地獄の扉を開く夜
夜の空気は重く湿っている。
冷たい霧は地面を這うように広がり、建物の隙間を縫うようにして進んでいった。
今、ノクスがいるのは、王都の外れ。
かつて倉庫街として栄えていた地帯だ。
旧倉庫街の東側には、風雨に晒され廃墟同然となった石造りの建物が静かに佇んでいる。
風化した壁面には長い年月の痕跡が刻まれ、所々に這う蔦が時の流れを物語っていた。
月明かりに照らされたノクスは、建物の中央に聳え立つ重厚な扉を見上げている。
彼の影は地面に長く伸び、立ち込める冷たい霧の中へと溶けていった。
メイドのリリィがこの計画を知ったら、きっと心配して止めるに違いない。
だからノクスは、敢えて夜を待って行動に出た。
元婚約者である侯爵令嬢セシリアの忠告を受けた後も、ノクスは平静を装って夕食を摂った。
そして、屋敷が寝静まった頃を見計らい、こっそりと抜け出したのだ。
リリィの心を痛めるくらいなら、この秘密を一人で背負うほうがましだ。
「——それにしても、ここはかつての人生で訪れたときと、何も変わっていないな」
ぼそりと呟き、扉に手をかける。
この建物は、過去のループの中で、無惨に命を奪われた忌まわしき場所なのだ。
それは、今回と同じように、武器密輸の濡れ衣を着せられる展開での出来事だった。
冤罪で摘発されたノクスは、闇夜に紛れて逃亡を試みたものの、周到に配置された追っ手にあっけなく捕まってしまった。
追っ手は、黒頭巾で素性を隠した無骨な体格の男だった。
黒頭巾は、ノクスの腕を捻り上げながらこの倉庫へ連行すると、倉庫の持ち主である豪商マゼラン・ドルヴィックに、ノクスの身柄を引き渡した。
『この者が、貴殿の罪を代わりに背負うことになった、ノクス・アルヴェインだ』
『ご引き渡し、ありがとうございます。あの方々にもよろしくお伝えください。後は私のほうで確実に処理させていただきます』
そんなやり取りが交わされた。
黒頭巾の男に感謝を伝えるドルヴィックの目には、目的が達成されたことへの喜びの色が浮かんでいた。
そのままノクスは、薄暗い倉庫の一角に監禁された。
そこは鉄格子に囲まれた狭い空間で、外の光などほとんど届かなかった。
時間の感覚を完全に奪われたまま、ノクスは幾日もの間、身動きひとつ許されずに過ごすことを強いられた。
ドルヴィックは毎日何度も訪れては、執拗に暴行を繰り返した。
ノクスが数日間生かされていたのは、ドルヴィックの憂さ晴らしの対象として価値があったからだ。
しかし、それもすぐに飽きられた。
監禁されてから数日後、ドルヴィック自身の手で胸を撃ち抜かれたノクスは、床に広がる血溜まりの中で命を落とした。
転がる薬莢、冷たい床の感触。
ノクスの頭を執拗に踏みつけながら高笑いを上げるドルヴィックの歪んだ顔。
遠ざかっていく靴音。
生臭い血の匂い。
そのすべてを、今なお鮮明に覚えている。
ノクスは過去の記憶を一歩一歩辿るように、倉庫の内部へゆっくりと足を踏み入れた。
かつての悪夢が、現実の光景と重なり合う。
時が止まったかのようなこの場所特有の雰囲気が、ノクスの全身を包み込んだ。
そのまま無言で進み、倉庫の最奥に位置する石壁の前で立ち止まる。
一見すると何の変哲もない壁だ。
この倉庫には、古くから伝わる隠し扉が存在している。
それは、巧妙な錯覚術によって守られていて、外部の者には決して見つけることができなかった。
だがノクスは扉の在処を知っている。
これも過去の人生のおかげで得た知識だ。
武器密輸の冤罪を着せられ、この場所へ無理やり連れてこられた時に、ノクスは隠し扉の仕組みを見せられていたのだ。
黒頭巾に連行されてきたノクスを引き取り、倉庫の奥へ案内したのは、ドルヴィック自身だった。
ノクスをつれたドルヴィックは無言のまま薄暗い通路を進み、石造りの壁の前で突如として立ち止まった。
それから、ドルヴィックは右の手のひらを壁面にゆっくりと翳した。
ドルヴィックは詠唱しながら、濃密な魔力を壁へと流し込んでいった。
魔力が込められ、偽装魔法が解かれると、壁の向こう側から秘密の通路が姿を現した。
『なぜ、おまえに扉の解除方法を見せたか、理由がわかるか?』
突然、ドルヴィックが問いかけてきた。
月の光に照らされたドルヴィックの顔には、悪魔のように不気味な陰影が浮かび上がっていた。
『知られても何の問題もないからだ。なぜなら、おまえは二度とここから生きて出られない。くっ、くははははっ!』
残忍なドルヴィックは喉の奥から低い笑い声を溢れさせた。
そして実際、ドルヴィックの宣言通りの展開が訪れた。
ただしそれは、ノクスにとって過去の人生での話だ。
ノクスの立場から言わせると、ドルヴィックは慢心という致命的な過ちを犯したとしか思えなかった。
その過ちによって、今回、ドルヴィックの運命は大きく狂おうとしているのだから。
「今度は俺がこの地獄の扉を開き、あいつを深淵へ引きずり込む番だ。――偽装解除」
ノクスは魔力を集中させた指先で、扉の壁面をそっと撫でた。
かつてドルヴィックが見せた通りに、壁に沿って四つの角を正確に辿っていく。
過去の記憶が、行く手を導くかのように正確な位置を示してくれる。
解除魔法が発動するのと同時に、石壁は低い唸りを上げた。
青白い魔力が壁全体を輝かせる。
ゴゴゴッ……。
低く唸るような音が倉庫内に反響し、まるで生き物のように壁が震動する。
魔力の帳が徐々に薄れていき、やがて完全に消滅すると、目の前の分厚い石壁がゆっくりと左右にわかれた。
姿を現したのは、古めかしい意匠が施された重厚な扉だ。
錆びついた金具と、風化した装飾が、この場所の歴史を物語っている。
ノクスは無言のまま、扉に手をかけた。
彼の動作には一切迷いがない。
そのまま躊躇することなく、扉の奥へと歩を進めていく。
ノクスはいつの間にか、ドルヴィックとの再会に胸を躍らせていた。
毎日必死で更新しています……!
少しでも「面白そう!」「期待できる!」そう思っていただけましたら、
ぜひ↓の広告下からフォローと評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に)で励ましてください。
皆さまからの応援が、なによりものモチベーションとなります!




