第三章 26 『三つの剣』
行政塔の地下階段は、地上階よりも狭く、古かった。
磨かれた石壁の上へ後世の補強術式が重ねられているが、その下には建国以前の刻印が薄く残り、三人が一段下りるたびに淡い光を返している。
先頭を歩くカインは、右手を剣柄へ添えたまま速度を変えなかった。
その後ろに候補戦管理局の立会官、エルザヴェート、二人目の立会官、最後尾にジークヴァルトが続いている。
「階段下、十二歩先に横穴があります」
地上階へ残ったヘレナの声が、鏡界を通してジークヴァルトへ届いた。
「現行図面にはありません。右壁の内側に、奥行き三メートルほどの空間があります」
「罠かい?」
エルザヴェートは腕を組んだまま、先頭のカイン越しに階段下を見た。
「断定できません」
ヘレナの返答は慎重だった。
「鏡界へ映るのは空間の形だけです。魔素の流れは、現行の防衛機構と一致していません」
「止まる」
カインは階段の途中で足を止めた。
後続も同時に停止し、狭い階段へ一定の間隔を残す。
誰も前へ詰めなかったことで、エルザヴェートの自律刃も現れず、ジークヴァルトの剣も鞘に収まったままだった。
「立会官。横穴は候補戦設備か」
カインが尋ねると、先頭側の立会官は記録板を確認した。
「登録されていません。この塔は三度改修されていますが、右壁内部の空間は改修記録にもありません」
「なら、触らず進む」
「確認しなくていいのかい?」
エルザヴェートが問いかけると、カインは振り返らなかった。
「領地核への道に出てこないなら関係ない」
「後ろから動く可能性は?」
「動けば切る」
「簡潔だね」
「エルザヴェート様なら、どうされますか?」
最後尾のジークヴァルトが尋ねると、エルザヴェートは僅かに目を細めた。
「昨日までのボクなら、一本入れて中を見る。でも、今日はやらない」
「理由は?」
「刃が何を敵と判断するか、今はボクにも完全には読めないからね」
エルザヴェートの声音から、いつもの軽さが少しだけ薄れた。
「見たいという理由だけで出せば、また剣に先を決められる」
「なら、進みましょう」
ジークヴァルトはそれ以上評価せず、立会官へ合図した。
階段を下り切ると、右壁には継ぎ目の不自然な石板が一枚だけあった。
カインは視線を向けたが、足を止めず、その前を通過する。
エルザヴェートも腕を組んだまま通り過ぎた。
石板の向こうから微かな魔素が漏れていたが、自律刃を出さず、自分の目で刻印の位置だけを覚える。
最後に通ったジークヴァルトは、壁際へ半歩寄った。
剣は抜かず、右手の指先だけで石板の振動を確かめる。
「内側から動いてはいません」
「開ける必要は?」
立会官が尋ねると、ジークヴァルトは首を横へ振った。
「ありません。進路へ干渉しないものを、候補戦中に開く理由はないでしょう」
「二人とも慎重だね」
エルザヴェートが言うと、カインは低く返した。
「お前が余計に触りすぎる」
「否定しづらいな」
地下通路は二十歩ほど先で三つに分かれていた。
中央路には候補戦管理局の現行紋、左右の通路には古い環状刻印が刻まれ、暗い奥へ続いている。
立会官は中央路を示した。
「領地核室は直進です。左右は封鎖区域として登録されています」
「封鎖扉が見えないけど?」
エルザヴェートが左路を覗き込むと、立会官は記録板をめくった。
「図面上では、五年前の改修時に石壁で閉鎖されています」
「開いているね」
「はい」
右路から冷たい風が流れ、左路の奥では弱い金属音が一定の間隔で響いている。
現行の魔素灯は中央路にしかなく、左右の導線は地下そのものが淡く明滅していた。
「流川様へ連絡します」
ゲブの声が伝令石から届いた。
「三叉路の位置は、行政記録所の古図にありません。ですが、北工房区と外縁補給路から伸びる欠損方向と一致しています」
「追わないでください」
恵依の声がすぐに続いた。
「中央路だけを進んでください。左右の導線へ候補者魔素が触れると、地下網全体へ波形を渡す可能性があります」
