第三章 23 『刹那の街』
ヴァイス峡門領を出発した群青陣営は、南東へ続く街道を半日かけて下っていた。
山と岩壁に挟まれた峡門周辺とは違い、進むほど土地は緩やかに開け、荷車が三台並べる幅の街道へ商人や職人の往来が増えていく。
後方には、制圧したばかりのヴァイス峡門領が残っている。
群青側の監視班、旧中立守備隊、候補戦管理局が共同で領地核と地下中央環を管理し、登録後も市街領方面へ流れる微弱な欠損を記録していた。
「ヴァイスから四回目の定時報告」
ミレーネは馬車内の卓上へ、小さく畳まれた記録紙を広げた。
領地核の戻り値は安定しているが、地下へ失われる魔素だけが一刻ごとに南東へ偏っている。
「ガルド側は?」
エルザヴェートは向かいの座席で腕を組み、記録紙を覗き込んだ。
「欠損自体は続いてる。でも、前より弱いよ」
ミレーネはガルド、ヴァイス、ハイゼンの数値を順に指した。
「代わりに、市街領に近い外縁観測所の揺れが強くなってる。地下網の中心が移ったというより、使われる経路が切り替わった感じかな」
「流川様。時刻差も縮まっています」
ゲブは恵依の横で、三地点の計時印を並べていた。
「ヴァイスで欠損が発生してから、外縁観測所が反応するまで三秒以内です。地中を通常の速度で移動しているとは考えにくいです」
「同じ接続先が、市街領側の導線を開いた可能性があります」
恵依は推測と確認済みの事実を別々の欄へ書いた。
「ただし、何者かが意図して切り替えたのか、候補戦の所属変更に応じて自動的に変わったのかは分かりません」
「どっちでも面倒なのは変わらないな」
卓斗は馬車の窓枠へ左腕を置き、流れていく街道を眺めていた。
右手首の固定布は薄くなったものの、強い魔素を通せる状態ではなく、左肩にも前日の負担が残っている。
「面倒で済ませない」
ナーヴァは前方の御者台から振り返らずに言った。
「分からないなら、近づく前に止まれる道を作る」
「分かってるって」
「右手は?」
「熱なし。痺れもなし」
「左肩は?」
「動かさなきゃ平気」
「動かさない」
「今日は街の物流見るだけだろ?」
「だから動かさない」
ナーヴァの断定に、卓斗は小さく息を吐いた。
隣に座るティナは白銀の瞳で卓斗の右手首を見た後、窓の外へ視線を移す。
「市街では、引力も斥力も広く使わないことね」
「人多いから?」
「それもあるわ。荷車、看板、屋根瓦、窓、路地の足場。動かせる物が多すぎる場所では、狙った物だけを選ぶ難度が上がる」
「戦うなら最悪の場所だな」
「だから、今日は戦わない」
ナーヴァが再び会話へ入り、卓斗は肩をすくめた。
「団長の耳、馬車の壁貫通してない?」
「聞こえる声で話してる」
「はい」
街道の右側では、絵麻とラールが小型馬車に並んで座っていた。
絵麻は右脇腹へ巻かれた固定帯を上着の下で確かめながら、路地へ枝分かれする細道を目で追っている。
「市街に入っても、空間を広げるのは禁止?」
絵麻が尋ねると、ラールはすぐに首を縦へ振った。
「広げないです! 目で見える道と、近くの壁の厚さだけです!」
「ナーヴァに聞いたんだけど」
「私も答えます!」
「元気だね」
ナーヴァは前方を見たまま、絵麻へ条件を伝えた。
「避難路を見る。でも、全部を一人で探さない。候補戦管理局の地図を先に使う」
「古い路地が地図と違ったら?」
「その場所だけ見る」
「地下へ続く空洞があったら?」
「触らない。印を残す」
「分かった」
「転移は?」
「緊急時だけ」
「本当に?」
「今のはちゃんと分かったって顔だったでしょ」
「前も同じ顔」
「その返し、気に入ってない?」
