追い詰められた義兄
重厚な深紅のカーテンが外界の光を完全に遮るため、ロクセーヌ伯爵邸の応接間は昼なお暗い。
その奥深く、大理石の暖炉に燃える炎だけが、陰鬱な室内を不気味に照らし出していた。
暖炉の前に立つロクセーヌ伯爵は、鞭を指に巻き取りながら、うっとりとした笑みを浮かべている。
鞭打ちの刑を受けているのはジークハルトだ。
ジークハルトは後継人であるロクセーヌ伯爵から暗殺失敗のかどで、もう二時間近く責め苦を与えられている。
裸の上半身には幾重もの鞭打ちの痕が刻まれ、血が筋となって滴り落ちていた。
ジークハルトの肉が裂けるたび、ロクセーヌ伯爵は楽しげに鼻を鳴らした。
「武器密輸の件で義弟がしでかした愚行の尻拭いを、自ら申し出たのはおまえだったはずだ。それが暗殺に失敗するとは……何という体たらくだ」
静かな声ながらも、ロクセーヌ伯爵の威圧感は重石のように圧し掛かってくる。
ジークハルトは膝を折ったまま、ただ額を床に押しつけることしかできなかった。
ピシャッ――。
再び鞭が肉を裂く鋭い音が室内に響き渡る。
ジークハルトは痛みに耐えながら、必死に声を絞り出した。
「申し訳……ございません……」
「おまえの拙劣な失態が、私の権威を揺るがす火種となっているのだ。その事実の重さを、本当に理解しているのかね?」
「……もちろんです」
「そうか。理解しているのならば話は早い。――これ以上ノクスを野放しにするようであれば、おまえとの養子縁組の話は白紙に戻させてもらう」
ロクセーヌ伯爵は、氷を宿した瞳でジークハルトを射抜くと、冷然と最後通牒を突きつけた。
「なっ……!?」
ジークハルトの血が一気に引いていく。
足元から冷たい闇が這い上がってくるような感覚に、彼は戦慄した。
ジークハルトはアルヴェイン伯爵の妾腹の子として生まれた。
母を失った後は正妻の子であるノクスと共に育てられ、外から見れば分け隔てのない扱いを受けてきた。
だが、彼は与えられるものに感謝するどころか、その平等さを憎んだ。
並んで育ちながら、伯爵家を継ぐことが許されるのは正妻の子であるノクスだけ。
ジークハルトは、それがどうしても許せなかった。
嫉妬と屈辱は少年の心を蝕み、やがて彼を裏切りへと駆り立てた。
『アルヴェイン伯爵を陥れ、失脚させる。その見返りとして、子のいないロクセーヌ伯爵の養子となり、やがてその家を継ぐ』
そうした条件をロクセーヌ伯爵から提示されたとき、ジークハルトは迷うことなく、彼の手を取った。
ノクスと肩を並べる爵位を得て、名実ともに貴族として生きられる。
それこそが、ジークハルトの唯一の悲願であり、人生のすべてを賭けるに足る夢だったからだ。
だからこそ、今のロクセーヌ伯爵の言葉はあまりにも残酷だった。
積み上げてきた塔が一瞬で瓦解するように、未来が音を立てて崩れ落ちていく。
足場を失ったかのような衝撃に、ジークハルトの胸は激しく揺さぶられた。
「伯爵様……そ、それだけは……!」
喉の奥から絞り出された声には、これまで決して晒したことのない、底知れぬ絶望が滲んでいた。
「……どうか、それだけは……お許しください……!!」
ジークハルトが必死に懇願しても、ロクセーヌ伯爵の表情は一片たりとも揺らがなかった。
炎に照らされた横顔は冷酷そのものであり、情けをかける余地など微塵も感じられない。
「ロクセーヌ家の名に泥を塗るような者など、我が家には不要なのだよ」
不要――。
その一言は鋭利な刃となって、ジークハルトの脳髄を容赦なく貫いた。
ロクセーヌ伯爵に捨てられる。
それは単なる居場所の喪失ではなく、貴族としての未来そのものが断ち切られることを意味した。
ロクセーヌ伯爵の庇護を失えば、ジークハルトは『アルヴェイン家の妾の子』という立場に逆戻りするだけだ。
いや、それすらも許されまい。
ジークハルトは自らの意思でアルヴェイン家を裏切り、ロクセーヌ伯爵のもとへと走ったのだ。
もはやアルヴェインの名を口にする資格すら失っている。
貴族の家柄に縋ることができなくなれば、ジークハルトは卑しき妾の子でしかない。
その烙印は、呪いのように生涯彼につきまとい続けるだろう。
恐怖で身を震わせたジークハルトは、ロクセーヌ伯爵の足元に這いつくばった。
「どうかもう一度だけ機会を……! 今度は私自ら暗殺者たちの指揮をとります! そして、必ずや私自身の手で、あのノクスの心臓を握り潰し、とどめを刺してみせます……!!」
言葉を吐くたびに全身が震えた。
だが、沈黙は全ての終わりを意味する。
これまで築いてきたものが砂の城のように崩れ去る。その想像だけで、体が痺れるほどの恐怖が襲いかかってきた。
ロクセーヌ伯爵は、そんなジークハルトのことを無言のまま見据えていた。
どれほどの沈黙が続いただろうか。
ロクセーヌ伯爵はゆっくりとデスクへ向かい、鍵のかかった引き出しから小さな瓶を取り出した。
彼は瓶を掲げ、光を受ける角度を確かめるようにゆっくりと回した。
液体は深い琥珀色をしており、光に当たるたびに不気味に揺らめいた。
栓の周りには古びた紙が紐で巻かれていた。
紙には、ロクセーヌ伯爵家の紋章が刻まれている。
「おまえに最後のチャンスをやろう。この瓶には強化薬が入っている。これを使って、ノクス・アルヴェインを完璧に消し去りたまえ」
「……!!」
ジークハルトは瓶を受け取ると、目を伏せたまま指先でその紋章をなぞった。
――まだ、自分はロクセーヌ伯爵家の庇護のもとにある。
その証を与えられたことが、胸の奥で熱となってこみ上げる。
「必ずや、ご期待に応えてみせます……!!」
感極まったジークハルトの声が部屋に響く。
しかし、ロクセーヌ伯爵のほうは、興味を失ったかのように視線を逸らした。
「さっさと出ていけ」
「……」
その言葉は切り捨てるように短く、無慈悲に響いた。
ジークハルトは頭を深く下げると、傷だらけの体を引きずりながら部屋を後にした。
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