「聞こえたな」
カインは中央路へ足を向けた。
「ボクに言ってる?」
「他に触りたがる奴がいるか」
「失礼だね」
「エルザヴェート様。今回はカイン殿が正しいです」
鏡界越しにローデリヒの声が届き、エルザヴェートは小さく息を吐いた。
「味方がいない」
「ご自身で減らしています」
中央路へ入った瞬間、床の刻印が三人の候補者印へ反応した。
群青、白耀、黒の光が細い線となって前方へ走り、閉じていた魔素灯を順に起動させる。
通路の先には、背丈ほどの金属人形が六体並んでいた。
両腕に短剣を備え、胸部へ無所属の灰色紋を刻んだ古い防衛機構である。
「止まってください」
立会官は記録板を見たまま眉を寄せた。
「この型は現行設備にありません」
「候補者認証は?」
ジークヴァルトが尋ねると、立会官は認証札を掲げた。
金属人形の眼部が一斉に赤く光った。
認証札を受け入れる様子はなく、六体すべてが短剣を水平へ構える。
「反応しません!」
「後ろへ」
カインは立会官を自分の背後へ下げた。
最前列の二体が同時に踏み込み、左右から首と脇腹を狙う。
金属の足が石床を蹴った瞬間、カインの姿勢は変わっていなかった。
だが、二体の胸部はすでに斜めへ裂けていた。
内部の動力線が断たれ、短剣を振り切る前に膝から崩れ落ちる。
「機械にも使えるんだね」
エルザヴェートは倒れた金属人形を見た。
「攻撃を始めたなら同じだ」
カインは剣を抜いた形跡を見せず、残る四体へ視線を向けた。
「でも、急所は心臓じゃない」
「動力核を切った」
「どうやって位置を?」
「動く前に音がした」
エルザヴェートの目に好奇心が浮かんだが、自律刃は出さなかった。
次の二体はカインを狙わず、後方の立会官へ向けて短剣を射出した。
攻撃対象が変わったことで、カインの刹那逆断〈ファリブル〉は即座に発動しない。
「右を取ります」
ジークヴァルトは一歩前へ出て剣を抜いた。
極光を纏わせず、飛来する短剣の腹だけを正確に打ち、石壁へ落とす。
左から来た短剣は、エルザヴェートの頬へ届く軌道へ変わった。
彼女は腕を解かず、視線だけを刃へ向ける。
「一本。左の短剣だけ」
言葉と同時に、自律刃が一本だけ空間へ生まれた。
不可視に近い刃は、飛来物の根元へ最短距離で入り、軌道を外側へ逸らした。
短剣は壁へ突き刺さり、自律刃は追撃せず、その場で静止する。
「止まれ」
エルザヴェートが命じると、自律刃は消えた。
「今のは自動ではないね」
ジークヴァルトは剣先を下げながら確認した。
「ボクが一本だけ選んだ」
「遅い」
カインは残る金属人形へ歩き出した。
「自動なら、もう一体も止めていた」
「そうだね。でも、今はそれでいい」
「なぜだ」
「全部を先に切るより、誰を切るかボクが決めたいからさ」
エルザヴェートは腕を組んだまま、倒れていない四体を見た。
「少なくとも今日はね」
残る四体は隊列を変え、二体が前衛、二体が後衛へ下がった。
前衛が短剣を構え、後衛は床の刻印へ刃を突き立てる。
通路全体へ灰色の魔素が走り、床と壁から細い金属杭がせり出した。
候補者だけでなく、立会官を含む全員の退路を塞ぐ配置である。
「防衛機構が通路を閉じます!」
立会官が叫んだ。
「極光なら一度で消せます」
ジークヴァルトは剣を構えたが、白い魔素を纏わせなかった。
「ですが、地下導線まで破壊する恐れがあります」
「使わないでください」
恵依の声が伝令石から飛んだ。
「壁内の杭は古い導線と接続しています。高出力で破壊すると、欠損が一斉に別経路へ流れます」
「通常剣術で切断します」
ジークヴァルトは退路を塞ぐ杭へ身体を向けた。
「カイン殿は前衛。エルザヴェート様は後衛二体を止めてください」
「命令かい?」
「提案です。別案があれば聞きます」
「ないね」
「なら、お願いします」
ジークヴァルトは最初の杭へ踏み込んだ。
刃先を金属の中心へ当てず、床との接合部だけを斜めに削り、導線を残したまま可動部を外す。
一撃ごとに杭は倒れたが、床へ刻まれた光は消えなかった。
