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第三章 22 『二人の勝者』



 ヴァイス峡門領の中央塔では、地下から続く振動が弱まっても、自動防衛機構だけは止まっていなかった。


 東西の通路で停止した無人剣兵に代わり、塔の外壁から細い魔導刃が次々とせり出し、領地核へ近づく両陣営を同じ敵として捉えている。


 空には現剣聖レオニードの均衡領域が残り、突出した魔素出力だけを一定域へ押し戻していた。


 だが、エルザヴェートとジークヴァルトは規則に止められるより先に、自分たちの判断で高出力の使用を抑えている。


「——中央塔まで、残り百二十メートルです」


 ローデリヒは東側通路の折れ目から塔前広場を確認した。


 群青陣営の前には二基の回転刃と、床下へ収納された落下柵が残っている。


「白耀側は?」


 エルザヴェートは腕を組んだまま、西側の白い旗を見た。


「同程度です。わずかに先行していますが、南棟の負傷者搬送で一隊を残しています」


「なら、まだ競争になるね」


「地下反応を増やさない範囲で、です」


 ローデリヒが念を押すと、エルザヴェートは穏やかに笑った。


「分かっているよ。ボクの剣を全部出せば速い。でも、それで地下が動くなら、今日は速さの使い方を変える」


 エルザヴェートの周囲に残る自律刃は八本だけだった。


 四本は前方の防衛設備へ向き、残る四本は東門、北側避難路、後方の補給列へ分けられている。


「前へ使えるのは四本です」


 ミレーネは自律刃の配置と、白耀側の進行速度を同じ記録紙へ書き込んだ。


「ジークヴァルトは極光なし。ヘレナの鏡界と通常兵だけで進んでる。純粋な部隊速度なら、向こうが少し上だね」


「守りを減らせば追いつける」


 エルザヴェートは北側の住民列へ向いた刃を一度見た。


「でも、減らさない」


「うん。それでいいと思う」


 ミレーネは余計な励ましを加えず、作戦図へ次の進路を書いた。


「中央塔へ一直線じゃなく、右の整備路を使おう。距離は伸びるけど、回転刃を横から止められる」


「ローデリヒ。足場を頼む」


「承知しました、エルザヴェート様」


 ローデリヒの重圧が整備路入口へ伸びた。


 床板の下で起動しかけていた落下柵が重さを受け、半分だけ持ち上がった状態で停止する。


「今だね」


 エルザヴェートの自律刃二本が床の隙間へ入り、落下柵を動かす歯車と魔素線を切り離した。


 柵は落下せず、重圧に支えられたまま固定される。


「前列、通過してください!」


 ローデリヒの号令で群青の盾兵が一列ずつ整備路へ入った。


 狭い通路へ密集しないよう、五メートル間隔を保って進む。


 中央後方では、ナーヴァが東門、北側避難路、整備路の三方向を見渡していた。


 戦況だけを追わず、負傷者の数、住民列の残り、補給物資の位置を順番に確認している。


「卓斗。補給列、動かす」


「中央塔の近くまで?」


「手前の石柱まで。そこから先は行かない」


「了解」


 卓斗は左手を肩の高さまで上げず、腰の横へ開いた。


 軍用荷車三台の車輪へ極めて弱い斥力を当て、傾いた石畳から外れないよう進行方向だけを補正する。


「タク。二台目の左後輪」


 ティナが荷車の足元を見た。


「溝へ落ちかけているわ」


「見えた」


 卓斗は斥力を広げず、左後輪の外側だけを押した。


 車輪は溝の縁を擦りながら中央へ戻り、荷車は速度を落とさず石柱の陰へ入る。


「今ので一回?」


「小出力。でも、肩へ負担はある」


「じゃあ、しばらく使わない」


「自分で決められたなら合格ね」


「毎回採点されるの地味に嫌なんだけど」


「忘れるよりいいでしょう」


 卓斗は返事をしながら左肩を動かさず、指先の痺れだけを確かめた。


 痛みは鈍く残っているが、右手首の竜紋にはまだ地下へ引かれる熱はない。


 北側避難路では、最後の住民列が中立管理所へ向かっていた。


 老人と子供を乗せた小型荷車が一台、路肩の崩れた場所で前輪を止めている。


「絵麻ちゃん、右側の地面が沈んでいます!」


 ラールは白鋼を路面全体へ広げず、沈みかけた石だけを三か所固定した。


「車輪の下は?」


 絵麻は荷車の前へしゃがみ、空間を広げず目視で車軸の角度を測った。


