」
ミレーネが南側を見た。
カインは一人だけ前へ出ず、ノアと黒旗兵が広場へ到着するまで待っていた。
全員の位置を確認してから、灰色線の手前へ進む。
「揃ったね」
エルザヴェートは腕を組んだまま、ジークヴァルトとカインを順に見た。
「白耀、刹那、それから自律。三つの剣が同じ旗を取りに来た」
「勝者は一人です」
ジークヴァルトは剣を抜かず、穏やかな声で答えた。
「途中で守ったものが同じでも、領地核を譲る理由にはなりません」
「同意するよ」
エルザヴェートは楽しそうに笑った。
「カインは?」
「話す必要はない」
カインは行政塔の入口へ視線を向けた。
「先に入る」
「その前に、ボクたちがいる」
「邪魔なら越える」
ローデリヒが剣柄へ手を添えたが、カインへ敵意を向けた瞬間に動けるよう、抜刀まではしなかった。
ヘレナも鏡界の角度を変えただけで、攻撃反射の面は作らない。
卓斗は東市場から届く信号鏡越しに、三候補が向かい合う広場を見た。
自分の担当場所から離れず、中央へ行こうともしない。
「本当に三人揃った」
卓斗の声に、ティナは次の荷車を確認しながら答えた。
「だからといって、こちらの役割は変わらないわ」
「分かってる。軍用箱二つ、病院用一つ。先に分ける」
「ええ」
中央広場の地下では、三色の候補者印が同時に接近したことで、古い環状刻印が一つずつ光り始めていた。
地上の誰もまだその全体を見ていないが、行政記録所の計測杭は同じ時刻に三度震える。
「流川様」
ゲブは三本の記録線を見た。
「地下が、三方向を同時に開きました」
「候補者三人が中央広場へ入った時刻と一致しています」
恵依は記録を閉じず、しかし流れを追わなかった。
「全陣営へ警告を送ります。高出力禁止。領地核への接触前に地下反応を確認するよう伝えてください」
「承知しました」
警告の灰色信号が中央広場へ上がった。
ジークヴァルトは信号を確認し、剣から手を離した。
エルザヴェートも自律刃を増やさず、カインは行政塔へ向けていた一歩を止める。
「地下まで、三竦みを待っていたようだね」
エルザヴェートは足元の石畳を見た。
「誰かに待たされるのは、あまり好きではない」
「同感です」
ジークヴァルトは群青と黒旗の位置を見た。
「だからこそ、地下の意図ではなく、私たち自身の判断で進むべきでしょう」
「勝てばいい」
カインは短く言った。
「でも、地下は壊さない」
ノアの声が南側から届いた。
カインは振り返らず、僅かに頷く。
三人の候補者は、誰も最初の攻撃を選ばなかった。
白耀の剣は鞘にあり、自律の刃は頭上で止まり、刹那の影も相手の攻撃を待たずに立っている。
中央広場の無所属旗が朝風を受け、三色の軍旗の間で揺れた。
勝利へ進む道は一つでも、誰を守り、何を止め、どこで剣を抜くかは三人とも違っている。
白耀、自律、刹那。
三つの剣が同じ戦場で互いを測り、市街領の本当の争奪戦が始まろうとしていた。