ラールが小さく笑い、絵麻は横目で睨んだ。
会話の間にも馬車は進み、やがて前方に灰色と赤茶色の屋根が密集した市街領の全景が見えてくる。
市街領は城壁で完全に囲まれていなかった。
四方へ伸びる街道ごとに低い関門があり、その内側へ商業区、工房区、住民区、倉庫区が重なるように広がっている。
候補戦中でも、街の営みは止まっていなかった。
市場には野菜や布地を積んだ屋台が並び、鍛冶場からは金属音が響き、商人たちは候補戦管理局の灰色線を避けながら荷車を動かしている。
「人、普通に多いな」
卓斗は東関門前で馬車を降り、往来する人々を見た。
ガルドやヴァイスのように戦闘開始前に全住民を避難させるには、街が広すぎる。
「安全区域が細かく分かれています」
恵依は関門脇の案内板を確認した。
「市場、病院、北工房区、南住民区は非戦闘区域。中央広場と外縁補給路、領地核へ続く行政区画だけが候補戦対象です」
「線一本越えたら戦場?」
卓斗が灰色の石畳を見下ろすと、候補戦管理局の案内役が首を横へ振った。
「開始宣言前は、どこも戦闘禁止です」
案内役の男性は市街地図を広げた。
「宣言後も、対象区画の境界には結界を展開します。ただし、住民の移動が完全に止まるわけではありません。各陣営には、戦闘より先に避難と物流の分離を求めます」
「物流を止めれば、街全体が困る」
ナーヴァが確認すると、案内役は頷いた。
「市街領は周辺五領の食料と日用品を集積しています。軍用路だけを封鎖し、住民用と商業用は可能な限り維持するのが規則です」
「ガルドより難しいね」
エルザヴェートは腕を組んだまま、関門の向こうを見た。
「鉱石領なら、軍需と住民物資を荷札で分けられた。でも、ここでは同じ荷車が店と守備隊の両方へ運ぶこともある」
「だから、今日の目的は攻撃ではなく確認です」
ローデリヒは群青側の騎士たちへ、携行武器を鞘から抜かないよう指示した。
「候補戦管理局の許可範囲で、補給路、避難経路、地下点検口を調べます。カイン陣営との接触があっても、先に攻撃しないこと」
「カイン本人が来ても?」
群青の若い騎士が尋ねると、ローデリヒは即答した。
「同じです。攻撃されない限り、武器を抜かない」
「彼の能力は、攻撃を始めた瞬間へ干渉するそうだ」
エルザヴェートが楽しそうに付け加えた。
「先に斬ろうと考えた者から、すでに斬られている。試したい者はいるかい?」
若い騎士は顔を引きつらせ、両手を剣柄から離した。
「いません」
「賢明だね」
「エルザヴェート様。部下を脅さないでください」
「事実を説明しただけだよ」
関門内の仮設会議所で、市街領の調査範囲が決められた。
エルザヴェート、ローデリヒ、ナーヴァは候補戦管理局とカイン陣営の代表者を待ち、ミレーネと恵依は行政区画の地下記録を確認する。
絵麻とラールは北工房区から南住民区へ抜ける避難経路を担当した。
卓斗とティナは東市場の物流を見ながら、軍用物資と住民用物資がどこで混ざるかを調べる。
「俺、物流の専門家じゃないけど」
卓斗が割り当て表を見て言うと、ミレーネは市場の運搬記録を渡した。
「ガルドで、止める物と通す物を見分けてたでしょ。今回は力を使わず、どこで分けられるかを見るだけ」
「怪しい荷車を引き寄せたりは?」
「禁止」
ナーヴァが答えた。
「聞いただけだって」
「聞く前に考えた」
「読心術やめてくれる?」
「顔」
「また顔か」
ティナは卓斗から運搬記録を取り、荷札の色と行き先を確認した。
「住民用は緑、商業用は黄、守備隊用は赤。でも、途中で積み替える荷車には二色以上付いているわ」