極光を使わずとも、剣の角度と体重移動だけで防衛機構を無力化していく。
カインへ向かった前衛二体は、左右で攻撃時刻をずらした。
一体目が喉へ突き、二体目はその直後に脚を払う。
一体目の動力核が裂けた時、二体目は攻撃を中断し、短剣を防御へ回した。
カインは刹那逆断〈ファリブル〉を二度目へ繋げず、初めて自分の剣を抜く。
黒い刃が金属人形の短剣へ触れ、火花を散らした。
カインは真正面から押し合わず、相手の腕を外へ流して胸部へ剣先を滑り込ませる。
「能力だけじゃないんだ」
エルザヴェートは後衛へ視線を固定したまま言った。
「当たり前だ」
カインは動力線を断ち、金属人形を床へ倒した。
「お前と違う」
「それは余計だね」
後衛二体は床へ刺した短剣を抜こうとしていた。
エルザヴェートは両方へ刃を出さず、右側だけを選ぶ。
「一本。右腕の関節」
自律刃が右側の金属人形へ走り、短剣を持つ肘関節だけを切断した。
腕を失った個体は床の術式を維持できず、灰色光が一段弱まる。
左側の個体は短剣を引き抜き、エルザヴェートへ振り向いた。
自律刃は自動迎撃を切られているため、次の命令がなければ動かない。
「二本目。左脚と胸部」
二本の刃が別々の軌道から入り、一方が踏み込みを崩し、もう一方が動力核の手前で止まった。
金属人形は倒れたが、胸部の核は切れていない。
エルザヴェートは自律刃を静止させたまま、眼部の光が消えるのを待つ。
「止めを刺さないのか」
カインが尋ねた。
「動けない相手を壊す必要はないだろう?」
「また動く」
「なら、その時に選ぶ」
倒れた金属人形の眼部が再び赤く光った。
胸部の動力核が回転し、残った腕を床へつこうとする。
「ほら」
カインの声と同時に、エルザヴェートが命じた。
「胸部を切れ」
静止していた刃が核だけを貫き、金属人形は完全に停止した。
「君の言う通りだったね」
「最初から切ればいい」
「でも、今の一回で、この機構が停止を受け入れない型だと分かった」
「壊すまでに一手増えた」
「知るための一手だよ」
「戦場で要らない」
「必要な時もある」
「二人とも、議論は後です」
ジークヴァルトは最後の杭を外し、退路を開いた。
「残る防衛機構は停止しました。負傷者もいません」
立会官たちは互いの状態を確認し、記録板へ突破方法を書き込んだ。
高出力魔法は使われず、古い導線も切断されていない。
「候補者三名の共同突破として記録します」
先頭側の立会官が告げると、カインは首を横へ振った。
「共同じゃない」
「同じ障害へ役割を分けて対処しました」
「勝手に動いただけだ」
「結果として協力したのなら、記録上は共同です」
エルザヴェートは楽しそうに笑った。
「諦めなよ。君はボクたちと仲良く突破したことになる」
「消せ」
「候補戦管理局の記録へ命令しないでください」
ジークヴァルトの穏やかな声に、カインは黙って剣を鞘へ戻した。
地上の東市場では、中央地下で防衛機構が動いた直後から、軍用荷車の流れが急に滞っていた。
黒旗陣営が確保した南倉庫へ向かう道の一部へ、無所属の金属柵が上がったためである。
「また自動防衛かよ」
卓斗は積み替え場から見える路地の先を見た。
赤札の荷車が二台立ち往生し、その後ろへ黄札と緑札の車両が詰まり始めている。
「軍用車両だけ止める機構ではなさそうね」
ティナは柵の位置と荷車の列を見比べた。
「先頭が動けないせいで、全部止まっている」
「先頭の軍用だけ脇へずらせば、後ろは通せる」
「右手は使わない」
「左で車輪一つだけ動かす」
「御者と管理局へ先に伝えて」
「了解」
卓斗は柵の前へ走らず、候補戦管理局の職員へ手を上げた。
「先頭の馬を外して! 荷車だけ右の空き地へ寄せる!」
「人力では重すぎます!」
「俺が車輪を押す。人は全員離れて!」
御者が馬を外し、周囲の職員が二歩以上下がったのを確認してから、卓斗は左手を荷車の右前輪へ向けた。
「一回だけ。弱く押す」
「タク。車体ではなく車輪の外側へ」