「今固めると、傾いたまま動かなくなります!」


「じゃあ、進む先を作る。ラール、外側に低い縁だけ」


「はい!」


 ラールは路肩へ高さ十センチほどの白鋼の縁を作った。


 谷側へ車輪が外れないための目印であり、道全体を固定する壁にはしない。


「御者さん、前輪を少し左へ。ゆっくりでいい!」


 絵麻は空間転移を使わず、荷車の前方へ小さな座標標識を二つ置いた。


 御者がその光を目安に進むと、前輪は沈下箇所を避けて縁の内側へ戻る。


「通れた!」


 ラールが明るい声を上げると、絵麻はすぐに後続へ視線を移した。


「まだ二組いる。喜ぶのは全員抜けてから」


「はい!」


 小型荷車の後ろを、杖をついた住民と治療役が続いた。


 ラールは固定した石を残し、絵麻は座標標識を一つずつ消して負担を増やさない。


「北側、あと二十人です」


 絵麻は信号札を上げ、ナーヴァへ人数を伝えた。


「完了したら中央へ戻る?」


 ナーヴァの返答は短かった。


「戻らない。避難路を守る」


「領地核の方、手薄にならない?」


「中央にはエルザヴェートとローデリヒがいる」


「私たちが行った方が早いかもしれないけど」


「かもしれない。でも、住民は今ここにいる」


 絵麻は一瞬だけ中央塔を見た。


 旗を取るために動けば戦力にはなるが、北側で再び崩落が起きた場合、同じ速さで戻れる保証はない。


「……分かった。こっちに残る」


「絵麻ちゃん、私も残ります!」


「それは聞かなくても分かる」


 東高台に近い観測位置では、恵依とゲブが地下の数値を追っていた。


 戦闘が高出力から通常兵器中心へ変わったことで、欠損量は明確に減っている。


「流川様。極光停止後、中央環への流入は三分の一以下です」


 ゲブは白銅を広げず、三本の結界杭へ置いた感知点だけを見た。


「自律刃の本数が減った時刻とも一致しています」


「高出力魔素に反応する仮説は強まりました」


 恵依は時間軸へ二本の線を書き加えた。


「ただし、完全には止まっていません。通常兵の魔素、領地核の防衛出力、候補戦管理局の結界も少しずつ拾われています」


「戦闘を止めても、候補領である限り動くのでしょうか」


「可能性はあります」


 恵依はヴァイス峡門領の中央環と、ハイゼン、ガルド、市街領方面へ伸びる線を見比べた。


「候補戦が起きているから動くのではなく、候補戦で使われる防衛機構そのものに組み込まれているのかもしれません」


「なら、旗を変える時が最も危険です」


「はい。領地核の所属変更は、地下網への命令切り替えでもあります」


 恵依は中央塔へ続く二陣営の位置を見た。


 どちらが先に旗を登録しても、地下反応が増える可能性は高い。


「ナーヴァさんへ送ります」


 ゲブは結論ではなく、確認済みの数値だけを短い信号へ変えた。


 高出力停止で欠損減少、所属変更時に増大する可能性、中央塔地下から二方向へ残響が続いていることを、別々の札で伝える。


 西側では、ジークヴァルトが白耀の前列と共に中央塔へ近づいていた。


 極光を封じた状態でも、通常剣術とヘレナの鏡界による進行は速い。


「前方、床刃が六列です」


 ヘレナは透明鏡へ映った床下の構造を確認した。


「起動順は右、左、中央。全列を同時に止めるには鏡界を九枚使います」


「避難民の救助区画は?」


 ジークヴァルトは剣を低く構えたまま尋ねた。


「搬送完了まで二分ほどです。鏡界三枚を残しています」


「救助側から回さないでください」


「では、進行用は六枚です」


「十分です。止め切らず、見えるようにしてください」


 ヘレナは六枚の鏡を通路上へ斜めに配置した。


 床から突き出す魔導刃の像が屈折し、実際の刃より先に透明鏡へ映る。


「一列目、右」


 ヘレナの声と同時に床刃が上がった。


 ジークヴァルトは極光を使わず、通常の剣で刃の側面を叩いて軌道を外へ逸らす。


「二列目、左です」


 白耀の盾兵がジークヴァルトの後ろを一列で抜け、刃が下がる前に安全地帯へ移動する。


 三列目以降も同じ手順で進み、誰も傷つかず床刃の区画を越えた。


「速度は落ちています」


 オスカーは後方から進行時刻を記録していた。


「群青側も整備路を使い、差を縮めています」