「赤だけ止めても、店の物まで止まりそうだな」
「だから積み替え場所を見るのよ」
「了解」
東市場へ入ると、候補戦前の緊張よりも日常の音が先に届いた。
客を呼ぶ声、包丁がまな板を叩く音、荷車の車輪が石畳を擦る音が狭い通りへ重なっている。
群青の外套を見た住民たちは一瞬だけ視線を向けたが、露骨に逃げる者はいなかった。
すでに黒い旗を掲げたカイン陣営の補給班が市場へ出入りしており、候補者の軍勢を見ること自体には慣れ始めている。
「黒い旗、先に入ってる」
卓斗は市場中央の倉庫前へ立つ黒旗を見た。
「市街の外縁補給路を押さえているのでしょう」
ティナは守備隊用の赤札を付けた荷箱が、黒旗の管理員へ渡される流れを見た。
「でも、商業用の黄札には触れていない。全部を軍用へ回しているわけではないようね」
「カインも住民物資は残してる?」
「今見える範囲では、そう」
卓斗は赤と黄の札が同じ荷車へ積まれる場所を探し、市場北側の共同倉庫へ向かった。
道幅は狭く、荷車同士が擦れ違うたびに屋台の布が揺れる。
角を曲がったところで、前方から黒い外套を纏った青年が歩いてきた。
短い黒髪と感情の薄い目を持ち、人混みの中でも周囲の誰とも歩調が重ならない。
卓斗は無意識に進路を半歩ずらした。
青年も同じ方向へ避けたため、二人は一度止まり、互いに逆側へ動き直す。
「……どうぞ」
卓斗が先を譲ると、青年は短く答えた。
「お前が行け」
低い声に敵意はなかった。
ただ、相手の動きを一度見れば次にどちらへ行くか分かっているような、妙な確信が残っている。
「じゃあ、行くけど」
卓斗は青年の横を通り過ぎた。
すれ違う瞬間、右手首の竜紋が熱を持ったわけではないのに、首筋へ冷たい感覚が走る。
攻撃されたわけでも、魔素を向けられたわけでもない。
卓斗が相手を警戒し、何かあれば斥力を使うと考えた、その一瞬だけを見られたような感覚だった。
「タク」
ティナは数歩先で足を止めた卓斗へ声をかけた。
「今、何をしようとしたの?」
「何もしてない」
「魔素が左手へ寄った」
卓斗は自分の左指を見た。
黒は出ていないが、反射的に力を集めようとしていたのは事実だった。
「すれ違っただけなんだけど、何か嫌な感じした」
「地下ではないわ」
ティナは振り返り、遠ざかる青年の背中を見た。
「相手から魔素を向けられた反応でもない。タクが自分で警戒しただけ」
「じゃあ、考えすぎ?」
「そうとも限らない。でも、今は追わない」
「分かってる」
青年は一度も振り返らず、市場南側の路地へ消えた。
黒い外套の背中を見送った卓斗は、共同倉庫へ向かう足を再び動かす。
路地へ入った青年の前には、治療鞄を肩へ下げたノアが待っていた。
彼女は市場側を覗き、卓斗の金髪と群青の外套を確認する。
「今の人、群青側?」
ノアが尋ねると、青年は頷いた。
「成瀬卓斗」
「知ってたの?」
「報告で見た」
「何かされた?」
「何も」
青年――カインは、卓斗が去った方向へ視線を戻さなかった。
「あいつが先に警戒した」
「だから能力を使った?」
「使っていない」
「本当に?」
「攻撃されていない」
ノアはカインの横顔を見た。
カインの刹那逆断〈ファリブル〉は、相手が攻撃を仕掛ける刹那へ入り込み、結果を先に確定させる。
だが、卓斗が警戒しただけで攻撃を選ばなかったため、カインも干渉しなかった。
「群青側も、街では戦わないつもりみたいだね」
ノアは市場を行き交う住民へ視線を移した。
「なら、こっちも先に避難の道を決めよう。候補戦が始まってからじゃ遅い」
「もう決めている」
カインは南住民区へ続く三本の路地を見た。
