『魔王さま』と『勇者』と僕の好きな人?
「なあ。お前狡くないか?」
清涼感のある高原の空気を、魔王さまは意図が掴めない言葉で汚す。汚れているのは魔王さまの心だけでいいのに、と残念な気持ちを抱きながら僕は「なにがですか?」と訊ねた。
「だから、お前、狡いんだよな」
「その、狡いの意味を訊いているんです。具体的に仰ってください」
僕は、もう一度確認作業をする感覚で魔王さまに訊ねる。一を聞いて十を知るというが、零から十は生まれない。仮にそんな芸当ができたとしても、魔王さまを青天井につけあがらせるだけだ。
「もうっ。だーかーらー」魔王さまは子供のように駄々をこねる。「お前は狡いんだと言っているんだ」
「話が1ミリも前に進んでいませんね。金言は永遠の輝きかもしれませんが、魔王さまの言葉は、永遠のくすぶりです」
「お前、私に喧嘩を売っているのか?」
売っている。が、そんな事を馬鹿正直に答える気はないので、沈黙で肯定した。
魔王さまは怒りの孕んだ笑みを浮かべ、両手の骨をポキポキと鳴らした。そうやってすぐに肉体言語に訴えるから、論理的な思考が停止して建設的な会話ができないのだ。
これが小動物や言葉も覚えていない幼児なら納得もするが、残念な事に、魔王さまはその両者のどちらにも該当していない。
「ともかく、ゆっくりでいいですから、僕の、何が、狡い、のか説明してください。三部構成でなくてもいいですから」
三部構成なる言葉が魔王さまの頭の中にあるのかは、甚だ疑問だし、あったとしてもそんな構成力など、魔王さまが持ち合わせていないと分かりつつ、僕は魔王さまを促す。
「簡単に言うとな。お前に私の気持ちが分からない事が狡いんだ」
「1行でまとめられただけマシですね。ですが、それと僕が狡いという結果が結びつかないんですけど。誰だって、他者の気持ちの全てを把握する事はできませんよ」僕は丁寧に説明する。「生き物だもの」
「その達観した感覚が狡いと言っているのだ」
「おおっと」僕は口笛を吹く。「魔王さま、今の一瞬で過去から来ましたか? 話がスタート地点に戻った」
「しょうがないだろうが」魔王さまが僕に唾を飛ばす。「生き物だもの」
「冗談はさておき」
「本当に冗談か?」
「料理で言うところの五対三対一の割合で冗談です」
「残り一は何だ?」
「さあ」僕は空土ぼける。「愛情とかじゃないんですか」
「そうっ」魔王さまは僕を指指した。「お前には愛情がないんだよ。というか感情がない」
「感情ですか」
いよいよ話題が面倒な事にもつれ込んできた、と僕は警戒する。魔王さまの言葉にはいくらでも反論できる用意はあるが、沈黙は善という言葉もあることだし、やはり沈黙を続行すべきか、と逡巡する。
しかし、女性、こと魔王さまに至っては沈黙の連続は悪手だ。どうせ、訳の分からない言語ともいえない言語で罵倒されて終わりだ。
ペットが飼い主に「お手」と言われて、やりたくもない芸を泣く泣く強いられるみじめな気分になるようなものだ。
「そうだよ。感情だ。前々から思っていたんだ。お前には感情がない」
「そうですか?」
僕は魔王さまに不満を抱く。僕に感情がないのであれば、僕が普段から抱いている魔王さまへのこの苛立ちと焦燥感と反骨精神はなんなんだ? 僕の幻想か何かか?
