12.黙哭
建物の奥で何かが崩れる音が響いた。
その音に混じって、重い蹄の音がゆっくりと近づく。
南部馬は瞼を閉じたまま廊下を歩いている。
音、振動、匂い、空気の味。
五感を通じて得られるあらゆる情報が脳裏にイメージを作り出す。
「皆様はご存知ないのでしょうね」
鈴を転がすような静かな声だった。
しかし警察官たちは耳を塞ぎたくなった。
その声だけが不思議と騒音の中から浮かび上がって聞こえる。
「私には、蛍光灯の唸り声も聞こえます」
ドン。
「遠くの冷蔵庫の振動も」
蹄が壁を打つ。
「人が苛立つ時の呼吸の乱れも」
石膏が砕ける。
「誰かが泣きそうになる時の心臓の音も」
壁に大きな亀裂が走る。
「昔、人々は私達を『引っ込み思案』と呼びました」
南部馬は微笑みを浮かべた。
「『その根暗な性格を直しなさい』と」
微笑みが歪む。
「やがてHSPという言葉が流行りました」
蹄が床を鳴らす。
「すると多くの方々が名乗り始めたのです」
振動が建物中へ広がる。
「私も傷つきやすい」
一歩。
「私も繊細だ」
また一歩。
「人の気持ちがわかる」
彼女は首を傾げた。
「だから私もHSPだ」
遠くでスズメバチの羽音が響く。
「本当にそうだったのでしょうか」
警察官たちは後退り、南部馬の巨体をただ見守るしかない。
「大半の方は、私たちの苦しみを知ろうともなさいませんでした」
彼女の声はどこまでも穏やかだった。
「『感受性の豊かな優しい自分』
『他人の気持ちが分かる自分』
『傷つきやすくて特別な自分』
その物語に酔っていただけでした」
強烈な蹴りが壁を砕いた。
破片が崩れ落ち、粉塵が舞う。
「その結果」
南部馬は静かに続ける。
「本当に苦しんでいた者達の声は、雑音の中へ埋もれました」
彼女は天井を見上げた。
「私達はいつもヘトヘトで、毎日が限界なのです」
南部馬は初めて怒りを滲ませた。
「あなた方は私達の苦しみを理解しなかった」
蹄が床を打ち、建物全体が震える。
「理解したつもりになっただけです」
轟音と共に、廊下の壁が崩れ落ちた。




