まさか、また危ないことを? ——いや、暴れてはいない
セシリアが五度目の脱走を試みたのと同日。
ノクスはアルヴェイン邸の屋根を見上げながら、眉間に皺を寄せていた。
かつてアルヴェイン邸は、王都でも屈指の大邸宅として名を馳せていた。
だが、それも今は昔。
財力を失った屋敷は木々に覆われているうえ、建物の随所は傷み果て、見るも無残な姿をさらしてた。
特に近頃は、破損した屋根やひび割れた壁が目立ち、雨漏りといった深刻な問題まで発生するようになっていた。
そんなアルヴェイン邸の真上に広がる空は暗く淀んでいる。
いまにも大粒の雨が降り出しそうな気配だ。
「やはり、嵐が来そうだな」
ノクスの低い声が、重く垂れ込めた空気に溶ける。
隣に立つリリィは、風に煽られた髪を押さえながら、不安そうに頷いた。
「はい……。空気も湿ってきていますし……」
リリィの心配は、もっともだった。
前の大雨の際に雨漏りした屋根は、いまだ手つかずのままだ。
なかでも、応接室に隣接するサンルームの被害は深刻で、天井の継ぎ目から染み出す雨水が、床を水浸しにしてしまったのだった。
サンルームは、その名の通り、邸内でもっとも日当たりがよく、リリィがとくに気に入っている場所だ。
彼女は、毎日、窓際の鉢植えに水をやり、床の埃を払い、丁寧に手入れをしている。
だからこそ、前回の大雨で深刻な被害を受けたときは、ひどく落ち込んでいた。
屋敷全体が長年の放置で痛みきっており、そのすべてを一度に直すのは到底無理な話だ。
けれど、迫る嵐に備え、せめてリリィが大切にしているサンルームだけでも、何とかして守りたかった。
(運良く臨時収入も入ったしな)
セシリアの婚約者候補だったアデルが作った莫大な借金は、父親であるフォルスト伯爵によって、早急に返済されたのだが、なんと、問題のカタがついて大喜びした借金取りたちは、協力への謝礼として、相応の金をノクスに差し出してきたのだ。
ノクスは当初、見返りのためにしたことではないと言って固辞した。
しかし、借金取りたちは聞く耳を持たず……。
結局、半ば押しつけられる形で、金を受け取ることになったのだった。
(この金があれば、屋根の修理に必要な資材くらいはなんとかなるだろう)
ノクスは「少し出てくる」とだけリリィに告げ、屋敷をあとにした。
――それから一時間後。
資材を山積みにした荷馬車とともに戻ってきたノクスの姿を目にして、リリィは目を真ん丸に見開いた。
「ノクス様、あの、これは……!?」
「雨が降る前に、邸に応急処置を施しておこうと思ったんだ」
「でも、こんなに立派な材料、どうやって手に入れられたんですか……!?」
「あーっと……」
リリィには、お茶会で何があったのか一切話していない。
元婚約者の家に乗り込んで、お見合いをぶち壊してきたなどと知られたら、心配性の彼女は卒倒しかねないからだ。
「……まあ、色々あって金が多少入ったんだ」
適当な説明で誤魔化そうとノクスのことを、リリィはじっと見つめてきた。
「まさか、また危ないことを……?」
「いや、暴れてはいない」
「暴れて《《は》》……!? じゃあ、危険なことをしたのは本当なんですね……!?」
リリィに詰め寄られ、ノクスはわずかに目を逸らした。
「……いや、そういう意味じゃない。今のは、その……言葉の綾だ」
一応、冷静を装って返す。
けれど、その声にはほんの少しだけ、動揺の色が混じっていた。
悪人相手には百戦錬磨のノクスも、こと相手がリリィとなると、どうにも分が悪い。
「と、とにかく、危険な目には一切あっていない。それは信じてくれ」
「……」
リリィはしばらくノクスを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「いつだって私はノクス様を信じています。でも、本当に気をつけてくださいね?」
ノクスは黙ったまま頷き返した。
行いのすべてを、リリィに打ち明けるわけにはいかない。
なにせ自分は敵の多い身だ。
これからも、多少の誤魔化しは避けられないだろう。
だからこそ、「気をつける」という約束だけは、必ず守らねばならないと思った。
「さてと、時間がない。さっそく修理に取り掛かるよ」
ノクスの言葉は、再びリリィを驚かせた。
「えっ!? もしかして……ノクス様ご自身の手で修理をされるおつもりなんですか!?」
「ああ。半日でできるのは応急処置くらいだろ。だったら、俺でもなんとかなる。本格的に職人を雇って修繕するのは、そのうちでいい。今回は、とにかくこの嵐を乗り切るのが先決だ」
「そんな……! 貴族のノクス様に、そんなことをさせるわけにはいきません……! でしたら私が――」
「力仕事だし、修理そのものは男の俺がやったほうが早い。もしよければ、リリィは材料の運び出しなんかを手伝ってくれると助かる」
「で、でも……」
「だいたい、屋根に上っての作業だ。危なくて、リリィにはさせられないよ」
「それは私だって、同じ気持ちです……!!」
リリィが前のめりになって叫ぶ。
その勢いに思わず少し目を見開いたノクスだったが、すぐにふっと目を細めた。
「……俺たち、少しお互いに過保護すぎるのかもしれないな」
軽く笑いかけると、途端にリリィの顔が赤く染まった。
しかしそれもほんの一瞬で、彼女は慌てたように視線を逸らした。
それから、降参を現すかのような態度で肩を竦めてみせた。
「私がノクス様に対して過保護すぎなのは、たしかに否定できません」
(俺は、お互いにと言ったんだけどな……?)
ノクスは内心で小さく首を傾げたが、突っ込むほどのことでもないので聞き流した。
「とにかく、二人とも怪我をしないよう、注意して作業をする。それでいいだろ?」
「はい……! そうと決まったら、張り切ってお手伝いしますね!」
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