招かれざる客
思わず紅茶のカップを取り落としそうになり、慌てて持ち直した。
震える指先が、セシリアの動揺を如実に物語っていた。
「……何ですって? まさか、本気で……」
「この状況で冗談を口にするほど落ちぶれていない」
ノクスはさらりとそう言うと、窓の外へと視線を移した。
朝の眩しい陽光が、彼の瞳に映り込んでいる。
突然の申し出に、セシリアは思考が追いつかない。
自分のわがままでノクスに迷惑をかけるつもりなど、本当に一切なかったのだ。
理性では拒むべきだとわかっている。
それなのに、心は大きく揺れていた。
明らかに越えてはならない一線だと理解しているにもかかわらず、セシリアは胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
ここにきてセシリアはようやく気がついた。
冷たくなったと思っていたノクスの声には、今も変わらぬ優しさが宿っていたのだ。
「で、誰なんだ? 君の婚約者候補というのは」
落ち着いた声音で、ノクスが尋ねる。
セシリアは一瞬の躊躇いを見せながらも、相手の名を口にした。
「……フォルスト伯爵家のアデル様よ」
その名を聞いた瞬間、ノクスの目が鋭く細められた。
その瞳には、予想外の事実への微かな驚きと、警戒の色が混ざっていた。
「あのフォルストの長男を選ぶとは。随分と趣味が悪いな、ルヴェリエ侯爵は」
ノクスの言葉には、単なる皮肉を超えた深い意味が込められていた。
「あなた、知っているの? アデル様のこと」
ノクスは返事に躊躇うように沈黙し、静かな仕草でカップをソーサーに戻した。
「本気で婚約を止めたいのなら、そう言え。俺は一度だけ、君のために動く。だが、中途半端な気持ちなら、今すぐ引き下がれ。君には、侯爵令嬢として父が用意した安全な道がある。それを選べば何も失わずに済むのだから」
セシリアの瞳が大きく揺れる。
ノクスの言葉は正しかった。
何も行動を起こさなければ、確かに家族も、地位も、これまでの生活も、すべてを守ることができる。
世間体も保たれ、誰からも非難されることもない。
それが最も賢明な選択のはずだった。
けれど……。
「……嫌なのよ」
その声はか細かったが、確かな意志を秘めていた。
まるで長い間押し殺してきた本心が、ついに漏れ出したかのように。
セシリアはもう、自分の本当の気持ちを隠し通すことができなくなっていた。
「知らない人と婚約して……あなたと過ごした日々を、まるでなかったことのようにするなんて……! そんなの耐えられない。絶対に、絶対に嫌!」
涙を堪えるように唇を噛み、必死に言葉を紡ぐその姿に、ノクスは一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
セシリアとの関係は、彼女の父親の命令による一方的な婚約破棄で、もう完全に終わったものだと思っていた。
いや、終わっているのだと自分に言い聞かせていた。
だが、セシリアは今もなおその関係に心を捉われていたようだ。
予想をはるかに超えて、深く。
(……どうやら俺は、彼女の本心を、ずっと見誤っていたらしい。でも、だからといって、俺に何ができる?)