「そうなんだよ。なんというか、全てが他人事というか、お前のとる行動に感情がこもってないんだよ」
「そりゃそうでしょうよ。だって僕の起こす行動のほとんどが他人事なんですから。僕の感情を挟む余地なんてないでしょ?」僕は魔王さまに抗弁した。「生き物だもの」
僕の行動のほとんどが、魔王さまの身の回りの世話と、時折自然災害のように訪れる命令なのだから、感情を殺した方がはるかに心の負担は少なくてすむ。
「とにかく、だ。お前はあれだ、ご、ご、ご」
「合理的?」
「そう。それだ。お前の行動には感情が見られない。私の部下なのに嘆かわしい」
「その辺はバランスの問題じゃないですかあ」僕は憮然と応じる。「僕が合理的なのは、魔王さまが感情的に暴走するからですよ。僕は魔王さまのという津波の防波堤になっているにすぎない」
「そこが駄目なんだよなあ」魔王さまは頭を掻きむしる。
駄目な存在の先駆者に駄目と言われても、心には響かない。おそらくハゲにハゲと言われても、なんとも思わない事と同じ理屈だろう。
「駄目と言われても困ります。というか僕の何が駄目なんですか?」
「お前には好きな者はいないのか?」
「いないですね」僕は即答する。「というか僕に好きな他者が出来るタイミングなんてありましたか?」
「金髪の下郎がいるではないか?」
「誰が僕の事を率先してストーキングする人間を好きになる要素があるんです。草食獣の皮を被った肉食獣を好きになる小動物がどこにいるんです」
「じゃあ、緑はどうなんだ」
魔王さまは、僕の背後にきょとんと立ち尽くす神樹さんを指指した。
「神樹さんは神樹さんでしょ。『森の神』なんですよ。なんとなくですが魂のステージが違う気がします。僕に害を及ぼさない点では、好意は抱きますが。たぶん魔王さまの言っている好きな者とはちがいますよ。というか懐かれているだけで、意思の疎通が上手くできていない気もしますし」
「じゃあ、このガキはどうなんだ?」
魔王さまは自身が来ているドレスの裾を掴んで放さない子供を見下ろした。とある街で助けた年端もいかないあどけない少女だ。おろおろと魔王さまを見上げている。
「その子を異性として好きになったら、いよいよ事案でしょうよ。年の差を考えて下さい」
「恋愛に性別も年の差も関係ないだろうがっ」
またもや魔王さまの声によって、高原の綺麗な空気が汚された。
「なんというか、魔王さまが言うと、嫌なほど胸に突き刺さりますね。良いスピーチでした。もうこれでいいでしょう」
「よくない。お前は健全じゃない」
なんなんださっきから、と僕は魔王さまに辟易とする。
「僕は健全ですよ」
「健全だったら誰かしらに恋煩いをしてもいいだろうが」
「患ってんのは魔王さまたちだけで十分なんですよっ」
「ちぃぃ。一人だけ良い子ちゃんぶりおってからに」
「いったい魔王さまは何がしたいんですか? さっさと元の爛れた瞳で勇者でも観察しておいて下さい」
僕は魔王さまの部下らしく進言する。
「そんな事はやりつくしたわっ。この見晴らしのいい高原の風に髪をたなびかせるあの子の絵なら、すでにカメラで納めている。今、あの子は昼食の準備で一人待機しているんだ」
「なんか、勇者って仲間からかなり好待遇を受けていますよね」
「そうだ。しかもここは見晴らしがいい高原で、大した野獣も出ないから、彼女の安全は保証されている。それに幽霊の下郎という護衛もついているからな。さっき、カメラであの子を撮影したら、幽霊の下郎は親指を立てていたから、ほぼ、あの子は鉄壁だ。というかあの幽霊の下郎はいつあの子から離れるんだ? あのこの子の事を覗こうにも、どうにもあの下郎がちらついてくる気がして心穏やかではいられない。誰だ。あの下郎と条約を結んだ愚か者は」
「魔王さまです」僕はきっぱりと言い放った。「というか、ここまで長々と話してきましたけど、魔王さまは暇を持て余している、という事ですか?」
「何か問題でもあるか? 私だって暇を持て余すことだってある」魔王さまは居直る。「生き物だもの」
「だからって、僕であそばなくても……」
「いや。お前のその淡泊でぶれない感情が気になっていたのは事実だ。という訳で、お前の好きなタイプを教えろ」
話題が1ミリも進まないと思ったら、一足飛びに話が飛ぶ。僕はうんざりしながら手をひらひらと振った。
「好きなタイプもなにもないですよ。あえていえば僕に迷惑をかけない人です」
「お前、私を煙に巻くつもりかっ」
この魔王さまの沸点はどこまで低いんだ。今、明確に回答しただろう。つまるところ、魔王さまの納得のいく答え以外に正解はない、ということなのだ。
そんなこと、どんな天才でも突破困難だ。相手の心を読めるか。あるいは相手の心を操れない限り。
「そうねそうねそうね。質問には誠意ある解答をしないとね」
僕の耳に聞き覚えのある甲高い声が声が聞こえてくる。僕が困っている時に限って、余計に困った状況を招く道具を運んでくる厄介な存在だ。
いつもいつも、願ってもいないのに降って湧いたかのように現れる。
「くそっ」僕は口角を歪ませ声の主を見た。「まあた出たよ。万屋」
僕の視線の先には、屋台を引いた万屋の姿があった。一瞬でも警戒をといたら、すぐさま出現するその技は目を見張るものがあるが、このタイミングで現れたという事は、僕にとって都合の悪い物を持ってきたに違いない。
僕は身を固め、万屋を睨み付ける。
今度は何を売りつけるつもりだ?
