2.タヌキ
山を包む湿った空気の中に、奇妙な音が響いていた。
「ポキョー、ポキョー……」
桃太郎が藪をかき分けて進むと、平地の猟師が仕掛けた古い木製の箱罠があった。
頑丈な格子の向こうで、泥を捏ねたような毛並みのタヌキが、出入り口の塞がった板の前に丸まっている。
「ポキョーなんて鳴くタヌキ、初めて見たな。⋯かわいいかも」
桃太郎は思わずそう呟き、煤けた麻の衣から覗く白い顎を少し傾けた。
好奇心に満ちた桃太郎の瞳が、格子越しにタヌキを覗き込む。
タヌキはハッと身を震わせたが、逃げ出そうとはしなかった。
「……あ、あの、驚かせて申し訳ありません」
タヌキは消え入りそうな声で、しかしどこか恍惚とした様子で言った。
「私はこの箱から出られないのですが、不快ではないのです。ご覧ください、この箱の構造を。自然界には決して存在しない、完璧な平面。そして継ぎ目が、一寸の狂いもなく正確な直角で揃えられている。この幾何学的な均整美、規則性……!平地の鬼が作ったものとはいえ、この秩序の美しさには深く感心せざるを得ません。この整った空間に閉じ込められていると、私の脳内の雑音が消えて、むしろ少し居心地の良さすら感じてしまうのです」
あまりにも奇妙なタヌキの述懐に、桃太郎はしばらく無言でウメガイの柄をトントンと叩いていた。
彼女は少し考えてから留め金を外し、箱の蓋を持ち上げてやった。
「もう大丈夫だ。出なさい」
タヌキはのそりと外へ足を踏み出した。
しかし、地面のわずかな段差に気づかず、自らの足を引っかけて盛大に転がった。
身体の各パーツが別々に動いているかのようなぎこちない動きで、泥まみれになりながら起き上がる。
「……重々、申し訳ありません。私は生まれつき身体をふつうの獣のように上手く動かせず、いつも世界に迷惑をかけ続けている役立たずです。本当は早く死んで、山の土に還ってしまった方が良いのですが……」
卑屈に頭を垂れるタヌキを見つめ、桃太郎は麻布に包まれた大きく膨らんだ胸を張り、凛とした声を発した。
「私は、ドーニン山の桃太郎だ」
その山名を発した瞬間、彼女の声に力が籠もった。
「私は、山窩の生き方を脅かす平地の鬼を退治しに行く。
お前、死にたいくらい生きづらいなら、その前に私に力を貸しなさい」
「鬼、退治……ですか」
タヌキの瞳に、それまでの卑屈さとは全く違う、鋭く烈しい光が宿った。
「彼らは、法の正義を騙りながら、多様な生き方を暴力で平らにならそうとする、構造的な差別主義者です。近代国家の官僚制が、戸籍という管理システムを用いて漂泊の民を排除するのは、歴史的にも明白な悪行。……私は不器用で、いつも死にたいと思っています。ですが、その不条理な悪を見過ごすことは、私の正義が許しません。お連れください、ドーニン山の桃太郎殿。私の脳にあるあらゆる知識を、貴女の戦いに捧げます」
桃太郎はタヌキの言葉の半分も理解できなかったが、その不器用で、あまりにも純粋なタヌキを見つめ、静かに微笑んだ。
「お前のその知識、私が貰ってあげる。行きましょう」
こうして、生きることに絶望した一匹のタヌキが、美しき山窩の少女の最初の仲間となった。