「承知しました」


 ジークヴァルトは焦りを見せなかった。


「極光を使えば早い。しかし今は、早さを示す場面ではありません」


「候補戦では勝敗が残ります」


「守る力を失って勝っても、剣聖候補としての意味がありません」


 ジークヴァルトは中央塔前の広場を見た。


 群青の先頭も別方向から近づき、領地核までの距離はほぼ同じになっている。


「ここからは、相手より速いかではなく、領地核へ安全に触れられるかで決まります」


 中央塔前の広場へ到着した時、東西の両陣営は再び同時に足を止めた。


 領地核を収める塔の入口には、最後の自動防衛機構として四本の大型魔導剣が突き立っている。


 それぞれ全長三メートルを超え、柄のない刃だけが石床へ垂直に浮かんでいた。


 領地核から供給される魔素が刀身を満たし、近づく者の動きへ自動で反応する。


「自律式だね」


 エルザヴェートは四本の魔導剣を見て、興味深そうに目を細めた。


「ボクの刃ほど賢くはない。でも、領地核を守る命令だけは強い」


「攻撃範囲を確認します」


 ジークヴァルトは白耀側の盾兵を下げ、自分も剣を構えたまま前へ出なかった。


「共同で止める提案ですか?」


 ヘレナが尋ねると、ジークヴァルトはエルザヴェートへ視線を向けた。


「領地核周囲の防衛設備を破壊すれば、地下異常を増やす可能性があります」


「同意するよ」


 エルザヴェートは腕を組んだまま答えた。


「ただし、止めた後は早い者勝ちだ」


「当然です」


 両陣営は敵対したまま、塔前の危険だけを共同で減らす形を選んだ。


 候補戦管理局の立会官も、領地核を守るための一時的な共同対応として記録する。


「一本ずつ見る?」


 ミレーネが尋ねると、恵依は魔導剣の足元へ伸びる供給線を分析した。


「四本は別々に動きますが、根元の術式は同じです。一本へ攻撃が当たると、残り三本がその軌道を学習します」


「同じ方法を二度使えない」


「はい。最初の一手が重要です」


 エルザヴェートは自律刃を四本だけ前方へ集めた。


 ジークヴァルトは通常の剣を下段へ構え、ヘレナは鏡界を二枚だけ塔入口へ浮かべる。


「ボクが最初の反応を引き出す」


「では、私は二本目を止めます」


 ジークヴァルトが答えた。


「三本目と四本目は?」


「反応を見てから決める」


 ナーヴァが二人の間へ短く言葉を入れた。


「先に全部決めない。変わったら止まる」


「承知しました」


 ジークヴァルトは即座に受け入れた。


「ボクも異論はないよ」


 エルザヴェートの自律刃一本が、右端の大型魔導剣へ向かった。


 直線ではなく、地面すれすれを弧を描いて近づく。


 大型魔導剣は刃先を下げ、自律刃の進路へ斜めに落ちた。


 接触する直前、エルザヴェートの刃は急上昇し、相手の刀身ではなく背後の供給線へ向きを変える。


 残る三本が同時に起動した。


「右から二本目、ジークヴァルト様!」


 ヘレナの鏡界が魔導剣の影を正面へ映し、実際の軌道を半歩ずらして見せた。


 ジークヴァルトは影ではなく鏡面端の光を見て、通常剣で刀身の根元を斜めに叩く。


 大型魔導剣は軌道を外され、石床へ先端を突き立てた。


 壊れてはいないが、引き抜くまで数秒の遅れが生まれる。


「三本目、群青側へ来ます!」


 ローデリヒが重圧を剣の中ほどへ集中させた。


 大型魔導剣は空中で重さを増し、エルザヴェートへ届く前に高さを落とす。


「下げてくれれば十分だ」


 二本の自律刃が左右から入り、魔導剣を床へ押しつけた。


 刀身を切断せず、重圧と挟み込みだけで動きを止める。


 四本目は学習した軌道を避け、上空へ大きく回り込んだ。


 塔入口だけでなく、後方の両陣営まで攻撃範囲に入れる動きである。


「後ろへ行く!」


 卓斗は石柱の陰から上空を見た。


 魔導剣が落下すれば、補給列と記録班の間へ直撃する。


「タク。左手だけ」


「分かってる!」


 卓斗は前へ出ず、左手を魔導剣の側面へ向けた。


 真正面から押し返せば肩への負担が大きいため、落下軌道へ斜めの斥力を一度だけ当てる。


 魔導剣の先端が右へずれた。


 完全には止まらず、補給列の左側へ向きを変える。


「ラール!」


 絵麻は北側避難路から中央を見て叫んだ。


