14.対峙
警察署内は、もはや虫達の巣窟だった。
暗闇、虫の羽音、遠くで壁が崩れる音、誰かの怒号。
その全てを聞きながら、桃太郎は正面玄関から中へ入る。
煤けた麻の衣、腰にはウメガイ。
細い首筋は、闇の中でも不思議なほど白い。
警察官たちが彼女を見かけるが、襲撃者だとは思いもよらない。
補導か保護でもされていた子供だろうか、と思うだけで、話しかける余裕はない。
桃太郎の歩みを止めるものはなく、階段へ向かう。
二階、三階、四階。
途中の廊下では、オオムカデに足を噛まれた警察官たちが苦悶の声を上げていた。
別の場所ではスズメバチの群れが飛び回っている。
だが桃太郎は気にしない。
それは仲間たちの戦場だった。
彼女の獲物は一匹だけ。
階段の踊り場で、不意に蹄の音が聞こえた。
南部馬が目を閉じたまま立っている。
「見つけたか」
桃太郎が尋ねる。
南部馬は静かに頷いた。
「一番高い場所の、奥の空間ですわ」
耳が微かに震える。
「鼓動が聞こえます」
桃太郎は階上を見上げた。
「鬼か」
南部馬は微笑んだ。
「混乱しております」
桃太郎は頷き、再び階段を登り始める。
本部長室。
厚い扉の向こうで、本部長は窓際に立っていた。
無線はノイズと不明瞭な内容ばかりを伝える。
窓の外は蛾の群れで黒く染まっていた。
何が起きているのか誰も説明できない。
本部長は苛立ちを抑えながら窓の桟を叩いた。
その時だった。
足音が廊下から近づいてくる。
扉が開いた。
そこに立っていたのは一人の少女だった。
煤けた麻の衣、白い首筋、大きな瞳。
本部長の呼吸が止まる。
「私はドーニン山の桃太郎だ」
どこか懐かしさを覚える、凛とした声だった。
脳の奥で遠い記憶がうずき、一瞬で我に返る。
堂仁山と名乗った。
不法滞在者だ。
生年月日すらハッキリせず、国が定めた宅地に定住せず、何も生み出さず、税を逃れ、倫理も道徳もない社会のゴミ。
なぜ今ここにいる。
「これはお前の仕業か?」
本部長は後退った。
机の脇へ手を伸ばし、警棒を引き抜く。
桃太郎は静かに間合いを詰める。
「止まれ、目的は何だ」
桃太郎は構わず本部長へ近づいていく。
警告無視。
本部長の判断は早かった。
警棒を振りかぶり、斜めに振り下ろす。
桃太郎は身体を半歩ずらすだけで避ける。
続けざまに二撃、三撃。
当たらない。
まるで次の動きを知っているようだった。
再び踏み込む。
桃太郎の細い腕が本部長の手首を払う。
警棒が床へ転がった。
手首を押さえて顔を歪める。
「貴様ァ……!」
怒声とともに突進、だが桃太郎は動かない。
本部長の両手が桃太郎の両肩にかかる。
桃太郎がバランスを崩して背後へ傾く。
本部長は桃太郎をそのまま押し倒そうとする。
桃太郎は表情を変えず、背中に手を回した。
男が覆いかぶさる、その瞬間。
桃太郎の腰の脇から、一本の棒が前へ突き出た。
山で育ての親から教わった構え。
猪にも熊にも、正面から力比べはしない。
相手の勢いを、そのまま返す。
本部長は止まらない。止まれない。
自らの勢いのまま、脇腹が棒の先へ激突する。
ミズナラの繊維がしなる事なく力を伝達する。
もう一方の先端は、鹿の生皮で覆われた石突が滑り止めとなり、床を捉えて微動だにしなかった。
本部長の身体が棒へ縫い留められるように折れ曲がった。
「……がっ……!」
本部長が膝をついた。息が詰まる。
もう立ち上がれない。
冷や汗をかき、苦悶の声を漏らしながら少女を見上げる。
その首筋。その顔。その目。
不意に遠い日の女と重なる。
腕に赤子を抱え、山道を駆ける後ろ姿。
「お……前……」
震える声が漏れる。
「お前まさか……あの女の娘か……」
桃太郎は静かに首を傾げた。
「あの女?」
桃太郎はウメガイを抜き、本部長の喉元へ静かに向ける。
「何のことか、よくわからないが……」
凛とした声が、本部長室に響く。
桃太郎は本部長を静かに見下ろした。
「こちらの要求を告げる」
本部長は苦痛に顔を歪めながら笑った。
「要求だと……? 警察が、お前たちホームレスに屈するとでも思っているのか」
桃太郎は首を横に振った。
「なーに、難しいことではない」
ウメガイの切っ先が、わずかに揺れる。
「かつて君たち鬼が好んで口ずさんでいた流行歌を、ただ有言実行してくれたらいいんだ」
本部長は眉をひそめる。
「……何?」
桃太郎は穏やかに微笑んで言った。
「Let it go(放っておいて)」