「西は病院。中央は子供と老人。東は商人の荷車を残す」
「また自分だけ前に残るつもり?」
「俺が残るのが早い」
「早いからって、一人で全部決めないで」
ノアは治療鞄の紐を握り、カインの正面へ回った。
「縫合役が必要になる前に、私にも配置を教えて。傷が出てから呼ばれても遅い」
カインは数秒だけ黙った後、懐から折り畳んだ地図を出した。
「中央広場の北。そこにいろ」
「命令じゃなくて、理由」
「三方向へ行ける。病院にも近い」
「最初からそう言って」
ノアは地図を受け取り、避難班の印を加えた。
「エルザヴェートたちと話す時も、必要なことは口にしてね」
「話すことはない」
「候補戦前の確認があるでしょ」
「ガルムが話す」
「ガルムに全部任せると、カインが何を守りたいのか消えるよ」
カインの表情は変わらなかったが、返事もすぐには出なかった。
ノアはそれ以上追わず、中央広場へ向かう道を歩き始める。
***************
北工房区では、絵麻とラールが候補戦管理局の避難地図を確認していた。
石造りの工房が並ぶ通りは熱と煙が多く、火災が起きれば狭い路地へ煙が溜まる。
「この地図、二年前のまま」
絵麻は地図にない増築部分を見た。
「工房が一軒増えて、裏の路地が半分塞がってる」
「壁の向こうに細い空間があります!」
ラールは増築された壁から一歩離れ、白鋼の位相感覚で厚みだけを読んだ。
「人一人なら通れます。でも、荷車は無理です!」
「緊急避難路には使えるけど、普段から開けるのは駄目だね」
絵麻は管理局の案内役を呼び、地図へ新しい線を加えた。
「ここ、壁を壊さずに扉を付けられる?」
「所有者の許可が必要です」
案内役は工房の看板を確認した。
「候補戦開始前なら、管理局から避難設備として交渉できます」
「じゃあ、先に交渉して。戦闘中に私が穴を開けるより安全」
「承知しました」
ラールは嬉しそうに絵麻を見上げた。
「絵麻ちゃん、先に壊さないって言えました!」
「褒め方が幼児向けじゃない?」
「でも、前なら先に開けようとしました!」
「……否定しづらい」
工房区の南端には、古い地下点検口が一つ残っていた。
候補戦管理局の封印が施され、現在は使用禁止の札が掛けられている。
「地下反応は?」
絵麻が尋ねると、ラールは封印へ触れず首を傾げた。
「奥に空間はあります。でも、真下じゃないです。斜めに遠くへ続いています」
「ヴァイスから来た線かも」
絵麻は点検口の位置だけを記録し、空間を伸ばそうとはしなかった。
「恵依に送る。私たちは開けない」
「はい!」
行政区画の記録室では、恵依とミレーネが市街領の地下図を広げていた。
現在使われている排水路、倉庫地下、領地核の供給線は細かく残っているが、建国以前の導線は途中で途切れている。
「ここだけ、図面が削られています」
恵依は中央広場の地下へある空白を指した。
「破損じゃなくて、後から消された跡だね」
ミレーネは再録魔典〈パリンプセスト〉で紙面の重なりを読み、薄く残る古い線を再生した。
「元は北工房区の点検口から、中央広場の下を通って外縁補給路へ続いてた」
「領地核の真下を避けています」
「候補戦用の供給線が後から上へ重なったんだろうね」
ゲブは白銅を使わず、記録室に保管された点検値を時刻順に並べた。
「流川様。昨夜から、北工房区と中央広場で交互に欠損が発生しています」
「一方が下がると、もう一方が戻る?」
「はい。二つの地点で流れを受け渡しているように見えます」
「移動ではなく、切り替えかもしれません」
恵依はヴァイスから続く線を現行図へ重ねた。