「はい!」


 ラールは遠距離へ大きな壁を作らず、落下地点の石床だけを白鋼で硬化した。


 魔導剣が突き刺さっても地面ごと崩れないよう、直径二メートルの範囲へ形状固定を施す。


 刀身が白鋼の床へ突き立ち、轟音と火花が広場へ散った。


 床は砕けず、魔導剣も補給列まで届かない。


「止まった!」


 卓斗は左手を下ろし、肩へ走った熱を押さえた。


「二回目ね」


 ティナが卓斗の腕を見た。


「これで終わり」


「自分から言えたならいいわ」


「褒められてる感じしないな」


 四本の大型魔導剣はすべて破壊されず、床や供給線の手前で動きを止めていた。


 恵依は領地核の戻り値を確認し、地下欠損が増えていないことを確かめる。


「高出力はありません。地下反応も平常域です」


「なら、供給線だけ切る」


 エルザヴェートは最初に誘導した自律刃を、塔入口の床下へ走らせた。


 魔導剣四本へ伸びる線を一つずつ選び、領地核本体へ触れない位置で切断する。


 大型魔導剣から光が消えた。


 ジークヴァルトは床へ刺さった一本を引き抜かず、その場へ残して塔入口を見た。


「これで防衛術式は停止しました」


 恵依は計測盤の数値を読み上げた。


「ここから先、領地核へ旗印を登録した陣営が制圧者になります」


「では、競争を再開しましょう」


 ジークヴァルトは通常剣を鞘へ戻し、塔入口へ一歩進んだ。


「望むところだよ」


 エルザヴェートの自律刃二本が先に塔内へ入った。


 人を傷つけるためではなく、床罠と残る防衛線を探るための先行刃である。


 塔内部の螺旋階段は狭く、両陣営が並んで進める幅ではなかった。


 東側入口から群青、西側入口から白耀が別々の階段を上り、最上階の領地核室を目指す。


「エルザヴェート様、白耀側が半階先行しています!」


 ローデリヒは階段を駆けながら報告した。


「ジークヴァルトは自分で走るからね」


 エルザヴェートは腕を組んだ姿勢のまま歩いている。


 自律刃が前方の段差と罠を処理するため、本人が急げば刃の確認範囲を狭めることになる。


「エルザヴェート様。ここは私がお運びします」


 ローデリヒが真剣な声で申し出ると、エルザヴェートは眉を上げた。


「ボクを抱えて走るつもりかい?」


「候補戦で勝つためです」


「実に魅力的な案だけど、却下だ」


「なぜですか!」


「ボクが動かないことを、他人へ運ばせる理由にはしない」


 エルザヴェートは螺旋階段の先を見上げた。


「遅いなら、遅いまま勝つ方法を選ぶ」


「白耀側が先着します」


「先着しても、すぐ旗を立てられるとは限らない」


 最上階の直前で、白耀側の階段から警報音が響いた。


 ジークヴァルトが領地核室へ入る直前、地下の中央環が再び脈動している。


「地下反応!」


 恵依の声が信号鏡を通じて塔内へ届いた。


「所属変更前の予備接続が始まっています。旗印へ触れた場合、欠損が急増する可能性があります!」


 ジークヴァルトは領地核室の扉前で足を止めた。


 手を伸ばせば、白耀の旗印を登録できる距離まで先着している。


「ジークヴァルト様」


 ヘレナは一段下で息を整え、領地核室内の鏡像を確認した。


「防衛術式は停止しています。登録を開始すれば、制圧は成立します」


「地下の変化は?」


「中央環から市街領方面への流出が増加しています」


「登録を続ければ、さらに増える可能性がある」


 ジークヴァルトは領地核へ向けていた右手を下ろした。


「止めます」


「候補戦上の勝機を失います」


 オスカーの声が信号鏡から届いた。


 反対ではなく、判断の結果を明確にする確認である。


「承知しています」


「それでも?」


「領地核の所属変更が地下異常を増やすと分かった以上、確認せず進めるべきではありません」


「承知しました。停止を記録します」


 ジークヴァルトは扉前から半歩下がり、領地核へ触れない位置を保った。


 白耀陣営の旗印も鞘へ戻し、地下反応が収まるまで待つ。


 群青側の螺旋階段では、その情報がエルザヴェートにも届いていた。


 白耀側が止まったことで、追いつく時間が生まれている。


「ジークヴァルトが止めた」


 ミレーネの声が信号鏡から響いた。


