婚約不成立
「実に興味深い記録でしょう? アデル殿が裏通りで楽しまれていた、かなり豪勢な賭博の明細書です。借金の額も相当な規模だ。さすがは上級貴族のご子息。金の使い方一つとっても、庶民の想像をはるかに超えていらっしゃる」
ノクスの口調には、明らかな皮肉が込められていた。
言葉を失った静寂が庭園に広がる。
誰もが息を呑み、ただノクスの動きを目で追っている。
そんな緊張感の中、怒りに震える声が空気を裂いた。
「こんなものは明らかな偽造だ! 捏造された証拠など、誰が信じるというのだ! 我が伯爵家の名誉に泥を塗ることなど、断じて許さん!」
フォルスト伯爵がテーブルを拳で叩く。
声を張り上げ威厳を装ってはいるものの、フォルスト伯爵は明らかに動揺している。
焦燥に滲む目元と、わずかに震える拳が、強い否定の言葉とは裏腹に内心の不安を露わにしていた。
その姿は、息子アデルと見紛うほど酷似していた。
ノクスは静かに右手を上げて、フォルスト伯爵の反論を制した。
「まあ、落ち着いてください。次の証拠品をお見せしますから」
その一言で、場の空気はさらに張りつめた。
ノクスが軽く頷くと、三人の男たちが動き出した。
それによって、アデルは拘束を解かれたが、もはや抵抗する力も残っていないようだった。
ぐったりとうつ伏せのまま、微動だにしない。
屈辱と怒りを呑み込み、すっかり精気を失ったその姿からは、伯爵令息としての誇りの欠片さえ見出せなかった。
三人の男たちは古びた紙束を取り出し、高級な茶器や菓子が並んでいたテーブルの上に、次々と広げていった。
黄ばんだ証文の束は、粗末な紐で乱雑に縛られている。
繊細なレースや銀細工のティーセットとのあまりの落差に、貴族令嬢たちからは小さな悲鳴が漏れた。
「屋敷、土地、宝飾品、果ては家宝まで、伯爵家の財産がすべて担保に入れられています。フォルスト伯爵家は外見こそ立派ですが、実際は財産も威厳も既に失っている。うちと同じ、見せかけだけの貴族というわけです。ははは!」
ノクスの口調は軽やかで、どこか愉しげですらあった。
「な、なんということだ……。これは……これは……っ!」
声を絞り出しながら、フォルスト伯爵はおもむろに立ち上がった。
全身をわななかせ、震える拳を握りしめたその姿には、貴族の威厳も品位も残っていなかった。
「アデル……貴様……! この取り返しのつかぬ恥辱……決して許さんぞッ!!」
激情に任せた怒声がサロンの空気を引き裂く。
そして次の瞬間――。
鋭く振り抜かれた平手がアデルの頬を捉え、パンッという乾いた音が室内に鋭く響き渡った。
「ぐあっ……!」
衝撃でバランスを崩したアデルは、情けない呻き声を上げながら再び地べたへ倒れ込んだ。
完璧な令息と呼ばれた男の虚像が、音を立てて崩れ落ちていく。
アデルの姿は誰もが目を背けたくなるほど惨めだった。
「――フォルスト伯爵」
場の空気が凍りつく中、セシリアの父ルヴェリエ侯爵は静かに口を開いた。
「……何と醜悪な有様か。フォルスト伯爵、これは我がルヴェリエ侯爵家への明白な侮辱と受け止めさせていただく。このような婚約話はもはや論外だ。婚約の白紙化は当然のこと、今後二度と我が家の名を持ち出すことも許さぬ」
「も、もちろんです……! すべて私の監督不行き届きでございます……! ご婚約の話はなかったことに、当然、然るべく処理を……。どうか、このたびの不始末、何卒ご容赦を……!」
フォルスト伯爵は額を擦りつけるようにして頭を下げ、震える声で懸命に謝罪の言葉を並べ立てた。
しかしルヴェリエ侯爵は、その姿を一瞥すらしなかった。
静かに目を伏せると、まるで耳障りな雑音を払い落とすように、わずかに手を振った。
もはや、言い訳も、声も、顔すらも見たくない。
ルヴェリエ侯爵の態度は、沈黙のうちにそれを明確に物語っていた。
本来、ルヴェリエ侯爵家ほどの名門が縁談相手の素性を事前に徹底調査しないなど、ありえない話だ。
だが、今回は事情が違った。
元々セシリアには、ノクスとの婚約があった。
しかし破談となり、セシリアは突如、身分の定まらない状態になってしまった。
貴族社会では、令息令嬢が幼い頃から婚約者を決めておくのが慣わしだ。
年頃の令息たちはすでに相応の婚約先を持っており、空席などほとんどない。