「分かってる」
黒い斥力が掌から細く伸び、木製の車輪だけを横へ押した。
荷車は大きく跳ねず、石畳の上を半回転しながら空き地へ寄る。
左肩へ鈍い痛みが走ったが、卓斗は二度目を使わず手を下ろした。
空いた道へ黄札の商業車両と緑札の病院車両が順番に入る。
「通して!」
職員たちが合図を送り、止まっていた物流が再び動き出した。
「軍用車両は?」
ティナが尋ねると、卓斗は金属柵を見た。
「管理局が解除するまで待つ。今は住民用が先」
「左肩は?」
「ちょっと痛い」
「ちょっと、を数字で」
「三くらい」
「次は使わない」
「はい」
卓斗は右手首にも左肩にも追加の魔素を通さず、荷札の確認へ戻った。
中央で候補者たちが進んでいても、東市場の役割は変わらない。
北工房区では、行政塔地下の防衛機構と連動するように、古い点検口の封印札が一枚剥がれていた。
絵麻は近づきすぎず、二歩離れた位置から扉と床の隙間を見た。
「中から押された?」
「違います!」
ラールは白鋼を広げず、点検口周辺の位相だけを確かめた。
「扉は動いていません。封印札だけ、表面の魔素を抜かれて落ちました!」
「地下へ流れた?」
「中央じゃないです。南東です!」
絵麻は市街地図を開き、点検口から南東へ線を伸ばした。
行政塔とは別の方向であり、市街領の外へ出れば群青陣営の既存領へ続く。
「恵依に送る」
「追わないです?」
「追わない。ここを開けたら、避難路まで巻き込むかもしれない」
「はい!」
絵麻は新しい封印札を自分で貼らず、管理局の職員を呼んだ。
第三者の魔素痕を上書きしないよう、落ちた札と扉の状態をそのまま記録させる。
「絵麻ちゃん」
「何?」
「中央へ行かなくても、ちゃんと見つけられました」
「そうだね」
「一人で全部見なくても、役割の場所で見つけられます!」
ラールの言葉に、絵麻は僅かに目を丸くした。
やがて小さく笑い、点検口ではなく避難路へ視線を戻す。
「うん。だから、ここにいる」
行政記録所では、北工房区から届いた報告と地下計測線が重ねられていた。
中央広場へ集まっていた三本の線のうち、一本だけが南東へ逸れ始めている。
「流川様。これは領地核室への流れではありません」
ゲブは白銅の戻り値を時刻順に並べた。
「北工房区の封印札が落ちた時刻と、南東線が開いた時刻が一致しています」
「行き先は?」
「市街領外です。現在の観測範囲では、特定できません」
恵依は市街領と周辺候補領の地図を広げた。
南東方向には群青陣営が保有する小規模な農業領と、その先に東方補給拠点がある。
「群青領へ向いているように見えます」
ミレーネは伝令石越しに答えた。
「でも、直線上にあるだけで接続先とは限らないよ」
「はい。断定しません」
恵依は南東線を赤ではなく、未確認を示す灰色で記録した。
「ただ、行政塔の領地核と別の場所が同時に開いていることは共有します」
「エルザヴェート様へ知らせますか?」
「知らせます。でも、今すぐ塔から戻るようには求めません」
「別領への攻撃だった場合は?」
ゲブの問いに、恵依は少しだけ間を置いた。
「候補戦管理局へ外縁監視を要請します。私たちだけで群青領へ戻る判断はしません」
「承知しました」
地下通路では、防衛機構を越えた先から空気の温度がさらに下がっていた。
現行の魔素灯は途切れ、代わりに床の古い刻印が青白く光っている。
三人の候補者印は、中央へ進むほど互いへ近づいていた。
群青、白耀、黒の線が一本へ重なることはなく、三本のまま並走している。
「領地核室まで、残り二十メートルです」
立会官は壁面の現行印を確認した。
「次の扉が最終防衛区画です」
「その前に、何かいる」
カインは足を止めた。
前方の暗がりから、剣を引きずる音が聞こえた。
先ほどの金属人形より重く、床を削る音が一歩ごとに近づいてくる。
青白い光の中へ現れたのは、三メートルを超える鎧人形だった。
片腕に大盾、もう片腕に幅広の大剣を持ち、胸部には現行の無所属紋と古い環状刻印が重なっている。
