没落貴族、裏通りを制す
「金を渡す。代わりに市場で食料を調達し、屋敷へ届けろ。報酬は都度支払う。拒否権はない」
「……え?」
バロッツォは瞬きを繰り返した。
どうやら話の内容を理解しきれていないらしい。
「……本当にそれだけですか? もっと、こう……裏の取引とか……」
「単純明快だろ。俺は今、人前に出る立場にない。それだけの話だ」
ノクスの声は冷ややかだった。
没落した悪逆貴族という烙印のせいで、彼が市場に出れば騒ぎになる。
ゆえに代行者が必要だった。
しばし沈黙の後、バロッツォは苦笑した。
「……なんだ、てっきり命がけの仕事でも頼まれるのかと。弱みを握られてる身としては、心臓に悪いですよ」
「過剰な要求は効率が悪い。おまえが普通に働いてくれれば、それで十分だ」
「な、なるほど……」
拍子抜けしたように頭を掻き、安堵の息をつく。
バロッツォは納得した様子で、差し出された金袋へゆっくりと手を伸ばした。 だがその時だった。
「おいッ、バロッツォ! その手を引っ込めろ!」
裏通りの奥から怒声が響いた。
振り返ると、屈強な男がひとり、こちらへ大股で近づいてくる。
肩幅は扉二枚分、腕は丸太のように太い。
裏通りの運び屋グランチだった。
「バロッツォ、おまえ、悪逆貴族に脅されてるのか? この野郎が無理やり──!」
「ち、違う! 誤解だ、落ち着け!」
必死に弁明するバロッツォの声も届かない。
グランチは完全に血が上っていた。
「黙ってろ! この通りの仲間を守るのが俺の務めだ!」
拳を鳴らし、グランチが一歩踏み出す。
その音が、空気の流れさえ変えた。
ノクスは深く息を吐いた。
「俺は脅していない。ただ依頼をしていただけだ」
「言い訳すんな! 貴族が俺たちに指図できると思うな!」
拳が飛ぶ。
鈍い音を伴いながら迫るその一撃を、ノクスは半歩下がるだけでかわした。
衣の裾すら揺らさず、静かに距離を取る。
「まったく面倒な……。ひどい脳筋ぶりだな」
次の瞬間、風が鳴った。
ノクスの指先に魔力が集まり、青白い光が走る。
グランチとは、これまでのループで一度も戦ったことがないが、この程度の相手なら過去の記憶などなくても楽に倒せる。
「応じろ、風の脈動」
足元に浮かぶ魔法陣が淡く輝き、風の渦が膨張する。
グランチの視界が歪んだ。
重力が反転したような錯覚の後、彼の巨体は宙に浮き──。
「ぐあああッ!?」
轟音とともに屋台を突き破り、背後の壁へと叩きつけられた。
木片が弾け飛び、粉塵が路地に舞う。
ノクスは一歩も動かず、静かに手を下ろした。
渦巻いていた風が音もなく収束していく。
「当たらなければ、力は意味をなさない」
瓦礫の中で呻くグランチを見下ろしながら、淡々と呟く。
その声には、怒りも興奮も一切なかった。
屋台の陰から、バロッツォが恐る恐る顔を出す。
「……ひ、ひえ……い、今の、魔法ですか……? 人を吹っ飛ばして、でも、殺してない……」
ノクスは視線を向けずに答えた。
グランチは壁に倒れたまま動かないが、確かに生きている。
手加減の範囲を、寸分も狂わせずに叩き込んだのだ。
「必要以上の破壊は無駄だ。制御できて当然だろう」
言いながら、背後を振り返る。
戦いの最中から気づいてはいたが、いつの間にか、裏通りで暮らす人々がこちらを窺っていた。
「あの強烈な風魔法を見たか……?」
「化け物みたいな技だったぞ……。空気そのものが、あいつに従ってた……」
「アルヴェインの跡取り息子は、ちっぽけな小悪党なんかじゃない。想像を遥かに超える怪物だ……!」
ささやき声がざわめきに変わる。
恐怖と驚愕が入り混じった空気が、狭い路地を満たした。
ノクスはその視線を背に、ゆっくりと踵を返す。
何も言わず、壊れた屋台の横を通り過ぎた。
——その日を境に、裏通りでは一つの噂が広まる。
“悪逆貴族ノクス・アルヴェイン”は、無力な貴族などではない。
怒らせてはならない“風の怪物”である、と。
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