1.きびだんご
天幕の薄い布を透かして、山の冷気が這い寄ってくる。
老いた兄が一日をかけて刈ってきた芝は、この山を流浪する者たちにとって、一日一回、夜の食事を作るための命綱そのものだ。
しかし今夜、その貴重な燃料は、真昼に土器の湯を沸かすために焚べられている。
「本当に行ってしまうのだね、桃太郎」
湯気が立ち上る木鉢の前で、白髪の混じる老婆が掠れた声で呟いた。
老婆の前に、その少女——桃太郎は立っていた。年の頃はまだ、平地であれば学校に通っているような、幼さの残る年齢だろう。
しかし、その境界線は曖昧だった。
煤けた麻の衣から覗く首筋は、抜けるように白く細い。
過酷な山暮らしに不釣り合いなほど整った鼻梁と、大きく切れ上がった双眸。
炭を擦り付けたような泥にまみれてなお、隠しきれない平地民の洗練された骨格と、瑞々しい肉体の輪郭が、天幕の貧しい火光の中に浮かび上がっている。
彼女は、山窩の血を引いていない。平地の人間が、川へ流した『捨て子』だった。
老婆は、握り慣れた太い木の棒を両手で掴むと、渾身の力を込めて木鉢の中を捏ね始めた。
鉢の中にあるのは、山肌に自生していた野生の糠黍の粒を、石で突いて殻を剥いたもの。
材料は、その糠黍の粒と、沸騰した水だけだった。
粘り気のない雑穀の粒を、熱湯だけで強引にひとまとめにするのは、老いた身体には過酷な重労働だ。
棒を突き立て、粒を押し潰すたびに、節くれ立った指の関節が強張り、肩の骨が悲鳴を上げる。
額から滴る汗が、糠黍の生地へと落ちていく。
桃太郎は、その痛々しい姿を、胸を締め付けられるような眼差しで見つめていた。
これこそが、彼女が「平地の甘い血」である証拠だった。
山窩の厳しい暮らしにおいて、働けなくなった老人は「口減らし」のために山へ捨てるのが習慣だった。
そこに誇りも伝統もなく、ただ生き延びるための無情な現実として、淡々とそれに従っている。
だが、定型発達の精神構造を持って生まれた桃太郎には、育ての親であるこの老兄妹を捨てるなど、狂ってもできなかった。
親を想い、その老いに涙する平地民の感情は、山窩の長老たちから見れば「根性の足りない、弱く甘い血の証」でしかなかった。
「お前が平地の間引き子だから、そんな腑抜けた顔になるのだ」
集落のボケ老人たちに嘲笑われた言葉が、彼女の胸の奥で燻っている。
血が繋がっていないからこそ、誰よりも山窩の仲間として認められたい。
あの老人たちを見返し、この老兄妹に「口減らし」などさせない豊かな山を取り戻す。
それが、彼女が死地へ向かう、切実な承認欲求の裏返しだった。
「……できたよ、桃太郎」
何度も捏ね、叩きつけ、ようやく丸められたいくつかの団子。
それは決して、街の手土産にあるような柔らかく甘い菓子ではない。
粒の輪郭がそのまま残る、無骨で、固く、大地の匂いが残る黄色い塊——生きるための糧だった。
桃太郎はそれを静かに口へと運んだ。野生の糠黍特有の強い渋み。
噛み締めるたびに粒が弾け、飲み込んだ瞬間、団子は塊のまま彼女の細い喉を通り、胃の底へとずっしりと落ちていった。
お腹の底に、まるで熱い石を据え置かれたかのような圧倒的な存在感。
老兄妹が命を削って集めた薪の熱。老婆が骨を軋ませて込めた執念。
それが、きびだんごを通じて彼女の未成熟な身体へと融和していく。
(重い。だが、漲ってくる——)
次の瞬間、五臓六腑から熱い塊が弾けるように、全身の血が騒ぎ出した。
平地の血が流れる美しい肉体が、山窩の魂によって完全に支配されていく。
老人たちへの怒り、平地への憎悪、そして「認められたい」という渇きが、底知れぬ力と勇気へと昇華されていく。
「行ってくる」
細い手でウメガイの柄を力強く握り締め、桃太郎は天幕の闇から、平地の鬼が待つ外の世界へと歩み出た。
誰よりも優しく、誰よりも苛烈な、「日本一の山窩」になるために。