「おおっ」魔王さまが珍しく万屋を見て相好を崩した。「ちょうど良いところに来たな」
「そうね。そうね。呼ばれた気がしたから来たわ」
「呼ばれた気がした、じゃなくて、金の臭いがしたから来たの間違いだろう」
「それで、こいつの本音を吐露させる道具でも持ってきたのか?」魔王さまが余計な事を口走った。「爪を剥ぐやつとか、銅製の動物のオブジェの中に突っ込んで、下から火をあぶるやつとか」
「どれも、ただの拷問器具じゃないですか? 僕を○す気ですか?」
「まあ、私の知る限りお前は一度も死んでいないからな。一度ぐらいいいんじゃないか」
「このサイコ魔王さまがっ」僕は愕然としながら苦情を言う。「一度ぐらい死んでも、なんて言葉は普通ないんですよ」
「馬鹿は死ななきゃ治らない、というじゃないか」
「その言葉、鏡に向かって言って下さい。僕は嫌ですからね」
「そうね。暴力は駄目ね。でもこれならどうかしら」
万屋は屋台の下に姿を消し、すぐに、顔を出す。万屋の手には毒々しい液体の入った小瓶が握られていた。僕は目を細め、その小瓶を見た。どこか見覚えのある不穏な気配を漂わせる小瓶だ。
万屋と出会ってからの思い出したくもない記憶を辿り、僕ははっとする。
「たしか、それって『媚薬』かっ。前に魔王さまに売ろうとしてた」
「ほう。そういえば、そんな事もあったな」
万屋の手にあるのは以前、魔王さまに売りつけようとした『媚薬』だった。あの時は、魔王さまが「人の心を操作しても意味は無い」と一蹴したが、なぜ、今、このタイミングで持ち出してきたのか意味が分からない。
「そうね。これは飲んだ者は、飲んだ後、最初に見た相手を好きになる『媚薬』なんで」
「いや。おかしいだろ」僕は思わず突っ込みを入れる。「それって意中の相手に飲ませるアイテムだろうが。その悪意の純粋結晶にしかみえない『媚薬』と僕の好きなタイプを聞き出す筋道が見えないぞ。間尺が合わない」
「だって、お前が素直にならないのがいけないんだぞ?」
「これから加害者になろうとしている者の台詞ではない。というか話が全く噛み合ってないんだ。その『媚薬』を使ってどうやって僕の好きな異性のタイプを聞き出すつまりですか。魔王さま」
「……まあ、なんとかしてだな」
魔王さまはポリポリと頬をかく。
「その見切り発車はなんですか。付き合いきれない。いいですか。こういう些細な事の積み重ねで、反乱は起こるんですよ。いいですよ今すぐ僕一人で、クーデターを起こしても」
「まあ、待て。良い案がこの辺まで出かけてるから」魔王さまは自分の腹部に手を当てる。
「随分と遠い、この辺ですね。せめて喉元に手を当てましょうよ」
「万屋。とりあえずその『媚薬』は何本ある?」
「そうね。あと四……五本あるんで」
「よしっ。全部買った。いくらだ」
「『回復薬』十五個分ね」
魔王さまは「分かった」と返事をすると胸元から『回復薬』を取り出し、万屋に支払う。
「なんでしょうね。以前は、人の心を操作しても意味がないって言ってた人が、この手の平返し。それに五本もどうするんですか?」
「全部、お前に使う」
「はあっ」僕は爆ぜるような声を上げた。「正気ですか?」
「ちょうどいいじゃないか。おい万屋」
「あい」
「この『媚薬』は飲んで最初に見た者を愛するんだよな?」
「そうなんで」
「だったら一人ずつ試せば良い」
仰っている意味が分からないと僕は臆する。おそらく、その意味不明な発言をした本人ですら意味は分かっていないのだから当然だ。
「本当に何を言ってるんですか?」
「簡単な話だ。今から紅い下郎と金髪の下郎をここに呼ぶ。というかどうせ呼ばなくても来るだろう。それで、『媚薬』を飲んだお前が、下郎達の中で一番好きな者を決めて貰う」
「いやだから、論理が破綻してますって」僕は両手の平を魔王さまに向け拒絶するように振る。「その『媚薬』は飲んで最初に見た者を好きになるんでしょ。だったら、最初に飲んだ相手を一番好きになるに決まってるじゃないですか」
