第一章 10 『三人目の日本人』
魔導灯の列の先に見えた石造りの建物は、近づくほどに中継地点らしい形を持ち始めた。
低い屋根は灰色の石板で覆われ、壁は白っぽい石を積み上げて作られている。入口の横には透明な球体の魔導灯が二つ灯り、その淡い光が扉と周囲の結界杭を照らしていた。窓の内側からも明かりが漏れていて、少なくとも完全な廃墟ではないことだけは分かった。
成瀬卓斗は、鞄の肩紐を握り直した。
草原、森、魔獣の影、毒の花、弱った結界。ここまでの道中で、安心できるものはほとんどなかった。そのせいか、ただ屋根と壁があるだけで、現代日本のコンビニに近い救いを感じてしまう。
「建物だ。屋根だ。文明だ。だいぶ助かる」
卓斗が思わず呟くと、隣を歩く流川恵依が建物の入口と周囲の魔導灯を確認した。
彼女は安心するより先に、扉の位置、結界杭の光、窓の高さ、退避できる場所を順番に見ている。落ち着いているというより、落ち着くために確認を止めない。そういう動きだった。
「中に誰がいるかは確認が必要です」
「流川、安心に毎回条件つけるのやめない?」
「条件を確認しない安心は危険です」
「真面目だなあ」
卓斗は半分呆れ、半分納得しながら中継地点を見た。
扉の横には木札が下がっている。そこには曲線と角ばった線が混ざった文字が刻まれていたが、卓斗には一文字も読めなかった。会話は通じるのに、文字はまったく読めない。便利なのか不便なのか、異世界の仕様が中途半端すぎる。
「会話は通じるのに看板読めないの、地味に不便すぎる」
「文字体系は別のようです。覚える必要があります」
「異世界来てまで勉強かよ」
「文字が読めない方が危険です」
「正論で追撃するな」
前を歩いていたティナが扉の方へ向かいかけた。
その横で、ゲブが急に足を止めた。水色のお下げ髪が揺れ、黄色い瞳が建物ではなく、結界杭の外側へ向く。白銅の魔素が空気中へ細く広がり、何かを探るように揺れた。
恵依もほぼ同時に顔を上げた。
「待ってください。前方の空間が歪んでいます」
「空間が歪むって日常会話で使う単語じゃないだろ」
「ですが、歪んでいます」
「真面目に押し切るな」
卓斗は反射的に中継地点の入口から一歩離れた。
建物の前、結界杭の切れ目に近い場所で、空気が薄く波打っている。魔導灯の光がそこだけ歪み、土の道の上にあるはずの影が左右へずれた。水面越しに景色を見ているような、不自然な揺れ方だった。
ゲブが白銅の魔素を伸ばし、歪みの周囲の魔素流を読んだ。
「確認できた範囲では、結界の乱れではありません。座標のズレに近い反応です」
「座標のズレって何。道が迷子になってるの?」
ティナが白銀の瞳を細めた。
「空間の魔素ね」
「また新しい魔素出てきた」
卓斗が言った直後、歪んだ空気が強く揺れた。
街道の外側、結界杭の切れ目付近に、細い裂け目のようなものが走る。そこから黒髪ボブの少女が勢いよく飛び出した。着地は成功したように見えたが、足元が少しずれ、彼女は地面を踏みしめながら体勢を立て直す。
その後ろから、オレンジ色の髪を魔法少女のように結った小さな少女が、慌てた様子で飛び込んできた。
「——あわわっ、絵麻ちゃん、待ってください! そっちはたぶん安全です! たぶんですけど!」
「たぶんで言わないで!」
黒髪ボブの少女は振り返りながら怒った。
次の瞬間、オレンジ髪の小さな少女が両手を前へ出した。白鋼色の光が四角い障壁となって出現する。だが、角度が斜めにずれ、壁は追ってくる何かを塞ぐというより、地面に斜めの板を突き刺すような形になった。
「ひゃっ!? す、すみません! 障壁の角度、ちょっとだけ間違えました!」
「ちょっとじゃない! だいぶ斜め!」
黒髪ボブの少女は、白鋼障壁の横へ回り込みながら叫んだ。
卓斗はその光景を見て、数秒だけ言葉を失った。空間が歪んで、人が飛び出して、障壁が斜めに刺さって、いきなり怒鳴り合いが始まった。異世界は静かに異常が起きる場所だと思いかけていたが、どうやら騒がしい異常も普通にあるらしい。
「何か増えた」
ティナは少女たちを見て、短く告げた。
「ラールね」
「お前ら竜精霊、登場が全部迷惑なんだけど」