「地下欠損を確認するまで、登録しないって」


「らしいね」


 エルザヴェートは足を止めず、最上階へ続く最後の階段を上った。


「エルザヴェート様。こちらも停止しますか?」


 ローデリヒが尋ねた。


「登録はまだしない。でも、領地核室へは入る」


「白耀側も同室にいます」


「知っているよ」


 群青側の扉が開くと、中央に青白い領地核が浮かぶ円形室へ出た。


 反対側の扉前にはジークヴァルトとヘレナが立ち、互いの旗印をまだ出していない。


「追いついたね」


 エルザヴェートは腕を組んだまま、領地核の周囲を見た。


「あなた方も、すぐ登録しないのですか?」


 ジークヴァルトが尋ねると、エルザヴェートは床下へ向いた自律刃を一本だけ出した。


「地下の状態を見てからだ。勝つために領地核を壊したら意味がない」


「同じ判断ですね」


「悔しいかい?」


「いいえ。安心しました」


 領地核室の床には、現在の候補戦用術式と、その下から浮かび上がる古い円環が重なっていた。


 恵依とゲブが遠隔計測で読み取った線を、ミレーネとヘレナがそれぞれの記録紙へ写す。


「流川様。予備接続は、領地核の登録術式へ魔素が集まった時点で始まっています」


 ゲブの声が信号鏡から届いた。


「旗を触れさせなくても、候補者が登録圏へ入るだけで地下網が準備を始めます」


「なら、二人が同時に入ったことで出力が重なっています」


 恵依は二つの候補者印が領地核室へ入った時刻を照合した。


「どちらか一方が外へ出れば、予備接続は弱まる可能性があります」


「どちらが出る?」


 ナーヴァの声が信号鏡から聞こえた。


 エルザヴェートとジークヴァルトは互いを見た。


 先着したのはジークヴァルトだが、候補戦の規則上、入室順だけで権利が決まるわけではない。


「私が残ります」


 ジークヴァルトは静かに言った。


「先着したのは白耀陣営です」


「ボクも残るよ」


 エルザヴェートは即答した。


「先着を譲る理由にはならない」


「二人とも残ったら、地下が動いたまま」


 ナーヴァの短い指摘が室内へ響いた。


「勝負を決める方法を変える」


 エルザヴェートは領地核へ向けていた自律刃を消した。


「防衛術式を壊さず、地下出力を増やさず、先に登録条件を整えた方が残る。それでどうだい?」


「具体的には?」


 ジークヴァルトが尋ねた。


「領地核の周囲に、まだ四本の安全封印が残っている」


 エルザヴェートは床面の四方へ刻まれた小さな術式を見た。


「塔の防衛機構を止めても、登録時の逆流を防ぐ封印は残る。これを壊さず解除する」


「解除方法を知っているのですか?」


「今から見る」


「不利ではありませんか。私たちは先に入室し、確認を始めています」


「それも候補戦だろう?」


 ジークヴァルトは一瞬だけ考え、穏やかに頷いた。


「承知しました。先に四本を解除した側が登録を行う。地下反応が増えた場合は、双方停止する」


「決まりだね」


 ヘレナは鏡界を封印術式へ向け、内部の魔素線を映し出した。


 ジークヴァルトは剣を抜かず、鏡像を見ながら手順を読む。


 エルザヴェート側では、ミレーネが記録の魔素、再録魔典〈パリンプセスト〉を使い、ガルドとハイゼンで確認した封印構造を重ねた。


 恵依の解析結果も信号鏡から届き、四本のうち三本は順番を変えると逆流することが判明する。


「右奥、左手前、右手前、最後に左奥です」


 恵依の声は明確だった。


「ただし、最初の一本を解除すると残り三本の術式が移動します。位置ではなく波形を追ってください」


「ミレーネ」


 エルザヴェートが呼ぶと、ミレーネは記録紙へ四本の波形を書き出した。


「見えてる。位置が入れ替わっても、同じ線を追えるよ」


「なら、ボクが刃を入れる」


 一本目の自律刃が右奥の封印へ入り、表面を壊さず内部の留め具だけを外した。


 床の四本の術式が一斉に動き、円環の内側を滑るように位置を変える。


「二本目、今は正面左!」


 ミレーネの声に合わせ、二本目の自律刃が波形を追った。


 ジークヴァルト側もヘレナの鏡界で移動を捉え、通常剣の鞘先を使って別の封印の留め具を押している。


「白耀側、一本解除しました!」


 ローデリヒが告げた。