生まれたての子鹿の知識でも分かる話だ。魔王さまがその域までの知性も知識もない事は重々承知しているが、ここまでとは。
「お前、何か失礼な事を考えてないか?」
「失礼という言葉に失礼なレベルな感想を抱いています」
「お前、はった倒すぞ」魔王さまは憮然と腕を組む。「ようは『媚薬』を飲んだ者……まあ、お前なんだが。お前が『媚薬』を飲んで最初に見た相手にふぉ、ふぉ、ふぉ?」
「フォーリンラブとでも言いたいんですか?」
「そうそう。それ。やはりお前は物知りだな」
「そんな言葉、どこで覚えてきたのか」
僕は呆れながら、はっとする。なんで、僕もそんな言葉を知っているのか。少なくともここ最近では聞いた言葉ではないし、今まで読んだ本にも書いていなかった気がする。
いや、と僕は我に返る。今はそれどころではない。
とにかくこの場に留まっても先細りの未来しかないのは確かだ。であるなら、とっとと、この場から離脱する事を最優先にすべきなのは明白だった。
僕はその決断を即座に実行しようと、足に力を込める。次の瞬間、案の定というか予定調和のように、僕の体の自由が奪われた。
魔王さまが僕の額に手を当て、珍しく何かしらの魔法を使ったのだ。やられた、と言う感情と、やっぱり、という感情がない交ぜになる。
「こ、の、クソ魔王さま。僕に何をしたんです?」
「なに、ちょっと体をしびれさせただけだ。私だって日々成長しているのだ。手加減ぐらいは出来るさ」
何を得意満面に言っているんだこの魔王さまは。そんな小細工できるなら、普段の僕が背負っている苦労がどれだけ減ることか。
「魔王さま。あなたの親の代まで呪ってやる」
「なははっ。それだけ元気ならちょうどいいな」魔王さまは呵々大笑する。「ルールは簡単だ。お前が『媚薬』を飲んで、紅い下郎、金髪の下郎、緑、ガキ、そして私の誰が一番好きか吐いて貰う」
「い、いや。だから『媚薬』を飲んだ時点で初めに見た相手を一番好きと言うに決まってますよね……」
「そこは大丈夫だ。減点方式でいく」
「減点方式?」
「そうだ。『媚薬』を飲んで見た相手が十点満点なら、相手にこう答えさせれば良い『私の事が好きなのは分かるけど、完璧じゃないと思う。だから、私に至らない点があれば正直に答えて』とな」
「だから、そんなのどうやって」
「好きな相手の頼みだ。お前は正直に答えるしかない。そこには都合のいい保守的な意思が働く隙はない。好きだけにな」
「面白くない冗談ですね。嫌な予感しかしませんがそれで次はどうするんです」
「一人目の意見を聞いたら、私が、お前を気絶させもう一度『媚薬』を飲ませる。そしてまた次に惚れた相手を採点させる。それを五回くり返す。簡単であろう?」
この世界に生物に対する温情というものはないのか。
「魔王さまに米粒ほどの良心に期待した僕が馬鹿でした。算数すらまともにできないと思ってたのに、そんなアクロバティックな『媚薬』の使用方法を考えつくなんて……」
「と言うわけで、いでよ二人の下郎たちっ」
魔王さまが謎の号令をかけると、紅い女性と金髪の少女が、どこからともなく姿を現した。万屋といい、ここは隠れる場所がほぼない高原だぞ。どういう技術をつかったら当たり前のように現れる事ができるんだ。
「どうしました。主さま。俺に何かご用ですか?」紅い女性がいけしゃあしゃあと言ってのける。
「わ、私達に、何か?」
金髪の女性はいつも通り挙動不審だが、その瞳は妖艶に輝いており、口角からは涎が垂れている。
どうせ二人とも、魔王さまと僕達の会話を耳に入れていたのだろう。
さすがに頭の中が空洞になっている魔王さまも、そのあたりは了解しているようで「説明は省くが、私を含めた五人の中で、誰がこいつに一番好かれているのか判定してもらう」
「あ、あの」たどたどしく手を挙げたのは金髪の少女だ。「減点方式なのは訊いていましたが、具体的にはどうするんです?」