そんな中、ルヴェリエ侯爵はセシリアにふさわしい相手を必死に探していた。
セシリアが婚期を逃すようなことがあってはならない。
そのような事態になれば、侯爵家の名誉に関わる問題だ。
そこへ現れたのが、旧知の商売仲間フォルスト伯爵からの縁談だった。
フォルスト伯爵とは、社交界での仲間として長い付き合いがあり、家柄も悪くなかった。
焦っていたルヴェリエ侯爵には、「無難な選択」と思えた。
しかも、ルヴェリエ侯爵には致命的な欠点があった。
人間を家柄と肩書きでしか見ず、家族関係や人格などの内面にまったく関心を払わないのだ。
アデルの本性にほんの少しでも目を向けていれば、こんな浅はかな判断はしなかっただろう。
さらに付け足すならば、アデルの膨大な借金は偽名を使い、個人名義で密かに作られたものだった。
フォルスト伯爵家の帳簿には記載されておらず、通常の調査では発覚しない。
表層しか見なかった者が、表面だけ取り繕われた虚飾に騙された。
それこそが今回の一件の本質だった。
突如として暴かれた醜聞に、場の空気は凍りついている。
セシリアもまた、他の貴族たちと同様に、その展開に息を呑んでいた。
あまりに衝撃的で、自分が当事者であることさえ忘れかけたほどだ。
激しく取り乱し、声を荒らげて喚き立てるアデルの姿も、そんな息子を人目もはばからず殴りつけたフォルスト伯爵の暴走にも、驚きを隠せなかった。
だが、セシリアの目を最も引きつけたのは、騒動の中心にいたノクスだ。
ノクスは、裏社会の者たちさえ己の手足であるかのように、当たり前のように使いこなしていた。
さらに、一切の情けを見せることなく、アデルを追い詰めてみせた。
かつて誰よりも礼儀正しく控えめだったノクスを知る者なら、セシリアと同じように、彼の変貌ぶりに目を見張ったことだろう。
セシリアは、両手を静かに胸元で重ねた。
その指先はかすかに震えている。
ノクスのおかげで、アデルの悪事は白日の下にさらされ、婚約は完全に崩れ去った。
これでセシリアは、忌まわしい縁から解放されたのだ。
ノクスは約束通り、セシリアを救ってくれた。
しかしそれは同時に、ノクス自身が新たな代償を背負うことでもあった。
貴族社会において、一族の醜聞を公の場で暴くことは、並々ならぬ覚悟なしには成し得ない。
ノクスは今、目の前で一つの家を崩壊させた。
その行為は、善悪を超えて社交界中の噂となるだろう。
冷徹かつ容赦なかったノクスの振る舞いと相まって、彼の悪名がさらに轟くことは避けられない。
そして、その引き金を引かせたのは他ならぬセシリアだ。
感謝の気持ちでいっぱいなのはもちろんだが、同時に、この事態に対する責任も強く感じずにはいられなかった。
セシリアは揺れる瞳を、ゆっくりとノクスのほうへ向けた。
今日の目的を果たしたノクスは、わずかに唇をつり上げ、満足げな微笑を浮かべてみせた。
「――さて、なかなか興味深い見世物を拝見させていただいた。これにて失礼しよう」
軽やかに、しかし一切の隙なく、ノクスはその場から身を翻した。
ノクスの所作には、最後まで品位と冷徹さが共存していた。
三人の男たちもすぐにノクスの後に続いた。
誰一人として言葉を発することなく、ただノクスの背にぴたりと付き従った。
残された貴族たちは、呆然とノクスの背中を見つめていた。
去り際まで圧倒的な迫力を放つノクスの気配に、誰一人、声を発することも、身じろぎすることもできなかったのだ。
◇◇◇
夕暮れの光が、ルヴェリエ侯爵邸の重厚な門扉を柔らかな黄金色に染めている。
その邸から、人相の悪い男たちを引き連れた青年が歩み出てきた。
ノクス・フォルスト。
黒衣に身を包んだ彼の姿は、薄闇の中でさえ強く人目を引く存在感を放っていた。
「おまえたちも、もういいだろう。ここからは俺ひとりで十分だ」
ノクスは三人の借金取りたちに視線を向け、軽く顎をしゃくった。
頷き返した借金取りたちが立ち去ろうとしたそのとき――。
石畳を踏む高い靴音が、邸の敷地内から響いてきた。
急いで駆け寄ってくる足音の主が誰なのか。
姿を確認するまでもなかった。
「……ノクス!」
呼びかけられ、振り返る。
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