「こちらは二本目」


 エルザヴェートの刃が留め具を外し、残る二本が再び位置を変えた。


 ジークヴァルトは剣を抜けば早い場面でも、刃を使わなかった。


 極光を封じていても鋭い剣気が地下へ拾われる可能性を考え、鞘と指先だけで術式を解いている。


「ジークヴァルト様、二本目です」


 ヘレナは鏡面へ映る波形を指した。


「左奥へ移動しました」


「確認しました」


 ジークヴァルトが二本目を解除した瞬間、エルザヴェートも三本目の留め具へ刃を届かせた。


 数では群青が一歩先だが、最後の一本は最も複雑で、領地核の真下へ移動している。


「地下へ近い」


 エルザヴェートの笑みが薄くなった。


「刃を深く入れれば、中央環へ触れる」


「別の角度を探します」


 ミレーネは記録を重ねたが、表面から届く線は見つからない。


「エルザヴェート様。私の重圧で術式を浮かせます」


 ローデリヒが提案した。


「床全体へかければ地下にも影響する」


「では、留め具だけへ限定します」


「位置が見えるのかい?」


「見えません」


 ローデリヒは正直に答えた。


「ミレーネ殿の記録と、恵依殿の指示に従います」


「外せば地下へ落ちる可能性があります」


 恵依の声が信号鏡から届いた。


「留め具を抜くのではなく、半回転だけ戻してください。封印は解除されますが、部品はその場に残ります」


「できる?」


 エルザヴェートが尋ねると、ローデリヒは剣を床へ立て、重圧の魔素を細く絞った。


「やります」


 ミレーネが波形の位置を読み、恵依が回転方向を指定する。


 ローデリヒは見えない留め具へ重さを偏らせ、右側だけを沈ませた。


 床下で小さな金属音が鳴った。


 最後の封印が消え、領地核を囲む四本の安全線が群青色へ変わる。


「解除完了です!」


 恵依が声を上げた。


 白耀側は三本目を解除したところだった。


 ジークヴァルトは最後の術式へ向けていた手を止め、群青側の安全線を確認する。


「群青陣営が先ですね」


「そうみたいだ」


 エルザヴェートは自律刃を領地核へ向けず、ミレーネから群青の登録旗を受け取った。


「登録を開始します」


 候補戦管理局の立会官が宣言した。


「地下反応を監視。異常増大時は即時停止してください」


 エルザヴェートは旗印を領地核の石座へ差し込んだ。


 青白い核から群青の光が広がり、塔全体の術式へ新しい所属を伝えていく。


 床下の中央環が一度だけ強く脈打った。


「欠損、増加!」


 ゲブの声が響いた。


「でも、急上昇ではありません!」


「安全封印が逆流を抑えています」


 恵依は時刻ごとの数値を追った。


「このままなら登録を続けられます。エルザヴェートさん、出力を上げないでください」


「上げないよ」


 エルザヴェートは旗印へ自分の魔素を押し込まず、領地核が必要とする最低限の認証だけを渡した。


 自律刃も出さず、石座の光が自然に広がるのを待つ。


 数秒後、中央塔の屋上にあった無所属の旗がゆっくりと下がった。


 代わりに群青の旗が上がり、峡門全体の結界光が青く染まる。


「ヴァイス峡門領の制圧を確認しました」


 候補戦管理局の声が塔内と城下へ同時に響いた。


「制圧陣営、エルザヴェート・グリュンデューテ陣営。登録時刻を正式記録します」


 群青陣営の兵士たちから歓声が上がった。


 北側避難路でも、絵麻とラールが互いに顔を見合わせる。


「取った!」


 ラールが両手を上げた。


「まだ避難完了の確認」


 絵麻は笑いかけてから、最後の住民が中立管理所へ入ったのを見届けた。


「……でも、取ったね」


「はい!」


 中央塔の領地核室では、エルザヴェートが群青の旗を見上げた。


 勝利の笑みは浮かべているが、すぐにジークヴァルトへ向き直る。


「ボクたちの勝ちだね」


「ええ」


 ジークヴァルトは敗北を否定せず、剣を鞘へ収めたまま一礼した。


「最後の封印解除で、そちらの連携が一歩上でした」


「力だけなら、君の方が上だった」


 エルザヴェートは素直に認めた。


「極光を使い続けられたら、ボクたちは城門で大きく遅れていた。通常剣術と部隊速度でも、先に領地核室へ着いたのは君だ」


「しかし私は、先着した後に止まりました」