卓斗が言い終える前に、結界の外側の草むらが大きく揺れた。
黒髪ボブの少女たちは、何かに追われてきたらしい。草の低い位置を、小型の影が複数走っている。犬ほどの大きさに見えるが、背中が妙に丸く、爪で土を引っかく音がした。
恵依がすぐに街道の位置を確認した。
「成瀬くん、右へ。そこは障壁の影になります」
「了解。もう指示に従うの慣れてきたのが嫌だ」
「慣れてください」
「そこも真面目に返すんだな」
卓斗は鞄を抱え、恵依が示した位置へ下がった。
そこは結界杭の内側で、斜めに出た白鋼障壁の陰にもなる。初対面の少女たちが作った障壁を信用するのは少し怖かったが、結界の外側に近づくよりはマシだった。
ゲブが白銅の魔素を広げ、外側から来る気配の方向を読む。
「小型魔獣と思われる反応が三つ。距離十歩。結界の切れ目へ向かっています」
「流川、どこが薄い?」
「正面の杭と、左側の杭の間です。ラールさんの障壁がずれているので、そこを補う必要があります」
「ラールさんってもう名前把握したの早くない?」
「聞こえましたので」
ティナが指先を動かした。
白銀の光が斜めになった白鋼障壁の端へ重なり、空気の硬度を変える。斜めに刺さっていた障壁の隙間が、白銀の硬化した空気で一時的に埋まった。完全な壁ではないが、小型魔獣が通るには十分な抵抗になっている。
黒髪ボブの少女は、その補助に一瞬だけ視線を向けた。
だが、すぐに結界の外側へ向き直る。足元の空気がわずかに歪み、彼女の位置が半歩ほど横へずれた。移動したというより、立っている場所そのものが滑ったような動きだった。
「ちょっと、ぼーっとしてないで下がりなさいよ!」
黒髪ボブの少女が卓斗へ言った。
卓斗はすでに下がっていたが、初対面で怒られたことに少しだけ眉を上げた。
「初対面で怒られたんだけど」
「怒られる位置にいたからでしょ!」
「いや、今はもう下がってる」
「じゃあそのままそこにいなさい!」
「強いな、この子」
白鋼障壁の向こうで、小型魔獣の一体が結界へ突っ込んだ。
見えない壁にぶつかったように弾かれ、草むらへ転がる。残り二体は左右に散り、薄い部分を探るように動いた。ゲブの白銅がその進路を読み、恵依がすぐに指示を出す。
「ラールさん、右側を固定してください。角度は街道に対して垂直です」
「は、はいっ! 垂直ですね! 垂直って、こうですか!?」
ラールの白鋼障壁が今度は右側へ出た。
さっきよりはましだが、少し手前に出すぎている。黒髪ボブの少女が、眉を吊り上げた。
「ラール、前すぎ!」
「す、すみません! でも塞げてます!」
「結果だけで押し切らない!」
卓斗はそのやり取りを聞きながら、結界の内側で息を詰めていた。
騒がしいが、障壁自体は硬い。小型魔獣が爪で引っかいても、白鋼の壁は削れない。ティナの白銀が隙間を塞ぎ、ゲブの白銅が結界の流れを補助し、恵依が薄い場所を示す。黒髪ボブの少女は空間の歪みで位置をずらし、追ってくる魔獣の視線を外していた。
卓斗は何もしていない。
ただ、今はそれでいいと自分に言い聞かせた。
小型魔獣たちは、しばらく結界の外側をうろついたあと、魔導灯の光と補強された結界を嫌うように草むらへ退いた。草の揺れが遠ざかり、爪が土を削る音も聞こえなくなる。
ゲブが静かに告げた。
「反応、後退しました」
「追ってこない?」
「確認できた範囲では、距離を取っています」
恵依は緊張を解かずに周囲を確認し、ようやく小さく息を吐いた。
黒髪ボブの少女も肩で息をしながら、ラールの方へ振り返った。ラールは白鋼障壁を消し、両手を胸の前でわたわたさせている。
「絵麻ちゃん、だ、大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「私は平気。ラールこそ、次から角度ちゃんと見て」
「はいぃ……次こそちゃんと守りますから!」
「今も助かったけど、たぶんで出すのはやめて」
黒髪ボブの少女は、文句を言いながらもラールを責め切ってはいなかった。
卓斗はそこを見た。強い言葉が出るわりに、見捨てる感じではない。むしろ、ラールが慌てていることを分かった上で、どうにか動かそうとしているように見えた。