「市街領では、人や物資が多い場所に合わせて地下の接続先も変わっている可能性があります」
「候補戦の戦力じゃなく、街の動きに反応してる?」
ミレーネは市場の物流記録へ視線を移した。
「まだ分かりません」
恵依は断定を避けた。
「ただ、軍用物資が外縁補給路へ集中した時刻と、中央広場側の欠損が増えた時刻は近いです」
「地下の誰かが、上の動きを見てる可能性もある」
「あります」
恵依は未知の第三者に関する記録を別紙へ置いた。
「ガルド地下にいた人物と同じかは分かりません。それでも、古い導線が自然に動いているだけとは考えにくくなっています」
正午を過ぎる頃、各班は中央広場へ戻った。
広場は市場と行政区画の境界にあり、中央にはまだ所属の変わっていない市街領の旗が立っている。
候補戦管理局は広場の半分を会談区域として灰色線で囲み、周囲の店には営業を続けてもよいと伝えていた。
住民たちは距離を取りながらも、三人目の剣聖候補が現れる場を気にしている。
「カイン陣営の代表が来ます」
ローデリヒは南側の通りへ視線を向けた。
最初に現れたのは、質の良い濃紺の外套を纏った三十代の男だった。
整えられた髭と柔らかな笑みを持ち、候補戦管理局の立会官へ親しげに一礼する。
「——ガルム・ハイドと申します」
男はエルザヴェート陣営へ向き直った。
「市街領の外縁補給路を管理する支援団体の代表であり、カイン候補の交渉窓口を務めています」
「裏社会の顔役とも聞いているよ」
エルザヴェートは腕を組んだまま笑った。
「表向きの肩書だけで挨拶を終えるのは、少し寂しくないかい?」
ガルムの笑みは崩れなかった。
「帝国の噂は、事実より速く歩きます。私が貧民街の資金と人脈を預かっていることは否定しません」
「カインを候補者へ押し上げたのも君だ」
「彼には力がある。市街の下で生きる者たちには、力を持つ代表が必要でした」
「代表か。所有物ではなく?」
エルザヴェートの問いに、ガルムは一瞬だけ目を細めた。
「カインは誰の所有物にもなりません。それができるほど、扱いやすい男でもない」
「そこは信じてもよさそうだね」
ガルムの後ろから、黒い外套を纏った青年が広場へ入ってきた。
卓斗は市場ですれ違った相手だと気づき、無意識に姿勢を正す。
「あいつ」
卓斗の小さな声を聞き、ティナが青年へ視線を向けた。
「市場の人?」
「うん」
青年の隣にはノアが歩き、少し離れた位置で避難班の地図を抱えている。
カインは灰色線の手前で止まり、エルザヴェートを真っ直ぐ見た。
「君が『刹那の影』か」
エルザヴェートは楽しそうに目を細めた。
「ようやく会えたね、カイン・レムナント」
「……剣姫」
カインの返答は短かった。
視線はエルザヴェートの顔ではなく、腕を組んだ姿勢と周囲に刃が出ていないことを確認している。
「腕を組んだまま来たのか」
「ボクはいつもこうだよ」
「他人に戦わせる姿勢だ」
カインの声に感情はほとんどなかったが、嫌悪だけは隠れていない。
「自律刃もボクの剣だよ」
「剣を握らない奴が、守ると言うな」
広場の空気が僅かに硬くなった。
ローデリヒが一歩前へ出かけたが、エルザヴェートは腕を解かず目だけで制する。
「随分と嫌われたものだね」
「動かずに勝つ奴は嫌いだ」
「効率的だとは思わない?」
「思わない」
「理由を聞いても?」
「自分が傷つかない位置から、誰を残すか決められるからだ」
カインの視線が一瞬だけ南住民区へ向いた。
石造家屋の間では、候補戦管理局の職員が子供と老人の避難名簿を作っている。
「下にいる奴は、上の判断で切られる」
「だから君は剣聖になる?」
