その婚約、邪魔してやろうか?
「結婚って……」
予想外の言葉を聞かされ、ノクスは困惑したままセシリアを見つめ返した。
強気で自立心の強いセシリアがこんなにも弱々しい姿を晒すなんて、想像もしていなかった。
そもそも、セシリアからこのように縋られたのは初めてのことだ。
よく見れば、ノクスの服を掴むセシリアの指先は小刻みに震えている。
それほどまでに彼女は追い詰められているのだろう。
さすがにこの状況で突き放すことはできない。
ひとまず何があったのか詳しく尋ねようとした、そのときだった。
コンコン――。
ノックのあと、誰かが気配を潜めるように立ち止まった。
静けさの中に微かな躊躇いが混ざっている。
扉の隙間から覗いたのは、トレイを手にしたリリィだった。
リリィの表情には、見るべきでない場面に出くわした戸惑いがありありと浮かんでいた。
リリィの視線の先で、セシリアの白い指先は、ノクスの上着の袖をそっと掴んでいる。
リリィの存在に気づき、セシリアは慌てて手を離したが、そんな行為に意味はなかった。
パッと顔を逸らしたセシリアの仕草には隠しきれない恥じらいが滲んでいたし、一瞬前までの二人の近さは明らかに親密な関係を物語っていた。
「失礼いたしました……! お茶をお持ちしたのですが、出直します……!」
「リリィ、待ってくれ。構わないから」
後ろめたいことは何もなかったため、ノクスは踵を返して部屋を出ていこうとするリリィを呼び止めた。
リリィは驚いたように慌てて足を止めた。
「ありがとう。お茶はそこに置いてくれ」
「……! は、はい」
リリィは丁寧に一礼すると、トレイを机の端に置いた。
リリィがお茶を注いでいる隙に、ノクスは机の上の新聞を手早く折り畳んだ。
密輸事件について話していたことを、リリィには知られたくなかった。
ありがたいことに、リリィの澄んだ目は、ノクスが隠した新聞には向かわなかった。
だが、代わりになぜか、深い理解と慈しみに満ちた視線を向けられた。
嫌な予感がする。
その直後、リリィはセシリアとノクスを交互に見やり、ほんのりと頬を染めた。
その眼差しには、二人の間に漂う微妙な空気を察した優しさと、控えめな期待が込められていた。
嫌な予感はさらに強まる。
お茶の準備を終え、部屋を出ていこうとしたリリィは、扉の前でノクスのほうをちらりと振り返った。
扉に背を向けているセシリアには見えていない。
ノクスだけに伝わるよう、リリィは意味深に頷いてみせた。
「応援してますよ、ノクス様」と言わんばかりの仕草だ。
リリィの表情には、長年の付き合いから生まれた親しみと、使用人としての慎み深さが絶妙に混ざり合っていた。
ノクスは思わず額に手を当て、深い溜息を吐いた。
嫌な予感は見事に的中した。
(……これは間違いなく誤解されたな)
後で絶対、根掘り葉掘り聞かれることになるだろう。
まったく、参ったものだ。
溜息をつきながら、セシリアの問題に話を戻す。
「それで、『屋敷に帰れば結婚させられる』というのは、どういう意味だ?」
「……今日は、とあるお茶会の日取りを決めることになっているの。そのお茶会には、私の婚約者候補の方もご家族で参加されるそうなの」
貴族社会では、妙齢の令嬢や令息はほとんどが婚約者を持っている。
セシリアが婚約解消後に次の相手をあてがわれるのは、当然の成り行きだろう。
彼女の高い家柄を考えれば、婚約話が急がれるのも無理からぬことだ。
「お茶会と言いつつ、実際は両家の顔合わせってことか」
「ええ……」
セシリアは唇を噛みしめながら頷いた。
「顔合わせが終われば、もう後戻りはできないわ。両家が話をまとめて、式の日程も決められて、そうして私は逆らえない流れに飲み込まれていく。貴族の婚約なんて、所詮はそんなものよね。とくに女の私には選択権がないの。ふふ……まるで商品みたいね。上等な布で包まれて、きらびやかな箱に詰められて、家の名前と引き換えに差し出される。ただの品物なのよ」
「逃げ出してきておきながら、納得したようなふりをするんだな。君らしくない。気乗りしないのに、黙って流されるなんて」
「……そうよ。気乗りしないわ。だって……」
そこまで言って、セシリアは口を噤んだ。
心の奥で膨らむ言葉を、必死に押し殺すように。
父の命令に逆らうことはできない。
だから、次に進まなければならないのだ。
それが、貴族の娘としての務めだと、セシリアだって頭では理解している。
だが、婚約者だった頃、セシリアがノクスに対して抱いていたほのかな想いは、今も消えていない。
彼女の心の奥底では、小さな炎のように今も燻り続けているのだ。
そんな未練を残したまま、別の人と婚約するなど考えられない。
それは自分自身への裏切りであり、相手への不誠実でもあると、セシリアには思えてならなかった。
ただ、さすがに自分の気持ちを、ノクス本人に打ち明けることなどできなかった。
ノクスはセシリアの想いに気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、ただ静かに紅茶を啜るだけだった。
ノクスの仕草には、どこか意図的な無関心さが漂っている。
気づいているかどうかに関わらず、ノクスがセシリアの想いを受け入れることはないだろう。
それだけは確かだった。
「それで、結局セシリアはどうしたいんだ? 今日の日取り決めを先延ばしにしたところで、何の解決にもならないだろう?」
セシリアは、まさかノクスが自分の話に深く関心を持ってくれるとは思っていなかったので、驚いて顔を上げた。
しかし、ノクスの問いかけに対する本当の答えを、他でもない彼本人に伝えることはできなかった。
『心にまだあなたが存在しているのに、他の人と婚約したくない』
そんな本心を、まさか口にできるはずがなかった。
「……どうって、何もできないわ。だって私は貴族の娘よ。父の命令には従わなくちゃならないの。たとえそれが、私の意志を踏みにじるものだとしても……。それが、貴族社会のルールでしょう」
その言葉には、貴族としての誇りと、運命に縛られた者としての苦しみが入り混じっていた。
「だったら、なぜ今日、俺のところに残りたがった? 何を期待していたんだ?」
「そ、れは……」
静かな口調ながらも鋭い問いかけに、セシリアは言葉を詰まらせた。
「いいか、セシリア。俺に期待するな。俺たちはもう、赤の他人だ。俺が君にしてやれることはない」
「……っ」
ノクスの冷たい言葉に、セシリアの瞳が切なく潤んだ。
まるで、最後の希望さえも砕かれたかのように。
「――と言いたいところだが、密輸組織の件で借りがあるからな」
「……え」
言われたことをすぐには理解できず、セシリアは瞬きを繰り返した。
「その婚約、邪魔してやろうか?」
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