「ふん。金吾の糞に好かれるのは吐き気がするが、それは私も気になる」
「ふふん。こいつを使う。おいっ。万屋」
「そうね。そうね。これを使うといいと思うわ」
そう言って万屋は、背中に隠し持っていた棒のような物を取り出した。先には丸い板がついており、そこには数字が書かれていた。
子細に見てみると丸い板には『-1』から『-10』まで印字されている。
だいたいのルールを僕は察する。そして自分の未来を考え枯淡の境地に至った。
ただ『媚薬』のモルモットになればいいのだ。どこかの本で読んだことがある。何かしらの大義名分さえあれば、他者は他者を実験材料にできていた時代があったと。
それこそ、魔王さまという大義名分がある以上、僕に出来るのは、まな板の鯉の真似事ぐらいだ。
「それじゃあ。やるか」
魔王さまが『媚薬』を片手に僕に近づきニタリと笑う。その開かれる口には深淵の闇が広がっていた。
体を動かそうにも、普通の人間程度にしか動けないので、逃げ道はない。
一歩一歩、ひたひたと、魔王さまは僕に接近してくる。それと同時に、万屋が僕の手に例の判定棒を強制的に握らせてくる。
魔王さまは、僕の頬に手をあてがい力尽くで口を開かせ、無理矢理『媚薬』をねじ込んでくる。
僕が最後に見たのは、子供のように無邪気に目を光らせる邪悪な魔王さまの顔だった。
「……ううん」
僕はうなり声に起こされるように、目をさます。そして、僕の目を覚まさせたうなり声は、僕が発したものだと気づくのに数瞬の間を要した。
周囲をうかがう。高原の爽やかな空気が僕の頬を撫で、思考が明瞭になってきた。
そうだ。僕は魔王さまの暇つぶしに『媚薬』を飲まされ、これまで出会ってきたストーカーに対する好意の評価をさせられたんだった。
僕は全身のバネを使い立ち上がった。
そこには何もなかった。ただ高原が広がっているだけだ。
万屋も、紅い女性も、金髪の少女もいない。いや、どこかにはいるのだろうが、僕の視界の範囲にはいない。
いるのは魔王さまと、子供と、神樹さんだけだ。
「いつまで、寝てるんだ?」
魔王さまが望遠鏡で勇者を覗きながら声をかけてくる。
「僕、寝てたんですか?」
「ああ。ぐっすりとな」
「じゃあ、あの『媚薬』の好感度実験は?」
「『媚薬』? 好感度実験? 何の事だ」
「ううんと。いまいち思い出せないですね」
「そうか。それならいい。白昼夢でも見てたんじゃないのか」
「寝ながら白昼夢は見れませんよ」僕は苦笑する。
「とにかく、お前が寝ている間に、あの子が動き出したぞ。お前も突っ立ってないで、とっとと行くぞ」
魔王さまはぶっきらぼうに言い歩き出す。僕も魔王さまに続くように歩き出した。
そこでふと疑問を抱いた。肩越しに見える魔王さまの顔が、妙に高揚していた。いつもの勇者を視姦しているそれでない。
「魔王さま。具合でも悪いんですか?」
「し、知るか。いいから行くぞ」
よそよそしい魔王さまの態度に首を傾げながら、僕はふと背後を見やる。
そこには数本の木の棒が落ちていた。木の棒に『-』の数字が印字された棒だ。僕はその棒をぼんやりと見る。
棒は全部で六本落ちていた。『-1』『-3』『-5』『-5』そして気になったのがもう二つの棒だだ。二本とも持ち手が折られており、それがクロスされるように置かれている。そのクロスされた棒を挟むように『-3』と『-5』の棒が置かれている。
何かの暗号か、と僕は顎に手を遣る。
「いや、暗号と言うよりただの算数だな」
『-』✕『-』=『+』
ということは、この二本の棒が指し示している数字は『+15』という事になる。
結局、この数字は何だったんだ。爽やかな高原には不釣り合いな棒だが、何故か、不快ではない気もする。
「おいっ。さっさとあの子を追うぞ」
余計な考えを払拭して、僕は魔王さまに向き直った。
魔王さまの顔はやはり、沸騰しそうな程赤くなっている。
あとで、風邪薬でも煎じてあげようか。
そんな事を考えながら、僕は、魔王さまの背中を追う。




