ノクス暗殺計画
ガラスの砕け散る音が、邸じゅうに鋭く響き渡った。
血の気を失った使用人たちが、真っ青な顔でセシリアの部屋へと駆け込んでいく。
「ああ、やっぱりだ!」
「セシリア様がいらっしゃいません!」
「窓を割って脱走されました……!」
邸内はたちまち上を下への大騒ぎとなった。
その頃、脱走者であるセシリアは、中庭の塀をなんとか乗り越えようとしていた。
塀のそばに伸びた木の枝に足をかけ、必死に体を持ち上げる。
しかし、あと一歩のところでその枝が折れ、彼女は地面へと叩きつけられた。
「――っ、痛ったぁ……」
泥にまみれた身体を起こす間もなく、駆けつけた使用人たちに腕を掴まれる。
「は、離して……! 嫌っ!」
セシリアは必死にもがいたが、どうすることもできなかった。
「お嬢様、旦那様のご命令です。どうか、お部屋にお戻りください」
父の言いなりである執事長が諭すように言う。
「冗談じゃないわ! 自由に外出する権利ぐらい私にだってあるはずよ!」
「侯爵様はお嬢様をお守りしようと必死なのです」
「意思を無視して一方的に閉じ込めることが、 “守る”ですって……!?」
セシリアの叫びが、中庭に鋭く響き渡った。
しかし、執事長は表情ひとつ変えない。
彼は、セシリアを拘束している男たちに向かって静かに命じた。
「お嬢様をお部屋までご案内しろ」
セシリアは悔しさのあまり唇を強く噛みしめた。
(『簡単には、あなたのことを諦めたりしない』って言ったのに……。私はここから一歩も動けない。ただ会いたいだけなのに、どうしてこんなにも遠いの……)
胸の奥に引き裂かれるような痛みを感じる。
それでも、セシリアは何とか顔を上げた。
(……私は絶対に、負けない)
揺らぎそうになる心に、強い誓いを刻みつける。
閉ざされた鳥籠の中にあっても、この想いだけは誰にも奪えないのだから。
◇◇◇
セシリアが五度目の脱走を試みた日の午後。
社交クラブの個室では、彼女の父ルヴェリエ侯爵がとある人物と密談をしていた。
数少ない個室の中でも最も豪奢なこの部屋は、ルヴェリエ侯爵用として、常に確保されている。
ルヴェリエ侯爵は長年にわたり社交界の重鎮として君臨し、その一言で政商たちの運命を左右してきた。
そのため、この社交クラブでも特別な待遇を受けているのだった。
機密の会話を交わすには、この個室ほど適した場所はない。
ルヴェリエ侯爵はその利点を重視し、何度もこの場所を活用してきた。
そして今日もまた、若い男を相手に危険な密談を交わしている。
「……今朝、娘がまた部屋を抜け出そうとした」
顔中に苛立ちを滲ませながら、ルヴェリエ侯爵が呟く。
「あの男が茶会に乱入して以来、娘はまるで手がつけられない。以前はもっと従順だったというのに……。あの男は娘に、自由などという幻想を抱かせた。あの男が存在する限り、娘はくだらん夢を見続けるだろう。すべて、あの男ノクス・アルヴェインのせいだ」
ワインの杯を乱暴に傾け、赤い液体を喉に流し込むと、ルヴェリエ侯爵は続けた。
「茶会の席でのノクス・アルヴェインの振る舞いだって、到底許せたものではない! あの男のせいで、我が侯爵家は社交界で恥をかかされたのだ。だが、それ以上に看過できぬのは、奴が武器商人を始末したことだ!」
ルヴェリエ侯爵は身を乗り出すと、血走った目でテーブルを叩いた。
「密輸ルートを完全に潰されて、我々は大損だ!!」
肩を震わせながら、ルヴェリエ侯爵は荒い息を吐いた。
テーブルを挟んで向かいに座る若い男は、ルヴェリエ侯爵の怒りを動じずに受け止めている。
男の名はジークハルト。
ノクス・アルヴェインの義兄であり、誰よりも深い因縁を抱える宿敵だ。
ジークハルトは端正な顔をルヴェリエ侯爵に向け、丁寧な所作で頷き返した。
整った顔立ちと優雅な銀髪の美貌は社交界でも一目置かれるほどだったが、彼の佇まいには温かみがない。
敬意を尽くす穏やかな振る舞いの裏には、どこか氷のような冷酷さが滲んでいた。
「侯爵様のお気持ち、痛いほど察しております。ノクスによる武器商人の一件は、我が伯爵様も、たいへんお怒りでした。『数年分の利益が、一夜にして霧散した』と」
ジークハルトの後見人であるクラウザー伯爵もまた、ルヴェリエ侯爵と共に武器の密売で利益を得ていたのだ。
ノクスによって武器商人が始末され、密輸ルートが潰された今、損害は計り知れない。
「そうだ! ノクスは我々の面子を踏みにじった! これはもはや私怨ではない。貴族社会そのものへの、明白な反逆だ! 見過ごすなど、断じてできん!!」
ジークフリードは目を細めると、唇の端をわずかに歪めた。
ルヴェリエ侯爵とは違い、ジークハルトはノクスに対して、明確な私怨を抱いていた。
今回の武器商人の一件は、その憎しみに火を注ぐ結果となった。
なぜなら彼は、後見人のクラウザー伯爵から、ノクスが引き起こした損失の責任を厳しく問われてしまったのだ。
『おまえが弟ノクスの処遇を中途半端にしていたせいで、私が損害を被ったのだ。奴を生かしておいたことが誤りだったのだ。甘いことをしたな……。おまえには失望したぞ』
面目を潰されたジークハルトの中で、ノクスへの逆恨みはさらに深まっていった。
「ノクスのことは、私がなんとかいたします。そのために参りました」
「ならば、動け。クラウザー伯爵を通じて、筋は通してある。事故に見せかけて、確実に仕留めろ」
「承知しました。夜明け前には、すべて片をつけてみせましょう」
一礼すると、ジークハルトは静かに背を向けた。
靴音一つ立てず、まるで影が滑り抜けるように、彼は部屋を後にした。
残されたルヴェリエ侯爵は、誰に聞かせるでもなく低く呟いた。
「貴族の秩序を壊した代償……思い知らせてやるぞ、ノクス・アルヴェイン」
その手には、空になったグラスがまだ握られていた。
ゆっくりと指に力を込めると、パキンと音を立ててグラスが砕け散った。
掌に赤い雫が滲む。
だが、ルヴェリエ侯爵の口元に浮かぶ冷笑は揺らがなかった。
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