その少女が、改めて卓斗たちを見た。
「……で、あんたたち誰?」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
「先に聞いたのは私」
「順番で主導権取るタイプか」
「何よ」
「いや、初対面なんで抑えてます」
卓斗は両手を少し上げた。
本気で喧嘩するつもりはない。相手も日本人らしい空気を持っているし、何より今しがた魔獣に追われていた。強めの言葉に強めで返すのは簡単だが、この状況では効率が悪い。
恵依が一歩前へ出た。
「まず、情報を整理しましょう。あなたも日本から来た方ですか」
黒髪ボブの少女は恵依を見た。
卓斗を見る時より、少しだけ警戒が薄い。恵依の落ち着いた口調と、さっきの的確な指示を見て、最低限話す価値はあると判断したのだろう。
「だったら何?」
「同じ状況の可能性があります。私たちも日本から来ました」
「……あんたたちも?」
黒髪ボブの少女の視線が、卓斗、恵依、それからティナとゲブへ動いた。
最後にラールを見る。ラールは何かを言いたそうに口を開き、絵麻に見られて一度閉じた。だが、我慢できなかったのか、すぐに勢いよく両手を上げる。
「あ、あのっ! 私はラールです! 竜精霊です! この子は絵麻ちゃんで、えっと、日本から来た契約者で――」
「ラール、全部言わなくていい!」
「ひゃっ!? す、すみません!」
卓斗は思わずラールを見た。
情報漏洩が早い。
しかも、本人は悪気ゼロで言っている。明るく、一生懸命で、慌てていて、危なっかしい。ティナともゲブとも違う方向で不安になる竜精霊だった。
「情報漏洩が早い」
「ラールらしいわね」
ティナが淡々とした声で言う。
ゲブは白銅の魔素を収めながら、丁寧に補足した。
「確認できた範囲では、説明は概ね正確です」
「正確ならいいって話じゃないでしょ!」
黒髪ボブの少女が即座に返した。
卓斗は、今の一言で彼女の名前をほぼ把握した。絵麻。日本から来た契約者。竜精霊ラールの相手。つまり、自分や恵依と同じ立場の三人目だ。
少女は少しだけ息を整え、腕を組んだ。
「西野絵麻。高校生。……竜精霊に巻き込まれた側よ」
「成瀬卓斗。こっちも巻き込まれた側」
「流川恵依です。同じく日本から来ました」
恵依が名乗ると、絵麻は少しだけ顎を引いた。
警戒は消えていない。だが、同じ日本人だと分かったことで、会話を続ける気にはなったらしい。卓斗へ向ける視線は、まだかなり強い。
「男もいたのね」
「いたら悪い?」
「別に。頼れるかどうかは別だけど」
「初対面から評価低めだな」
「高くする理由がまだないでしょ」
「それはそう」
卓斗は素直に認めた。
言い返せなくもないが、絵麻の警戒は正しい。この状況で、会ったばかりの相手をすぐ信用する方が危ない。まして卓斗は、自分でもまだ何ができるのか分かっていない。
ラールが絵麻の横で、申し訳なさそうに手を組んでいる。
「絵麻ちゃん、でも成瀬さんたち、さっき助けてくれましたよ」
「助けてくれたことと、信用することは別」
「は、はいっ。確かにそうです!」
「そこで元気よく納得しないで」
卓斗はラールの勢いに少し圧倒された。
ゲブの丁寧さとは違う。ティナの辛辣さとも違う。ラールは明るくて、素直で、一生懸命なのだろう。だが、その分、何か大事なことも勢いで言ってしまいそうな危うさがあった。
ティナが三人の日本人を見渡した。
「これで三人ね」
「三人?」
卓斗、恵依、絵麻の声が近いタイミングで重なった。
ティナは当然のことのように続けた。
「竜精霊は三人。契約者も三人必要だったわ」
「それ先に言え?」
卓斗が即座に言った。
恵依もわずかに眉を寄せる。
「私も、人数までは聞いていません」
絵麻は腕を組んだまま、ラールを見下ろした。
「は? 私たち、最初から数に入れられてたわけ?」
「あわわっ、えっと、その、必要だったんですぅ……」
「必要って言えば通ると思わないで」
ラールはしょんぼりした。
卓斗はその光景を見て、少しだけ頭を抱えたくなった。竜精霊三人。日本人契約者三人。どうやら最初から、この構図になるように進められていたらしい。しかも、その情報を契約者側はほとんど知らされていない。