「止まったから負けたとは思っていないだろう?」


「はい」


 ジークヴァルトの声音は穏やかなままだった。


「地下異常を無視して旗を取るべきではありませんでした。判断を変えるつもりはありません」


「ボクも同じだよ」


 エルザヴェートは胸元のネックレスを見下ろした。


 登録時には大きく光らなかったが、地下の脈動へ合わせて僅かな熱が残っている。


「だから、今日は二人とも間違えなかった。その上で、旗はボクが取った」


「候補戦の勝者はあなたです」


「でも、守る選択まで負けたとは思わなくていい」


「慰めているのですか?」


「まさか。次も同じ判断をしてくれた方が、ボクが勝つ方法を考えやすいだけさ」


 ジークヴァルトは一瞬だけ目を細め、やがて小さく笑った。


「あなたらしい言い方です」


「君も、敗者らしくない顔をしている」


「守るべき者を守り、地下の記録も得ました。旗を失ったことは悔しいですが、全てを失ったわけではありません」


「なら、二人とも勝者?」


 ミレーネが記録紙を閉じながら口を挟んだ。


「候補戦の記録には一人しか残らないけどね」


「表題としては面白い」


 エルザヴェートが答えると、ジークヴァルトは苦笑した。


「曖昧な記録はオスカーが嫌がるでしょう」


「事実を分ければいいよ。領地の勝者はボク。守る判断を曲げなかったのは二人」


「それなら異論はありません」


 領地核の登録が安定すると、白耀陣営は候補戦規則に従って中央塔から退いた。


 武器を収めた兵士たちは負傷者と救助器具をまとめ、群青側へ妨害せず西門へ戻っていく。


 群青陣営も追撃しなかった。


 ローデリヒは中央塔の警備を最低限に留め、まず住民区画、外門、避難路の安全確認へ部隊を回す。


「取った直後が一番危ない」


 ナーヴァは中央広場へ戻り、東西の通路を見た。


「領地核が群青へ変わっても、住民はまだ戻ってない。防衛設備も止まったまま」


「白耀側の旧配置記録を共有します」


 ヘレナは撤収前に、救助区画と停止させた設備の位置をミレーネへ渡した。


「候補戦中に確認した内容です。復旧へ利用してください」


「敵に渡していいの?」


 ミレーネが尋ねると、ヘレナは透明鏡を消しながら答えた。


「住民保護に必要な情報です。次に戦う時の防衛配置は変えます」


「切り分けが早いね」


「ジークヴァルト様の方針です」


 オスカーも西側の補給台帳を管理局へ預けた。


 白耀陣営が一時的に使用した物資と、住民救助へ回した治療具を明確に分け、群青側へ不当な負担が残らないよう記録している。


「敵なのに、去り際までちゃんとしてる」


 卓斗は補給列の石柱から出て、左肩を動かさず白耀陣営の撤収を見た。


「やりづらい相手って感想、変わった?」


 ティナが尋ねる。


「悪化した」


「そう」


「でも、嫌いじゃない」


 卓斗は右手首へ視線を落とした。


 国を優先するジークヴァルトの考えには警戒が残るが、地下異常を前に勝機を手放した判断は信じられる。


「嫌いじゃない相手と次も戦うの、普通に面倒だな」


「敵を嫌う必要はないわ」


「分かってるけど、割り切りにくいじゃん」


「割り切れないまま選ぶこともあるでしょう」


「ティナ、最近そういう正論増えたよな」


「タクが聞くようになったからよ」


 卓斗は少しだけ言葉に詰まり、返事の代わりに地下の振動が収まった石畳を見た。


 夕方までに、ヴァイス峡門領の住民は順番に帰還を始めた。


 群青側は旧中立守備隊を現地警備へ残し、候補戦管理局と三者で領地核、防衛設備、地下中央環の記録を共有する体制を整える。


 恵依とゲブは中央塔下層の計測盤で、登録前後の変化を比較していた。


 所属変更時に増えた欠損は、安全封印を維持したことでガルド制圧時より小さく抑えられている。


「やり方で差が出ています」


 恵依は二つの登録記録を並べた。


「候補戦そのものを止めなくても、領地核の逆流を防ぎ、最低限の認証だけを使えば地下への流入を減らせます」


「完全には止まりません」


 ゲブは市街領方面へ残る細い波形を示した。


「南東の導線は、登録後も動いています」


「接続先が次の領地へ移った?」


 ミレーネが尋ねると、恵依は現行地図を広げた。