「この型も登録されていません」
立会官の声が緊張で硬くなった。
「防衛機構の最終個体だろう」
カインは剣を抜いた。
「大剣の初撃を俺が取る」
「盾はボクが止めよう」
エルザヴェートの周囲へ、一本だけ自律刃が現れた。
「自動迎撃は?」
ジークヴァルトが確認する。
「切ったまま。命令した対象だけを斬る」
「私は脚部を崩します」
ジークヴァルトも剣を抜き、鎧人形の足元へ視線を落とした。
「極光は使いません」
「三人で一体か」
カインの声音に不満が混じる。
「嫌なら一人で受けてもいいよ」
「邪魔するな」
「それは無理だね。領地核へ行く道はボクの道でもある」
鎧人形が大剣を持ち上げた。
刃へ灰色の魔素が集まり、通路の幅いっぱいへ横薙ぎの軌道を作る。
「来る」
カインが一歩前へ出た。
大剣が振り始めた刹那、鎧人形の右肩へ斜めの亀裂が走った。
刹那逆断〈ファリブル〉が攻撃開始へ干渉し、振り切る前に関節を断った結果を確定させる。
だが、大剣は床へ落ちなかった。
古い環状刻印が肩の切断面を一時的に繋ぎ、崩れた腕を魔素だけで動かし続ける。
「止まらない」
カインはすぐに後退せず、剣を両手で構え直した。
「一時接続です!」
立会官が叫んだ。
「古い術式が破損部位を代替しています!」
「盾の中心を切れ」
エルザヴェートが命じた。
自律刃は鎧人形の大盾へ正面から入らず、表面へ刻まれた環状紋の一部だけを削った。
接続術式の光が揺れ、右肩を支えていた魔素が一瞬弱まる。
「今です」
ジークヴァルトは鎧人形の左脚へ踏み込んだ。
剣を膝の装甲へ当てず、足首の内側へ滑らせ、関節の留め具だけを断つ。
鎧人形の巨体が左へ傾いた。
大剣の軌道も下がり、カインの胸ではなく石床を深く削る。
「もう一度来るよ」
エルザヴェートは一本目の刃を消さず、盾の環状紋へ向けたまま保持した。
「肩を完全に切る」
カインは大剣が再び持ち上がるのを待った。
「待つ必要は?」
ジークヴァルトは倒れかけた鎧人形の背後へ回った。
「攻撃開始前では、能力が使えない」
「なら、私が動かします」
ジークヴァルトは剣の柄で鎧人形の背部を打った。
破壊するためではなく、姿勢を前へ崩し、大剣を支え直させるための一撃である。
鎧人形の胸部がカインへ向き、大剣が再び持ち上がる。
「今だ」
カインの刹那逆断〈ファリブル〉が二度目の刹那を奪った。
今度は右肩だけでなく、胸部から肩へ続く代替導線まで断たれた。
大剣が床へ落ち、鎧人形の右半身が沈む。
「胸の古い刻印を止める」
エルザヴェートは二本目を出さず、保持していた一本へ新しい命令を与えた。
自律刃が盾から離れ、胸部の環状刻印へ直線で走る。
核を破壊せず、三つある接続点のうち中央だけを切ると、鎧人形を支えていた古い魔素が霧散した。
「残る左脚を外します」
ジークヴァルトの剣が足首の留め具を断ち、鎧人形は前のめりに倒れた。
巨体が床へ衝突する前に、三人は同時に距離を取った。
大盾と装甲が石床を打ち、通路へ重い音を響かせる。
鎧人形の眼部はまだ光っていたが、腕も脚も動かない。
エルザヴェートは自律刃を胸部の前へ残し、再起動の兆候を見た。
「まだ切るな」
カインが言った。
「君がそう言うとは意外だね」
「動けないなら、今は攻撃していない」
「さっきと逆じゃないか」
「古い術式の切れ方を見る」
カインは倒れた鎧人形の胸部を見下ろした。
先ほどの小型機構と違い、環状刻印は弱く点滅しながら自然停止へ向かっている。
「今回は、戻らない」
ジークヴァルトも剣を下げた。
「動力核を壊さず、接続点だけを外したためでしょう」
「なら、止めを刺す必要はないね」
エルザヴェートは自律刃を消した。
鎧人形の眼部から赤い光が消え、胸部の刻印も沈黙した。
三人の誰も高出力魔法を使わず、領地核へ続く最終通路が開かれる。
「候補者三名、最終防衛機構を停止」
立会官は震える指で記録板へ結果を書いた。
「破壊ではなく、機能停止として認定します」
