9.崩壊
午前十一時五十九分。
本部長は席を立った。
「ではプランAを採用する」
合図もなく全員が一斉に起立した。
「ご指導ありがとうございました」
「本部長のおかげであります」
「完璧な作戦です」
本部長は満足そうに頷いた。
当然だ。
投入戦力、封鎖地点、予備隊の配置、連絡系統、どこにも穴はない。
作戦実行の際には不法滞在者どもを一網打尽にできるだろう。
時計の秒針が最後の一目盛りを刻む。
正午。
その瞬間だった。
――ガシャァン!
何かが割れるような音が響いた。
一瞬の静寂。
本部長は眉をひそめた。
「何事だ」
お互いの顔を見合わせる幹部達。
しかし本部長の問いに答えられる者はいない。
会議室の出入口側にいる幹部が何かに気がつき、本部長の頭越しに窓へ視線を向ける。
「……なんだ、あれは」
本部長も窓を見る。
街並みが消えていた。
黒い雲のようなものが窓一面を覆っている。
よく目をこらすと、それは無数の小さな影の集まりだった。
それらが渦を巻きながら窓ガラスへ勢いよく当たっている。
やがて換気口からも黒い影が流れ込んできた。
ふわふわと舞うそれは、蛾の群れだった。
天井の蛍光灯へ殺到し、鱗粉を撒き散らす。
咳き込む者が現れた。
本部長はハンカチを口元へ当て、くぐもった声で叫ぶ。
「おい!なんとかしろ」
席を立って出口へ向かう。
その時、廊下の奥から悲鳴が聞こえた。
続いて怒号。
何かが倒れる音。
会議室の空気が変わる。
不意に照明が消え、会議室が暗闇に包まれた。
一拍遅れて赤い非常灯が点灯する。
だがその光さえ蛾の群れに遮られ、会議室全体が薄暗い血の色に染まった。
「停電か?」
誰かが呟いた。
「予備電源へ切り替えろ!」
幹部の一人が即座に命令した。
その直後。
会議室の扉が勢いよく開いた。
呼吸の乱れた制服姿の署員が転がり込んでくる。
「地下の配電室に大量の蜂が!――」
視線が床へ落ちる。
「うわっ!」
署員が後ずさる。
床を何かが這っている。
黒光りする長い胴体に無数の足。
それが会議室の隅から隅へと走り回っていた。
混乱が連鎖する。
「落ち着け!」
今度は無線機が鳴った。
『通信室より!』ノイズ『本館との回線が――』
ブツリ、と切れる。
『換気設備停止!』
『ボイラー室異常!』
『宿直室が――』
次々と別の報告が割り込んでくる。
怒号、砂煙、無線、足音、蜂の羽音。
警察署は統制を失い始めていた。
本部長は苛立ちを抑えながら会議室を出た。
廊下の壁には濃緑色の小さな影が無数に走り回っている。
床の黒い虫を踏み潰しながら廊下を進む。
エレベーターのボタンを押し、すぐに動かないことに気づき階段を上る。
上層階の本部長室へ向かう為だ。
踊り場の窓に張り付く蛾の隙間からわずかに外が見えた。
刹那の違和感。
正門の前に、一人の少女が立っている。
煤けた麻の衣。
不釣り合いなほど白い首筋。
その背後にはずんぐりとした四つ足の、あれは驢馬か?
さらに犬のような小さな丸い影。
少女はこちらを見上げ、そして、笑ったように見えた。
本部長は無意識に眉をひそめる。
誰だ?
少女の唇が動く。
ガラス越しで声は聞こえない。
しかし、その口の動きが、本部長の胸の奥底で忘れていたはずの遠い記憶をかすかに疼かせた。