「竜精霊、説明不足チームすぎる」
「否定は難しいと思われます」
ゲブが静かに言った。
「ゲブまで認めるのかよ」
「事実確認として、説明は不足しています」
「丁寧に味方撃ちするな」
絵麻が卓斗をちらりと見た。
「そっちの白銀の子も強引だったわけ?」
「強引どころか、契約して異世界へ飛ばすまでワンセット」
「最悪じゃない」
「西野の方も?」
「似たようなものよ。ラールは悪気ない顔で巻き込んできたけど」
「それもそれで怖いな」
「聞こえてますぅ……」
ラールが小さく肩を落とした。
絵麻はため息をついたが、すぐにラールの方へ半歩寄った。強く言っているわりに、見捨てる距離ではない。ラールも叱られ慣れているのか、落ち込みながらも絵麻の近くを離れなかった。
恵依は、三組の位置関係を確認しながら話を戻した。
「西野さん、先ほどの空間の歪みはあなたの魔素ですか」
「たぶんね。距離とか位置をずらす感じ。まだちゃんと分かってるわけじゃないけど」
「空間移動できるの便利じゃん」
卓斗が言うと、絵麻はすぐに眉を吊り上げた。
「便利って言うほど簡単じゃないわよ。見えてる範囲じゃないと危ないし、連続で使うと気持ち悪くなるし、着地もずれるし」
「思ったよりデメリット多い」
「そうよ。だから便利とか軽く言わないで」
「悪い。初対面だから抑えめに謝る」
「何その謝り方」
ラールが慌てて両手を振った。
「でもでも、絵麻ちゃんの空間魔素はすごいんです! さっきも私を引っ張って逃がしてくれて、でも連続で使うとふらついちゃって――」
「ラール、余計なこと言わなくていい!」
「ひゃい!」
絵麻の耳が少し赤くなっていた。
卓斗はそこを見て、強気なだけではないのだと理解した。絵麻は前に出る。強い言葉も使う。けれど、ラールを置いて逃げる気はないし、無理をしている部分を見られるのは嫌なのだろう。
ティナは中継地点の入口へ視線を向けた。
「合流はできたわ。次はこの場所の確認ね」
「その前に、説明不足の会議したくない?」
「後よ」
「後回し多すぎだろ」
恵依が建物と結界杭を見比べた。
「まず、結界異常の報告を優先しましょう。私たちの事情は、その後で必要な範囲だけ説明するべきです」
「流川、もう会議始めてる」
「優先順位を決める必要があります」
絵麻は恵依の言葉に少しだけ考える顔をした。
その反応は意外にも早かった。卓斗に対しては刺々しいが、恵依の整理には納得したらしい。絵麻は中継地点の扉を見て、腕を組み直した。
「でも、それが一番マシじゃない?」
「西野も真面目寄り?」
「一緒にしないで」
「流川と同じ枠に入れられるの嫌なの?」
「そういう話じゃない」
恵依が卓斗を見た。
「今の発言に分類の意図はありましたか」
「ごめん、話がややこしくなるからやめよう」
卓斗はすぐ引いた。
この場で恵依と絵麻の両方を相手にするのは効率が悪い。しかも、絵麻は初対面でまだ距離がある。弄るには早い。卓斗はそこを判断し、余計な軽口を飲み込んだ。
ゲブが建物の方へ白銅の魔素を伸ばした。
「確認できた範囲では、内部に複数の人の反応があります。敵意は断定できません」
「断定できないってことは、普通に警戒しろってことだよな」
「はい」
「丁寧に怖い」
ラールが不安そうに扉を見た。
「えっと、ちゃんと話せば分かってもらえるでしょうか……?」
「分かってもらうしかないでしょ」
絵麻は強気に返したが、その声にも少し緊張が混じっていた。
日本人の高校生三人と、竜精霊三人。異世界の中継地点に突然現れ、結界異常を伝えようとしている。どう考えても怪しい。自分たちが相手の立場なら警戒する、と卓斗でも分かった。
六人は、低い石造りの建物の前で足を止めた。
扉の横には、卓斗には読めない文字が刻まれた木札が下がっている。会話は通じるのに文字は読めない。そんな中途半端な便利さを恨みながら、卓斗は鞄の肩紐を握り直した。
中から、人の声がした。
日本人でも竜精霊でもない、この世界の誰かの声。
卓斗が息を整えるより早く、扉の向こうで金具が鳴った。
そして、石造りの中継地点の扉が、ゆっくりと開き始めた。




