逃げ場はないぞ
「やあ、ルヴェリエ侯爵。ここで二人きり、膝を突き合わせて話をしないか?」
「っ……!」
慌てたルヴェリエ侯爵は、転げ落ちるように立ち上がった。
そのまま馬車の取っ手にしがみつき、必死に扉を押し開けようとする。
「逃がすわけがないだろう?」
ノクスは座席から一歩も動かず、パチンと指を鳴らした。
直後、青白い魔力が扉に絡みつき、金属が噛み合う鈍い音が響いた。
「……っ!」
ルヴェリエ侯爵の顔が蒼白に染まる。
押しても引いても、扉は石のようにびくともしなかった。
「さて、侯爵。死んでるはずの俺が、こうして目の前にいる。どんな気分だ?」
ルヴェリエ侯爵は言葉を失い、冷や汗を背筋に流した。
「いや、そんなことよりも、あんたの罪を暴いたビラのほうが、よほど堪えたか?」
ノクスはぐっと顔を寄せ、囁くように問いかけた。
ルヴェリエ侯爵の視線が落ち着きなく宙を泳ぐ。
後退した額には冷や汗が玉のように滲んでいる。
その様子からは、内心で激しく動揺していることが一目瞭然だった。
だが、ほんの一瞬の沈黙ののち、ルヴェリエ侯爵はぎこちなく背筋を伸ばし、無理やりに作った笑みを浮かべた。
「ふ、ふん……あんな紙切れごとき、誰も信じはしない! いくらでも言い逃れできるわ!」
「本当にそう思うか? あの反応を見ても?」
ノクスは顎をしゃくり、窓の外に広がる市場の光景を示した。
人々はビラに群がり、それを掲げながら口々に叫んでいる。
「ルヴェリエ侯爵なんざ、最初から悪党の顔してたじゃないか! 罪を暴かれるのが遅かったぐらいだ!」
「そうだそうだ! あのお貴族様が民を顧みず、威張り散らしてきたのを皆知ってるぞ!」
「贅沢ばかりして肥え太った豚め、裏で好き放題やってたに決まってる! あんな外道、裁かれて当然だ!」
怒りと興奮が渦を巻き、罵声が波のように押し寄せる。
馬車の壁を隔てても、群衆の熱気が肌を刺すように伝わってきた。
「大衆は真実かどうかなんて気にしない。信じたいものを信じる。……そのほうが、面白いからな」
ノクスが静かに呟くと、ルヴェリエ侯爵の喉がひくりと動いた。
窓の外に広がる現実を前に、ノクスの言葉が否応なく真実だと突きつけられる。
「……っ」
背筋を氷柱で貫かれたかのような恐怖を覚え、ルヴェリエ侯爵は息を詰まらせた。
正義を盾にした群衆は、真実などに興味を抱かない。
彼らは刃を振りかざす陶酔感に酔いしれているのだ。
そんな群衆の勢いを止められる術はどこにもなかった。
「まあ、とはいえ俺の手元には侯爵家の帳簿がある」
ノクスはわざと軽い調子で言い放った。
「それを国王陛下に提出すれば――あんたの罪は確かな真実として白日の下に晒されることになる」
「そ、それだけは……やめてくれ……!!」
ルヴェリエ侯爵が悲鳴に近い声を上げる。
ノクスはその懇願を無視し、嘲るように続けた。
「国家の武器を横流しし、莫大な利益をむさぼっていた人間は、どんな方法で処刑されるのだろうな。もっとも、その前に死ぬほどきつい拷問を受けることになるだろうが」
「ひっ……!」
ルヴェリエ侯爵の額から汗が滝のように流れ落ち、顎を伝って衣服を濡らしていく。
震える指は椅子の肘掛けをきつく掴んでいる。
爪が白くなるほど力を込めてもなお、心の恐怖を押さえることはできないようだ。
「頼む! 何でもする! なんでもするから……!!」
悲鳴混じりの懇願が狭い馬車内に木霊する。
ノクスは微動だにせず、その哀れな姿を冷ややかな眼差しで射抜いた。
ルヴェリエ侯爵は、処刑台へ引きずられる罪人のごとく全身を震わせている。
そんな中、不意にノクスがにこりと微笑んだ。
「ルヴェリエ侯爵。あんたは腐ってもセシリアの父親だ。一度だけ、チャンスをやる」
「……!? あ、ああ……! ありがたいッ……!!」
ルヴェリエ侯爵は縋るように身を乗り出した。
「ただし、当然条件付きだ。まずは、俺のもとに二度と暗殺者を差し向けるな。俺だけじゃない、俺の周りの者に対してもだ」
「も、もちろんです……!!」
「それから、セシリアの人生に、一切口出しをするな。彼女の望むよう、自由にさせてやれ」
「は、はい!! ……ああ、そうだ! も、もしよろしければ、セシリアを再び妻として喜んで差し上げます!!」
その言葉を耳にした瞬間、ノクスの眼差しに刃のような鋭さが宿った。
睨みつけられたルヴェリエ侯爵は、「ひっ」と小さく呻き、息を飲んだ。
「俺の言ったことが理解できないようだな。セシリアはおまえの道具ではない。そこを勘違いするな」
「……! も、申し訳ありません……!! 以後、気をつけます……!!」
「約束を破ったらどうなるか――わかっているな?」
「は、はい……もちろんです……」
「国王に帳簿を突きつけて、法で裁かせると先ほど言ったが、そんな面倒な段取りなど踏む必要もないな。俺自身の手で片をつけるのが一番手っ取り早い。そのときは、あんたたちが考えた『事故死に見せかけた暗殺』という方法を採用させてもらうよ」
ノクスの瞳を見れば、脅しではないことなど一目瞭然だった。
裏社会の者たちにも劣らぬ覚悟と冷徹な決意が、ノクスの表情に刻まれている。
ルヴェリエ侯爵は背筋が凍りつく恐怖とともに、自分の浅はかな判断を呪った。
ノクスは単なる没落貴族ではない。
決して敵に回してはならない、底なしの闇を抱えた怪物だったのだ。
「絶対に約束は守りますッッ……!! もう二度と貴方に楯突いたりしません……!!」
ルヴェリエ侯爵は身を縮こまらせながら必死に懇願した。
その惨めな姿を見届けたノクスの口元に、冷徹な笑みが浮かんだ。
「そうか。いい返事だ」
ノクスの表情は満足げにも見えたが、その目は冷たく、ルヴェリエ侯爵の心胆を凍らせるような不気味さを帯びていた。
ノクスは片手を伸ばすと、追い打ちをかけるようにルヴェリエ侯爵の肩を軽く叩いた。
「では、これからもよろしく頼むよ」
掌の冷たい感触と、氷のような笑みの残像。
この二重の重圧がルヴェリエ侯爵の心身に深く刻み込まれる。
ルヴェリエ侯爵がノクスに逆らうことは、もう二度とないだろう。
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