エルザヴェートが尋ねると、カインは頷かなかった。
「勝てばいい。それ以外に価値はない」
「答えになっていないね」
「答える必要がない」
ノアはカインの横で小さく息を吐いた。
言葉が足りないことを責めるように見たが、代わりに説明を奪うこともしない。
「今回は街を壊したくない」
エルザヴェートは広場周辺の店と住民を見た。
「できれば、頭を使う勝負がいい。軍用路と領地核を巡って、住民区画は巻き込まない形にしよう」
「勝てば同じだ」
カインは即答した。
「方法は?」
「必要な道を先に取る。邪魔するなら斬る」
「民間人も?」
「斬らない」
「降伏者は?」
「斬らない」
「なら、少しは話が合いそうだ」
「合わない」
エルザヴェートは楽しそうに笑ったが、カインの表情は変わらなかった。
卓斗は二人の会話を聞きながら、カインの立ち位置を見ていた。
灰色線の内側へ入っているのに、誰かが剣を抜けば即座に届く距離も、住民が逃げる南側の道も同時に見える場所を選んでいる。
「市場で会ったよな」
卓斗が声をかけると、カインは視線だけを向けた。
「会った」
「俺のこと、先に知ってた?」
「報告で見た」
「警戒しただけで、何かされた感じしたんだけど」
「何もしていない」
「本当に?」
「お前は攻撃しなかった」
カインの言葉に、卓斗は眉を寄せた。
「攻撃しようとしたら?」
「お前が反応するより早く、その喉を裂く」
周囲の群青騎士が息を呑んだ。
カインは脅しとして声を強めず、起こる結果を説明するように告げている。
「怖い説明を普通のテンションでするなよ」
卓斗は左手を上げず、首元へ触れもしなかった。
「でも、攻撃しなきゃ何もしない?」
「必要がなければ」
「じゃあ、今はしない」
「そうしろ」
ティナはカインを見たまま、卓斗の足元へ白銀を広げなかった。
能力の条件がまだ発言だけでしか分からない以上、守ろうとして先に空間を変えることも攻撃の開始と取られる可能性がある。
「タク。試さないことね」
「試すわけないだろ」
「確認よ」
「分かってる」
恵依はカインの発言を記録したが、刹那逆断〈ファリブル〉の条件欄は空白のまま残した。
攻撃の意思、魔素の発動、身体動作のどこへ干渉するかは、まだ確認できていない。
「カインさん」
恵依が静かに呼ぶと、カインは彼女へ視線を移した。
「候補戦開始前に、地下異常の記録を共有したいです」
「知っている」
「市街領でも欠損を確認していますか?」
「昨夜から増えた」
「北工房区と中央広場で交互に?」
「そうだ」
「記録を見せてもらえますか?」
「ノア」
カインが名を呼ぶと、ノアは抱えていた紙束から地下点検記録を取り出した。
「候補戦管理局へも同じ物を渡してる」
ノアは恵依へ記録を差し出した。
「地下を勝手に開けてない。カインも、ガルムも触ってない」
「ありがとうございます」
恵依は点検値と時刻印を確認し、群青側の記録と照合した。
「一致しています。ヴァイスの所属変更後、市街領側の欠損が増えています」
「なら、ここも同じ網だ」
カインは地下へ視線を落とした。
「戦えば増えるのか?」
「可能性が高いです」
「候補戦は止めない」
カインの答えに迷いはなかった。
「地下のために、この街を他の候補へ渡す気はない」
「でも、高出力を使えば危険が増えます」
「使わず勝つ」
「簡単に言うね」
エルザヴェートが会話へ戻ると、カインは彼女を見た。
「お前より早い」
「実に自信がある」
「事実だ」
ガルムは二人の間へ一歩入り、候補戦管理局の立会官へ向き直った。