「また共同か」
カインが低く呟いた。
「今度は明確に共同でしょう」
ジークヴァルトは剣を鞘へ戻した。
「あなたの刹那だけでも、私の剣だけでも、エルザヴェート様の自律刃だけでも、古い接続を残したまま止めるのは難しかった」
「一人でもできた」
「できたかもしれません」
ジークヴァルトは否定しなかった。
「ですが、今は三人で早く止めた。それで十分です」
「勝敗は別だ」
「もちろんです」
エルザヴェートは倒れた鎧人形から視線を外し、通路の奥を見た。
「ここまでは同じ道だった。でも、次の扉から先は一つの旗しか立たない」
最終扉は、三人が近づく前から薄く開いていた。
現行の管理局印は解除されていないにもかかわらず、扉の内側から青白い光が漏れている。
「止まってください」
立会官が認証板を確認し、顔色を変えた。
「最終扉は、三候補の認証後に開くはずです。まだ解除操作を行っていません」
「誰かが内側から開けた?」
エルザヴェートが尋ねると、ジークヴァルトは扉の隙間へ視線を向けた。
「人の気配はありません」
「魔素はある」
カインは剣柄へ手を戻した。
扉の向こうには、円形の領地核室が広がっていた。
中央の台座へ市街領の領地核が浮かび、その周囲を三重の古い環状術式が囲んでいる。
現行の候補戦術式は、領地核の表面へ薄い灰色の認証膜を作っているだけだった。
その下から別の線が伸び、床、壁、天井を通って市街領外へ続いている。
「これは、帝国の現行術式ではありません」
立会官は扉の外から室内を見た。
「領地核へ後から重ねられたものでもない。核が設置される前から、ここにあった構造です」
「建国以前の導線が、領地核を囲っている」
ジークヴァルトは三重の環を見た。
「候補戦制度が後から、この上へ作られたのでしょう」
エルザヴェートの胸元で、ネックレスが強く脈打った。
これまでの熱とは違い、石座そのものが僅かに浮き、領地核へ向かって鎖を引く。
エルザヴェートは腕を組んだ姿勢を崩し、初めて右手でネックレスを押さえた。
「エルザヴェート様!」
ローデリヒの声が鏡界越しに響く。
「引かれている?」
ナーヴァが尋ねると、エルザヴェートは一歩も進まず、石座を握ったまま答えた。
「鎖が前へ動いた。でも、ボク自身は引かれていない」
「下がれますか?」
「下がれるよ」
エルザヴェートは自分の意思で一歩後ろへ下がった。
ネックレスの鎖は張ったが、彼女の身体を無理に前へ運ぶ力はない。
「石が領地核へ反応している」
ジークヴァルトはネックレスと床の環を見比べた。
「分霊石と断定するには、まだ情報が足りません」
恵依の声が伝令石から届いた。
「ですが、ヴァイスで確認した波形より強いです。領地核へ近づけないでください」
「近づけたら、何が起こる?」
カインが尋ねた。
「分かりません」
恵依は曖昧にせず答えた。
「だから、今は接触させないでください」
「領地核を取るには近づく必要がある」
「候補者本人は近づけます。ただし、ネックレスが核へ触れない距離を保ってください」
「難しい注文だね」
エルザヴェートは石座を右手で押さえたまま、領地核室を見た。
「でも、できないわけじゃない」
その時、行政記録所から別の警告音が届いた。
中央の三方向ではなく、南東へ伸びた灰色線が急激に強くなっている。
「流川様!」
ゲブの声が緊張で上ずった。
「市街領外の接続先で、所属印の照合が始まっています!」
「どの領地ですか?」
「まだ特定できません。ただ、群青陣営の登録波形に近いです!」
エルザヴェートの目から笑みが消えた。
「ボクの領地?」
「可能性があります」
恵依は断定を避けながらも、警告を弱めなかった。
「市街領の領地核室が開いたのと同時に、別の群青領へ古い導線が接続しました」
「誰かが攻めているのか」
ローデリヒが尋ねると、ミレーネが外縁監視の報告を確認した。
「候補戦管理局からは、まだ敵軍接近の連絡なし。でも、通信が一部遅れてる」
「黒旗の別働隊は?」
