42:聖女は目を開ける
水を掛けられた後、二人はロッカールームへと移動した。
自分のロッカーの前にたどり着いたフィオナは、その場で崩れ落ちた。
トウカはそんな彼女を支えながら、「現実を見なければならない」と言った。
強い口調でそう言われたフィオナは、「少し昔話をして良いか」と彼女に尋ね、徐に自身の過去を話し始めた。
それが先程の話だ。
5年前のアシュタール帝国。
そこでの3ヶ月が彼女の兄を変え、彼女を変えた。
(なんて罪深いのだろうか)
フィオナは心を守るため、目を閉じて耳を塞いだ。見たいものしか見ず、聞きたい声しか聞かなくなった。
そうやって出来上がったのが『聖女フィオナ』だ。
浅はかで愚かな聖女。
それでもやはり、彼女は優しい聖女だった。
だから、人の負の感情から目を背け続けていたのに、負の感情に飲み込まれそうな人を掬い上げてきたのだろう。
兄のように壊れてしまう前に。
トウカは自分を恥じた。
何も知らなかった自分を。
何も知らないくせに、無遠慮に彼女の領域に踏み込み、辛い過去を話させた。
この歪な聖女の姿が、彼女の生まれ持った性格から来るものではなく、外的要因により形成されたものだという可能性を考えていたのに、配慮しなかった。
もう少し慎重になるべきだった。
下手をすれば、これをきっかけに、フィオナの心は本当に壊れてしまうかもしれないのに。
トウカは、いつだったか、彼女に対して『自分の行動の結果を予測できていない』と思ったことがある。だが、予測できていなかったのは彼女もまた同じだった。
(私とて、何も見えていなかった。あの頃も今も)
トウカは静かに、微笑みながら涙を流すフィオナを抱きしめた。
これ以上、彼女の心を壊してしまわぬように優しく。
しかしそれから暫くして、目を真っ赤にしたフィオナは、鼻をすすりながら
「話したら何故だか少し心が軽くなりました」
と言って笑った。
トウカは驚いた。その笑顔はいつもと変わらない笑顔だったからだ。
フィオナは無理をして笑っているわけではない。むしろ吹っ切れたような、そんな雰囲気すら感じる。
「どうしてそんな風に笑えるの…」
トウカは悲痛な顔をして俯き、小さく呟いた。
口調には、思わず素が出てしまっていた。
「#まだ__・__#2年だ…」
兄の死に、母の死に絶望し、彼女が目を閉じてからたったの2年。
トウカには、とても短い期間に思えた。
しかし、彼女にとっては違った。
「#もう__・__#2年ですよ」
長い間ずっと現実から目を背けてきたという自覚が彼女にはあった。
それは人の上に立つ貴族の娘として許されるものではない。
「どうしてそんなに強くいられるの…」
トウカは顔を歪ませる。
まるで、自分の事のように傷ついた顔をする彼女に、フィオナは思わずクスッと笑ってしまった。
「やっぱりトウカさんは優しいです」
フィオナは、ロッカールームにある、灯を取り入れるだけに設置されたであろう、小さな窓を見上げて、外を眺めた。
朝、東に見えていた雨雲は雨を降らせていた。
「ねえ、トウカさん…。兄の葬儀の日も、こんな雨でした。あの日も、墓前で泣けなかったフィーを隠すように降っていました」
兄の葬儀の日、フィオナは泣けなかった。
本当は心のどこかで、兄の死にホッとしていたのだろう。
フィオナは兄が死んだ事で、もう殴られなくて済むと安堵したのかもしれない。
「でも、トウカさんが話を聞いてくれたから、泣くことが出来ました。兄を想ってちゃんと泣けました」
ありがとうと微笑むフィオナに、トウカは涙が止まらなくなった。
今ここで、自分が泣くのは違う。頭ではわかっているのに、彼女の涙は止まらなかった。
フィオナは、濡れた自分の袖口でトウカの涙を拭う。先程彼女がしたように。
「…冷たいです」
「ふふっ。ごめんなさい」
「なんで笑うんですか」
「だってなんだか、トウカさんが年下に見えるから」
普段は凛とした姿を見せる王太子の侍女が子どものように泣いている姿に、彼女は思わず笑ってしまった。
フィオナは静かに深呼吸をして、まっすぐにトウカの目を見る。
現実を直視できるようになったその目で。
「トウカさん、私はもう弱いまま逃げているだけではダメだと思うのです。私に水を掛けた彼女達は、それを気づかせてくれました」
「フィオナ様…」
「私が今まで何が見えていなかったのでしょう?何が聞こえていなかったのでしょう?これから、何を見ていくべきなのでしょう?きっと私は、いままでサボっていた分、多くを学ばねばなりません」
「そう…ですね」
「しかし、お恥ずかしながら、私には教えを請える友も師も家族もおりません」
フィオナは静かに目を閉じた。
そして、床に額を擦り付けるようにして、トウカに頭を下げた。
「トウカさん、私にご教授いただけませんか?」
「顔をあげてください…」
トウカの声にフィオナはゆっくりと顔をあげる。
その目は覚悟を決めたように、強い眼差しをしていた。
(やっぱり、似ている…)
フィオナ・モートンという娘は、自分で納得しないと意見を曲げない強情なところはあるが、本質はギルバートとよく似ている。
自分の足りないところを真正面から受け止められる人間だ。
自分の不遇で理不尽な過去を嘆き、自棄になる事もなく、自身の無知を恥じ、浅慮を恥じ、改善しようとする。
自分とは全く違う彼女が、トウカにはとても眩しく見えた。
「なぜ私なのですか…」
「トウカさんが、1番嘘をつかないからです!」
フィオナは花の蕾が綻ぶように笑った。
その笑顔にトウカは胸が締め付けられる思いだった。
(違う…。私は嘘ばかりだ。何一つ本当のことなどない)
トウカは、自嘲じみた笑みを浮かべながら「仕方がありませんね」と言って、フィオナの申し出を受け入れた。
自分にその役目がふさわしくないと思いながらも、そう言えなかった。