「会談の目的は、開始区域と住民保護の確認です。思想の優劣は、戦場で示していただきましょう」
「君は早く始めたいようだね」
エルザヴェートが尋ねると、ガルムは笑みを崩さなかった。
「市街領の補給権と交易税は、周辺五領へ影響します。曖昧な中立状態を長引かせる方が、住民の負担になる」
「カインが取れば、支援団体へ資金が入る」
「それも事実です」
ガルムは否定しなかった。
「貧民街へ食料と薬を回すには金が要る。善意だけでは倉庫も治療所も維持できません」
「カイン本人の目的と、君の利益が同じとは限らない」
「完全に同じである必要はありません。互いに必要だから組んでいる」
カインはガルムの言葉を否定しなかったが、同意を示すこともなかった。
ノアは二人の間にある距離を見たまま、治療鞄の紐を握り直す。
その時、広場北側の見張り台から白い信号鏡が上がった。
候補戦管理局の伝令が階段を駆け下り、立会官へ新しい報告書を渡す。
「ジークヴァルト陣営が北西外縁へ到着しました」
立会官は三陣営へ聞こえる声で告げた。
「白耀陣営からも、市街領の地下異常調査と候補戦参加の申請が提出されています」
「三つになったね」
エルザヴェートは白い旗が見える北西の関門へ顔を向けた。
「白耀、群青、刹那。市街でやるには少し賑やかすぎる」
「増えても同じだ」
カインは広場の無所属旗を見上げた。
「先に取る」
「ジークヴァルトも同じことを言うだろうね」
候補戦管理局は三陣営の到着を受け、開始宣言を翌朝へ設定した。
夜間に住民避難、物流分離、非戦闘区域の結界確認を行い、三陣営が同じ時刻から動けるよう調整する。
「今夜は攻撃禁止です」
立会官はエルザヴェート、カイン、北西関門へ到着した白耀陣営の伝令へ順番に確認を取った。
「各陣営は指定宿営区へ戻り、明朝の鐘まで対象区画へ兵を入れないでください」
「異論はないよ」
エルザヴェートが答えた。
「ない」
カインも短く返した。
会談が終わると、ガルムは候補戦管理局と交易路の使用条件を詰めるため広場へ残った。
カインとノアは南住民区へ戻り、避難班の配置を最終確認する。
「カイン」
ノアは歩きながら呼びかけた。
「剣姫に言わなくてよかったの?」
「何を」
「この街を取る理由」
「必要ない」
「勝てばいいだけじゃ、ガルムのために戦ってるように見える」
「見せるために戦わない」
「でも、何も言わなかったら、他の人が勝手に意味を決めるよ」
カインは足を止めなかった。
南住民区の入口では、子供たちが管理局の職員に連れられ、安全区域へ移動している。
「守れればいい」
カインの返答は短かった。
「誰にどう見えるかは要らない」
「カインがそれでいいなら、私は止めない」
ノアは少しだけ視線を落とした。
「でも、一人で傷ついた時まで黙るのは駄目だからね」
「傷つかない」
「そういう話じゃない」
カインは返事をせず、避難名簿を受け取った。
言葉を増やさなくても、子供と老人の人数だけは一人ずつ確認していく。
群青陣営の宿営区では、各班の調査結果が一枚の市街地図へ重ねられていた。
市場の共同倉庫、北工房区の未登録避難路、中央広場地下の空白、南住民区の優先退避路が色分けされている。
「軍用物資は、東市場から中央倉庫へ入る前に分けられる」
卓斗は赤と黄の荷札が混ざる地点を指した。
「倉庫に入ってから止めると店の荷物まで巻き込む。東側の積み替え場なら、守備隊用だけ別の道へ回せる」
「候補戦が始まったら、卓斗くんはその地点を担当してください」
恵依は地下点検口の位置を地図へ加えた。
「ただし、引力で荷車を止めるのは最後です。人が多すぎます」
