78:クリストファー・アルダートンの失恋
王弟ハルトが突然現れてから1週間近く経つが、特に大きな変化はなく嵐の前の静けさとでも言うかのように、皆ぞれぞれ実に平和な日々を過ごしていた。
あれから何一つ大きな変化はない。
学園でも城でもギルバートがウザいくらいにそばを離れないようにしているのは変わらないし、ギルバートがトウカに小言を言われている姿もいつもと変わらない。
何も変わらない日常の風景。
けれど、3日前くらいから何かが違うとクリストファーは感じていた。
傍目にはわからないのだろうが、学園でずっと側にいるクリストファーやアーサーには二人の間に流れる空気は少し張り詰めていて、どこかぎこちないのがわかる。
「殿下となんかあった?」
その日の昼休み、番犬ギルバートの隙を見てトウカを学園の庭園へと連れ出したクリストファーは単刀直入に尋ねる。
『殿下は?』
「アーサーに捕獲してもらってるから大丈夫だ。飯もこの通り用意してる。ほら、あそこ座ろうぜ」
ノートで半分顔を隠しながら、怪訝な顔で何かを訴えるように自分を見るトウカを可愛いと思いつつも、クリストファーはとりあえず近くの東屋に行こうと促した。
『何か用ですか?』
言われるがままに東屋についてきたトウカは、明らかに不似合いなハート柄の巾着に入ったランチボックスを広げるクリストファーの前にノートを突き出した。
「んー?何か知らないけど殿下と気まずいんじゃないかと思ってさ」
思わぬ返答に、トウカは目を丸くした。
鈍いクリストファーにまで感づかれるほどにわかりやすかっただろうか。
『どうしてわかったんですか?』
「あれだけわかりやすく愛情表現していたのに、それが不自然にピタリとなくなっていれば誰でもわかるだろ」
確かに、ぱっと見にはわからないがギルバートは不用意に彼女に触れないよう、かなり気を遣っている。クリストファーやアーサーが感じている違和感の原因はそれだ。
「別に話したくないなら話さなくても良いけど、喧嘩してるなら早い事仲直りしといてくれ。こっちも気まずい」
『そうアーサー様が言っていたと?』
「アーサーも言っていたな」
クリストファーは不満げに返した。
やはりトウカを連れ出したのはアーサーの指示らしい。素直な彼にトウカはクスッと笑みをこぼした。
「笑うなよ」
『鈍いクリスが私と殿下の変化に気づくわけないと思ってましたよ』
「バカにしてるだろ」
『してません』
クスクスと笑うトウカに、クリストファーも自然と笑みが溢れた。
声が出なくなってから、トウカがどこか胡散臭い笑顔を作っていたのは鈍い彼でもわかっていた。
故に自然な笑みが見れたのは素直に嬉しい。
「まあ、何にせよだ。拗れる前に早い事話をしておくべきじゃないか?」
『わかってます』
「良ければ話聞くぞ?まあお前より頭悪いから聞くしか出来ないけどな」
偉そうに胸を張って言うことではないが、『聞くしかできない』とあらかじめ正直に宣言するのは実に彼らしい。
このまま一人で抱え込んでいても仕方がないしと、トウカは聞くしか出来ない彼に思い切って聞いてみることにした。
『クリスは好きな人が処女でなかったら幻滅しますか?』
「…その質問、必然的にお前を想定することになるけど良いか?」
『良くないです。言い方を変えます』
クリストファーの矢印が自分に向いている事をついつい忘れてしまうトウカは、質問を書き直した。
『将来的にクリスが結婚するとなった時(相手は私以外。←ここ重要)、自分の妻となる女性に処女である事を求めますか?』
「この注釈、なくてもわかるから。無駄に振らないでくれ」
『念のためです』
「何だよ念のためって」
『いいから答えてください』
「そうだなぁ。気にする男は確かに多いけど、俺はあんまり気にならないかな」
『そうですか』
クリストファーの返答に、トウカは小さくため息をついた。
「どうした?急に」
『特に深い意味はありません。友達が悩んでいたものですから』
「そうか…。これは俺の意見だから参考になるかはわからないが、俺は本当に好きな相手ならそんなの関係なくなると思うぞ。その友だちも過去とか関係なく自分を受け入れてくれるやつを探した方が幸せになれるんじゃないか?」
『そういうものですかね』
「そもそも価値観が違う奴とはうまくいかないだろ。あと独占欲が強い男ほど、そういうの気にしそう。そして独占欲の強い男は厄介だ。偏見かもしれんが」
『それは何となくわかります』
「まあ何にせよだ。過去は変えられないし、悩んでも仕方のないことは悩まないに限る」
『クリスらしい意見ですね。ありがとうございます。友だちに伝えておきます』
「参考になったか?」
『参考になるかは微妙ですが、クリスの意見は心が軽くなります』
鈍いクリストファーはこの話がトウカ自身のことであるとは全く思っていない。
トウカは少し罪悪感を感じながらも、クリストファーの愚鈍さに心が安らいだ。
真剣にトウカの友人のこととしてアドバイスする姿に、ふと彼女は無駄に敵視されていた時のことを思い出す。