ジークヴァルトがカインを見た。
「外縁路と南倉庫だけだ」
カインは即答した。
「群青領へ兵を出した?」
「ここへ来る前に、道は調べた」
「出したか聞いている」
「答える必要はない」
領地核室前の空気が変わった。
ジークヴァルトは剣へ手を触れず、エルザヴェートも自律刃を出さないまま、カインだけを見た。
「君らしいね」
エルザヴェートはネックレスを押さえたまま、薄く笑った。
「この市街領で三人が向き合っている間に、別の場所へ手を伸ばす」
「候補戦だ」
「否定はしないよ」
「守れないなら、失う」
「そうだね」
エルザヴェートは領地核室と、伝令石から届く南東線の警告を交互に見た。
ここで戻れば、市街領の領地核をジークヴァルトかカインへ渡す可能性が高い。
残れば、自分がすでに持つ別の領地が危険へ晒される。
「エルザヴェート」
ナーヴァの声が、伝令石越しに静かに届いた。
「今すぐ全部を決めなくていい。まず、何が起きてるか分ける」
「市街領の核。南東の接続。ネックレスの反応」
エルザヴェートは一つずつ口にした。
「それから、カインが別働隊を出したかどうか」
「そう」
「でも、候補戦は待ってくれない」
「だから、一人で抱えない」
エルザヴェートは返事をせず、右手でネックレスを押さえ続けた。
目の前には領地核、隣には二人の候補者、背後には自分の陣営から届く複数の声がある。
ジークヴァルトは領地核へ進まず、扉の外で立ち止まっていた。
「私は、南東の異常が確認されるまで認証へ触れません」
「譲るのか」
カインが尋ねると、ジークヴァルトは首を横へ振った。
「状況を確認するだけです。異常を無視して旗を立てても、帝国を守る剣聖候補の勝利にはならない」
「俺は進む」
カインは領地核室へ一歩入った。
「カイン」
ノアの声が鏡界越しに飛ぶ。
「地下の警告、聞こえたでしょ」
「聞いた」
「それでも行くの?」
「ここを取れば、市街の補給を守れる」
「群青の別領が危ないかもしれない」
「俺の領地じゃない」
カインの言葉は冷たく聞こえたが、歩幅は一歩で止まった。
領地核へ近づけば、古い三重環がどう動くか分からない。
「でも、誰かの街ではある」
ノアは責める声を上げず、静かに言った。
「勝つために、何を見ないことにするかはカインが決める。でも、見えてないふりだけはしないで」
カインは領地核を見たまま黙った。
領地核室の三重環が、候補者三人の迷いを待つようにゆっくり回転した。
群青、白耀、黒の認証線が床へ伸び、中央の核へ届く直前で止まっている。
エルザヴェートは腕を組まず、ネックレスを押さえたまま一歩前へ出た。
「ここまでは、三人で同じ障害を越えた」
彼女はジークヴァルトとカインを順に見た。
「でも、ここからは違う。ボクは自分の領地も、この街も、どちらも見ないふりはしない」
「両方は取れない」
カインが言った。
「取れるかどうか、これから考える」
「遅い」
「君は速すぎる」
「勝つには必要だ」
「守るには、止まる時も必要だよ」
ジークヴァルトは二人の間へ入らず、領地核室の外から静かに告げた。
「次の一手で、三人の違いが決まります」
行政記録所では、南東線の先から初めて明確な所属信号が返っていた。
群青陣営の旗印と一致するが、どの候補領かまではまだ判別できない。
「流川様」
ゲブは記録石へ浮かんだ波形を見た。
「接続先で、外部からの登録干渉が始まりました」
「候補戦の旗印ですか?」
「はい」
恵依は息を止めず、時刻と強度を記録した。
「誰の旗ですか?」
「黒です」
市街領の地下深くでは、鉄色の靴を履いた第三者が、南東へ伸びる導線を見下ろしていた。
黒い候補者印が群青領の登録層へ触れたことで、古い石盤の一部が淡く開いている。
「……次は、そこだ」
低い声とともに、石盤へ新しい線が刻まれた。
領地核室前では、まだ誰もその全容を知らない。
三人の剣は同じ道を越えたばかりだったが、次の勝敗はすでに別の領地でも動き始めていた。