「分かってる。札と伝令で先に止める」
「左肩もある」
ナーヴァが付け加えた。
「それも分かってる」
「絵麻は北工房区」
「地図にない避難路、扉を付けてもらえることになった」
絵麻は工房主の許可印を見せた。
「明朝までに管理局が仮扉を作る。私はそこを使わなくて済むように誘導する」
「空間転移は?」
「緊急時だけ」
「ラール」
「私も見ます!」
「二人で確認」
「はい!」
ミレーネは三陣営の配置予測を地図へ置いた。
黒い旗は南と外縁補給路、白い旗は北西関門、群青は東市場と中央広場へ近い。
「カインは正面から中央広場へ来ないと思う」
「理由は?」
ローデリヒが尋ねると、ミレーネは外縁補給路へ黒札を動かした。
「領地核を取る前に、他陣営の補給を切る方が速いから。本人が正面へ出れば、攻撃した側から止められる。補給路を先に取れば、戦わなくても動きを鈍らせられる」
「カインの能力を避けて、道を守る必要があります」
恵依は卓斗へ視線を向けた。
「直接彼へ魔素を向けないでください。荷車や路面を動かす場合も、攻撃と判断される範囲が分かりません」
「本人じゃなく、周り止めても駄目かもしれない?」
「はい。カインさんの進行を妨害する意図が発動条件に含まれる可能性があります」
「じゃあ、出会ったら避ける?」
「一人で判断しない」
ナーヴァが答えた。
「見つけたら位置を共有。攻撃しない。エルザヴェートか私が判断する」
「了解」
エルザヴェートは腕を組んだまま、中央広場と外縁補給路の間を見た。
「カインはボクを嫌っている。なら、ボクが見える位置へ出れば寄ってくる可能性が高い」
「エルザヴェート様を囮へ使う案は認めません」
ローデリヒは即座に反対した。
「まだ案とは言っていないよ」
「考えた時点で反対します」
「君も顔を読むようになったね」
「長年お仕えしていますので」
「候補戦で勝つには、カイン本人を止める必要がある」
エルザヴェートは笑みを薄めた。
「でも、攻撃した瞬間に結果を取られるなら、ボクの自律刃と彼の刹那がどうぶつかるか、試す価値はある」
「試すために負傷するのは認めない」
ナーヴァの短い声に、エルザヴェートは目を向けた。
「候補者同士の戦いだよ?」
「勝つために必要なら戦う。でも、興味だけで試さない」
「厳しいね」
「必要」
「分かった。明日は、街を守るために必要な範囲で戦う」
夜が深まるにつれ、市街領の主要路から住民の姿が減っていった。
市場の屋台は非戦闘区域へ寄せられ、工房の炉は火を落とし、三陣営の兵士は指定宿営区から出ずに朝を待つ。
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地上の動きが静まった頃、中央広場のさらに下にある古い地下導線では、別の足音が響いていた。
現行図面にない石廊下を、鉄色の靴を履いた人物が一人で進んでいる。
壁面にはガルド、ハイゼン、ヴァイスで確認されたものと同じ環状刻印が並び、その一部だけが淡く明滅していた。
人物は中央広場の真下で足を止め、黒い手袋を嵌めた指を古い石盤へ触れさせる。
石盤へ流れ込んだ魔素は、群青でも白耀でも、カイン陣営の黒い旗印とも異なる色をしていた。
地上の三陣営が配置を変えるたび、地下の刻印が一つずつ目を覚まし、市街領の外縁補給路と領地核へ細い線を伸ばしていく。
「……次も、動け」
低い声が石廊下へ落ちた。
古い導線が脈打ち、中央広場の下から三方向へ魔素を送り始める。
地上では誰もまだ気づかないまま、白耀、群青、刹那の三つの旗が動き出す朝を、地下の第三者も待っていた。