何も持たないノクスには、セシリアの想いに応える資格などなかった。
それに、これは単なる一時の感情の高ぶりかもしれない。
新たな婚約に直面し、追い詰められた彼女が逃げ場を求めているだけかもしれない。
過去の記憶に縋っているだけだとしたら――。
セシリアの気持ちを聞かなかったことにして、現実に戻してやるのが最善だ。
そう判断したノクスは意識して冷静さを保ちながら、セシリアの瞳をまっすぐ見つめた。
「婚約破棄に対する君の意思は、よくわかった。……約束通り、しっかり協力しよう」
ノクスは軽く肩を竦め、軽い調子で言葉を継ぐ。
「そもそも君の父上には、俺も一度、冤罪を背負わされかけたからな。一発くらい鼻をへし折っても、罰は当たらないだろう?」
冗談めかして口にしたその言葉に、セシリアは小さく目を見開いた。
ノクスは平然とした態度を崩さなかった。
あくまでこれは私怨の延長線上にあること。
自分の復讐のついでに、セシリアの望みを叶えてやるだけの話だと。
そう見せかけることで、セシリアの心の負担を少しでも軽くしようと考えたのだ。
彼女の気持ちに応えられない自分が、セシリアのためにできることは、それくらいしかないのだから。
しかし、ノクスの目論見は、セシリアには見透かされていた。
強がりの態度の裏に隠された思いやりも優しさも。
セシリアはすべてを見抜いていた。
ノクスが話を終えると、セシリアは静かに目を伏せ、かすかに唇を噛んだ。
「……本当はあなた、少しも変わっていないのね」
独り言のように呟かれたセシリアの声は、ノクスの耳には届かない。
そのせいで、セシリアの胸に、またひとつ、ノクスへの想いが積み重なったことに、ノクスはまったく気づかなかった。
◇◇◇
優雅に整えられた庭園には、咲き誇る花々とテーブルに並んだバタークッキーの甘い香りが漂っていた。
陽光を浴びて輝く薔薇は、招かれた貴族たちの華やかな衣装と競うように、誇らしげにその姿を見せている。
銀の茶器から注がれる紅茶の湯気は細く立ち昇る。
椅子に腰かけた貴族たちは優雅な仕草でカップを口に運びながら、取り澄ました表情で上品な会話を交わしていた。
完璧に演出された、絵画のような社交のひとときだ。
しかし、笑い声には、ほんのわずかに打算の響きが混ざり、言葉の端々には駆け引きが潜んでいる。
これが貴族社会なのだ。
そんな空気の中で、セシリアはそっと視線を上げた。
向かいの席には、今日の『お茶会』の主目的となる人物が静かに座っている。
婚約者候補として名が挙がっている、フォルスト伯爵家の嫡男アデルだ。
アデルは、誰もが振り返るような気品を漂わせている。
銀糸のような髪は丁寧に撫でつけられ、朝の日差しを受けてその光沢が柔らかく煌めいていた。
仕立ての良い上着をまとう姿勢に隙はなく、一つひとつの所作には、長年の訓練を経た貴族の洗練さが滲んでいる。
誰もがアデルを称して「完璧」と口をそろえるのも、当然のことだろう。
だが、セシリアは、アデルの涼やかな微笑みの奥に潜む、わずかな冷たさを見逃さなかった。
セシリアを見つめ返すアデルの瞳には、商品を値踏みするような冷たさがあった。
人を人として見る温かさが微塵も感じられないのだ。
(この人にとって、私はただの品物にすぎないのね)
元婚約者のノクスから、こんな扱いを受けたことは一度もなかった。
ノクスはセシリアを、肩書きや家柄ではなく、一人の人間として見てくれていたのだ。
その違いが、今になって痛いほど胸に突き刺さる。
セシリアは無意識のうちに唇を噛みしめた。
そんなセシリアの斜め隣では、父ルヴェリエ侯爵が、アデルの父フォルスト伯爵と談笑している。
にこやかに紅茶を口に運ぶ二人の姿は、傍目には親しい旧知の間柄にも見えただろう。
しかし、その笑顔の奥には、両家の利益を見据えた冷静な打算がわずかに滲んでいた。
会話の流れのなかで、婚約の話は当然の成り行きであるかのように粛々と進められていく。
セシリアがこの場で意見を述べる余地はどこにもなかった。
彼女はただそこに座っているだけ。
セシリア自身の意志など、最初から考慮されていないのだ。
(こんな形で私の人生が、勝手に決められてしまうなんて。――やっぱり、認められない)
セシリアの爪がドレスの布地を掴み、柔らかな生地に細かな皺が刻まれている。
そのときだった。
ギィイイイ……。
重厚な音を響かせて、サロンから中庭へと続く扉が、ゆっくりと開かれた。
思わず振り返った一同の視線が、同じ一点に集まる。
「随分と楽しそうな茶会だな。この素敵な集まりに、俺も混ぜてもらえないか?」
※カクヨムで十数話分を先行公開しています
毎日必死で更新しています……!
少しでも「面白そう!」「期待できる!」そう思っていただけましたら、
ぜひ↓の広告下からフォローと評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に)で励ましてください。
皆さまからの応援が、なによりものモチベーションとなります!




