助けてくれてありがとう
「はぁ、はぁ……。よかった、追いつけた……」
現れたのはセシリアだ。
ドレスの裾が風に翻るのも構わず、ただひたすらにノクスを追って。
息を切らすセシリアの顔には、何かを伝えずにはいられなかった者の切実さが滲んでいた。
ノクスは彼女を見つめ、少し眉を顰めた。
「セシリア……。俺を追いかけてきて大丈夫なのか? ルヴェリエ侯爵に見つかれば、こっぴどく叱られるぞ」
セシリアは肩で呼吸をしながらも、首を横に振った。
「そんなの……構わないわ」
ゆっくりと胸に手を当て、整えるように深く息を吸う。
それから改めて顔を上げた。
セシリアの表情には、迷いのない強さがあった。
「もう、父や母の顔色を窺うなんて、私らしくないことはやめにしたの。それよりも――」
ひと呼吸置き、セシリアが唇を引き結ぶ。
「ノクス……本当にありがとう」
そう言ったセシリアの声には、言葉に込めきれない感情が滲んでいた。
たったひと言の「ありがとう」では、心の内を到底表しきれない。
そんな想いが、態度の端々から溢れ出ていた。
「あなたのおかげで、私は救われた。……本当は、私との約束を果たす義務なんてなかったのに……。私、感謝してもしきれないわ。ねえ、どうお礼をしたらいい? 何でも言って。私にできることなら、なんでもするわ……!」
熱心に迫るセシリアとは対照的に、ノクスの態度はそっけなかった。
彼は肩を竦めるだけで、拒絶の意思を明確に示した。
「気持ちだけ受け取っておく。俺は、君の父親に恥をかかせることができた。それだけで十分清々したからな」
「そんなわけにはいかないわ……! だって……!」
言いかけた言葉を押しとどめるように、セシリアは唇をきゅっと噛んだ。
それから、視線を落とすと、ぽつりと零した。
「……私のせいで、あなたはさらに社交界から恐れられる存在になってしまったのよ……?」
セシリアの表情には、明らかな罪悪感が浮かんでいた。
アデルとの婚約を破棄できたのは、ひとえにノクスの行動があったからこそだ。
しかし、その代償として、容赦なく相手を追い詰めるノクスの姿は、周囲の貴族たちに強い印象を残したに違いない。
ノクスはきっと、より一層恐れられる存在として語られるだろう。
『悪逆貴族の評判は本当だった』と。
セシリアは、そんな噂が広がる未来をありありと想像してしまっていた。
「ごめんなさい……。私が深く考えずに助けを求めてしまったせいで……。あなたの立場も、周囲の目も、私は全然、想像できていなかった……」
セシリアの姿からは、真面目で責任感の強い彼女らしさが伝わってきた。
(俺は自らの意志で、セシリアに手を貸すと決めたんだ。だから、セシリアは罪悪感など感じる必要などまったくないのに)
しかし、そういう割り切りができないのがセシリアという人間だった。
ノクスは困ったように苦笑した。
どうにかしてセシリアの肩の荷を軽くしてやりたい。
「いいか、セシリア。俺は何とも思ってないんだ。だから君も気にするな。俺の悪名なんて、今さらひとつやふたつ増えたところで変わりはしない」
「でも……」
反論しかけたセシリアに向かい、軽く手を上げて遮る。
「実を言うと、悪逆貴族らしい振る舞いを楽しんでいたくらいだよ。そうでなければ、あんな"いかにも"という態度で現れるわけがない。だろう?」
「……た、たしかに」
「開き直ってみたら、意外と悪役も面白いものだと気づいたんだ。すっきりするし、いい憂さ晴らしになる。俺の悪人ぶり、かなりサマになってただろう?」
ノクスはいたずらっぽく目を細め、口元をにやりと歪めた。
セシリアは驚いたように目を丸くしたが、次の瞬間には、堪えきれずにふふっと笑い声を漏らした。
「ふふっ……なによ、それ。もう……」
その笑みを見て、ノクスは満足そうに言った。
「そうだ。それでいい。計画が成功したというのに、君が暗い顔をしていては、俺が動いた意味がない」
「ノクス……」
ノクスの言葉に、セシリアの胸がじんわりと温かくなった。
いつものように冷たげな口調なのに、その奥に誰よりも深い思いやりが宿っていることを、セシリアはもう知っている。
だからこそ、抗いようもなく、彼女の心は揺れ動いた。
「婚約を破談させることに成功し、君は自由を守れた。それは、君にとって喜ばしい結果なんだろう?」
その一言に、セシリアははっと顔を上げた。
揺れる瞳に少し遅れて温かな色が差し込み、頬が淡く染まっていく。
「……うん。……ありがとう」
微笑みながらそう口にしたセシリアの目元は、ほんのりと潤んでいた。
緊張と不安に張りつめていた心が、ようやく解きほぐされたのだろう。
遅れてやってきた安堵が、静かな涙となって滲み出ていた。
ノクスは、そんなセシリアの表情をしっかりと見届けるように、静かに頷いた。
ノクスとセシリアのやりとりを、三人の借金取りたちは少し離れた場所から眺めていた。
粗野で無骨な雰囲気はどこへやら、三人は肩を竦めたり肘で突き合ったりと、すっかり気の抜けた表情をしている。
ノクスとセシリアが彼らの視線に気づき、そちらを振り向くと、すかさず顔中傷だらけの男が口を開いた。
「あの目の輝き! 誰がどう見ても、恋する乙女のそれだろ! ノクスの旦那も、なかなかやるじゃないか。こんな可憐なお嬢さんを射止めたんだからな」
最初に声を上げたのは、粗末な上着の袖を捲った男だった。
冷やかすような笑みを浮かべながら、肘で仲間を小突く。
すぐに、猫背の男がニヤリと口を歪めた。
「もともと好意はあったんだろうな。すでに心の中で芽生えていた想いが、今回の出来事をきっかけに一気に燃え上がったってところか」
「でもまあ、よかったじゃないか? 好きでもない男と親の命令で結婚させられるなんて、聞いてるだけで気が滅入る話だ。ノクスの旦那も大手柄だな」
首元に派手な入れ墨を刻んだ男が、腕を組んでしみじみと頷く。
三人の発言を聞いたセシリアは、瞬時に顔を真っ赤に染めた。
「なっ……なにを……ち、ちがっ……そ、そういうんじゃ……!」
口をパクパクさせながら、必死で否定しようとするものの、うまく言葉が出てこない。
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