「正確な終点は不明です。ただ、市街領と外縁補給路の間へ向かっています」


「カインの陣営が動いてる場所だね」


 ミレーネは地図上の黒い旗札へ視線を向けた。


「候補戦速報では、カインはまだ市街領を取ってない。でも周辺の補給路を押さえ始めてる」


「地下の流れと、候補戦の動きがまた重なっています」


 恵依は断定を避けながらも、偶然として片づけられない回数になっていることを認めた。


「次の調査先として、市街領方面を候補にするべきです」


「ボクも同意するよ」


 エルザヴェートは下層の入口に立ち、腕を組んだまま地図を見た。


「ヴァイスを取ったから、南東の補給路へ動きやすくなった。地下を追えて、候補戦でも次の争点になる」


「ジークヴァルト陣営も向かう可能性があります」


 ローデリヒが言うと、エルザヴェートは楽しそうに笑った。


「彼も同じ記録を持っているからね。来るだろう」


「カイン陣営もいます」


「三つの旗が市街領へ集まる」


「危険」


 ナーヴァは地図の三方向へ指を置いた。


「住民が多い。城塞より避難が難しい」


「だから、先に行く」


 エルザヴェートは市街領へ伸びる街道を見た。


「地下が動いてから追うんじゃ遅い。カインが何を狙っているかも確認したい」


「カインって、どんな奴?」


 卓斗が尋ねると、ミレーネは黒い旗札を指先で動かした。


「十九歳。『刹那の影』。正面から攻撃すると、その瞬間に結果をひっくり返される」


「結果を?」


「こっちが斬る前に、もう急所を斬られてる形になる。カウンターに特化した候補者」


「意味分かんないんだが」


「私も初めて記録を読んだ時はそう思ったよ」


「正面から行かなきゃいい?」


「たぶん、そんな単純じゃない」


 恵依はカインの候補戦記録を手に取った。


「攻撃の意思と開始した刹那へ干渉するなら、武器を振らなくても、能力を向けた時点で対象になる可能性があります」


「引力も?」


「分かりません。実際に確認するまで断定できません」


「また面倒な相手増えた」


「候補者だからね」


 エルザヴェートは嬉しそうに言った。


「白耀の次は刹那。実に興味深い」


「エルザヴェートだけ楽しそうなのやめてくれる?」


「君も会えば分かるよ」


「分かりたくない可能性高いんだけど」


 夕暮れのヴァイス峡門領で群青の旗が初めて風を受けた。


 エルザヴェート陣営は二つ目の制圧領を得たが、その地下から伸びる流れは、勝利を祝う時間を与えず市街領方面へ続いている。



***************



 同じ頃、帝国南西部の市街領では、密集した石造家屋の屋根を一人の青年が歩いていた。


 黒い外套の裾が夕風に揺れ、足音は瓦の上でもほとんど響かない。


 青年は屋根の端で止まり、地下から伝わる微かな脈動へ視線を落とした。


 短い黒髪の下にある目は感情をほとんど見せず、市街の外へ続く三本の街道を順に見ている。


 遠くでは、黒い旗を掲げた補給隊が外縁路へ入っていた。


 さらに北西からは白耀陣営の伝令、北東からは群青陣営の偵察が近づいている。


「——カイン」


 背後から女性の声がした。


 屋根へ上がってきたノア・ヴェイルは、小さな治療鞄を肩へ下げ、市街の地下へ続く点検口の報告書を持っている。


「地下の揺れ、また強くなった」


 カインは振り返らず、三方向の街道を見たまま答えた。


「分かっている」


「白耀と群青が来るかもしれない」


「来る」


「戦うの?」


「必要なら」


 ノアはカインの横へ立ち、市街区画で遊ぶ子供たちを見下ろした。


 候補戦の争奪地になれば、真っ先に避難させなければならない者たちである。


「この街、巻き込ませないでね」


 ノアの言葉に、カインは短く頷いた。


「そのために取る」


 地下の脈動がもう一度だけ市街全体へ広がった。


 カインは黒い旗の進路を確認し、群青と白耀が近づく北側へ視線を上げる。


「……ようやく来るか」


 刹那の影は屋根の上から姿を消した。


 次の瞬間には別の建物の端へ移り、誰よりも早く市街領の外縁へ向かっていた。




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