あの頃はただただプライドが高い脳筋バカだと思っていたし、今もその評価は変わらない。
けれど、ギルバートがこの男を側に置いている理由はわかった気がする。
クリストファーは根が真面目で素直で、そして何より友人のためなら命を張れる漢気のある奴だ。
『クリスは友達としては本当にいい人ですよね』
トウカはそう書いて、豪快にランチを書き込む彼にノートを見せた。
純粋にそう思ったからノートにこう書いたのだが、言葉選びを間違えたのかクリストファーは怪訝な顔をする。
「何回も振るんじゃねーよ。流石に傷つくわ」
『振ったつもりないです』
「じゃあ恋人になってくれるのか?」
『違う。そういう意味じゃなくて』
「じゃあどういう意味だよ」
『だから、クリスは友だち思いの良い人だねと』
「俺はお前のこと友だちだと思ったことない」
『だからそうでなく!』
正しく意味が伝わらない上に、訂正するにも手が追いつかない。筆談はやはり面倒だ。
「俺、諦めてないぞ」
『しつこい』
「殿下と婚約した程度では諦めないからな」
『しつこい』
「それに、喧嘩するくらいなら俺が入り込む隙はありそうじゃないか?」
『喧嘩じゃない』
「…じゃあ何なんだよ」
『嫌われたかもしれないだけ。多分』
「…それは」
あり得ないだろう、といいかけてクリストファーは口をつぐんだ。
どんな理由があるかは知らないが、ギルバートが彼女を嫌うなどあり得ない。それは二人を見ていれば誰でもわかる事。
だが、浮かない顔で俯く彼女に『それは勘違いだ』と声をかけるのは自分にとって不利なことではないのか。今なら、嫌われたのかもしれないと落ち込む彼女に付け込んでこちらの方を向かせる事もできるのではないか。クリストファーは足りない頭でそんな事を咄嗟に考えた。
そして、そんな卑怯な事を考えついた自分に心底軽蔑し、頬を自らの拳で殴った。
トウカは突然のことに驚き、慌ててノートに文字を書く。
『何してるんですか!?バカなの?』
ノートを見せながら赤く腫れたクリストファーの頬に手を当てるトウカ。彼は頬に当てられた白い手に自分の手を添えた。
「…殿下のこと好きなのか?」
『さあ』
「なあ、そこで曖昧な返事されると諦めつかないんだけど」
頬に添えられたトウカの手をぎゅっと握ると、クリストファーは真剣な眼差しで彼女を見る。
「誤魔化さないでくれないか?俺は結構本気でお前のことが好きだし、お前と殿下の間に入り込む隙があるのなら遠慮はしたくない。お前の心に俺が入り込む隙はあるのか?」
逃げようとするトウカをクリストファーは許さない。
「『王族と婚約したから諦めろ』と言われても諦めはつかないが、『ギルバート殿下が好きだから諦めろ』と言われたら諦める努力はしてやる」
手を掴む力が強く、振り払うことができない彼女は諦めたように小さく息を吐いた。
『努力だけかよ』
「気持ちなんていつどう変わるかわからないだろ。約束はできない。だが努力はする」
そう言って笑うクリストファーを見て数秒渋ったが、彼女は握るペンにか細い文字で、しかし、ハッキリと書いた。
『好きですよ』
俯いていて表情ははっきりと見えないが、白い髪の隙間から覗く頸はほのかに赤い。
クリストファーはトウカの手をそっと離した。
「それは俺のこと?」
ニヤニヤと腹の立つ笑みを浮かべてそう返答するクリストファーに苛立ったトウカは、頬を膨らませながらペン先の反対側で彼の頬をぐりぐりと押す。
「ごめんって、冗談だよ。わかった、諦める努力はしてやる」
クリストファーは少しだけ寂しそうな顔をすると、最初で最後と呟いてトウカの額にキスを落とした。
トウカは突然のことに大事なペンもノートも落としてしまう。あまりの動揺ぶりに、クリストファーは思わず吹き出した。
腹が捩れるほど笑う彼の姿に、トウカの顔はみるみる赤くなる。
「あーあ、デート行きたかったなー」
そうボヤきながらノートとペンを拾うと「嘘つき」と、はたされる事のない約束に対する嫌味と共に彼女に返した。
***
昼休みの終わりを告げる鐘がなる。
クリストファーはそろそろ戻ろうと、ランチボックスを片付けた。
だがトウカはその場から動こうとしない。
「次、サボるか?」
『クリスは先帰ってください』
「一応護衛だからそれは無理」
『気にしなくていいのに』
「良くない」
クリストファーはトウカの前にしゃがみ込むと、俯く彼女の顔を覗き込む。
「泣くとスッキリするらしいぞ」
『何でわかるの?』
「何となくだ」
クリストファーは隣に座ると、俯いたまま静かに肩を震わせるトウカの頭を優しく撫でた。
トウカは気持ちを返せないのに、彼の前で泣くのは狡い事だと理解している。それでも今はこの優しさに甘えたかった。
空は雲ひとつなく、どこまでも晴れ渡っているのにポツポツと落ちる雫が紙を濡らす。
「見なかった事にしてやるから、思いっきり泣いとけ」
『ごめん。ありがとう』
「どういたしまして」
クリストファーは幼な子をあやすように、わしゃわしゃとトウカの白い頭を撫で回した。




