41:フィオナ・モートン
母は優しく、愛情深い人だった。
私が落ち込んでいる時、何も言わなくても声をかけてくれて、私の話を聞いてくれた。
母と話をすると、心がぽかぽかと暖かくなるのを感じた。
母は料理が上手で、いつも自分で作っていた。ご飯の時間は、家が貧乏で良かったと思った。だって母の料理が食べられるから。
私は、母が大好きだった。
母のようになりたいと思っていた。
10歳上の兄は、虫も殺せないような気弱で優しい人だった。
少し頼りないけれど、いつもニコニコとしていた。
私はそんな兄が大好きだった。
いつも兄の後ろに引っ付いていた。
何をするにも兄の後を追いかけていた。
時々、母に『お兄様の邪魔をするんじゃありません』と怒られたりもした。
そして、怒られる度に、毎回兄の足元にすがって泣き喚いた。
その度に、兄は困ったように笑い『仕方がないなぁ、フィーは』と言って抱き上げて、頭を撫でてくれた。
兄の手は大きく優しい手だった。
私はその手が大好きだった。
父だけは、いつも無口で何を考えているのかわからなくて、少しだけ怖かった。
モートン男爵家はその昔、武勲を立て叙爵された家だったため、モートン男爵家の男児は年頃になると一度は軍属する決まりがある。
どうせなら騎士団に入り、騎士として活躍する兄を見たかったが、決まりなので仕方がない。
兄が軍に入隊して1年ほど経った頃の事。
ちょうど今から5年前、兄は北の国境の警備を任されることとなり、エフェニア王国北部の砦に配属された。
そこは、東西に連なる山脈を越えると、すぐアシュタール帝国がある、国防の最前線。
もし帝国との戦が始まれば、北の警備兵は真っ先に前線に駆り出される。そんな場所。
そんな所で、気弱で優しい兄がやっていけるのか不安だった。
アシュタール帝国は皇帝の圧政により、国は疲弊していると聞くが、大国であることに間違いはなく、戦となれば苦戦は免れない。
そう思うと、すごくすごく不安だった。
私も母も、毎日兄の無事を祈った。
砦に配属され3ヶ月がたった頃、兄は突然帰ってきた。
日焼けした肌は、ひ弱だった彼を逞しく成長したように見せた。
突然の帰還には驚いたが、兄は『上官が一度王都に帰るよう命じた』と言う。
どういう理由かはわからないが、一先ずは兄の無事の帰還を大いに喜んだ。
しかし、帰ってきた兄は、どういうわけか、すぐに軍部に求職届けを提出した。
そこから兄は、日に日におかしくなっていく。
何かから逃げるように、酒に溺れ、酔いがまわると母や私に暴力を振るうようになった。
優しかった兄の手は、赤くなるまで私を殴るようになった。
そして、酔いが覚めると『ごめんなさい』と謝罪を繰り返し、自室にこもるのだ。
私の日常は緩やかに壊れ始めた。
父は、家庭に寄り付かなくなった。
母は、私に構う暇もなく、壊れた兄を甲斐甲斐しく支えた。
罵倒され、殴られても、笑顔で『話をしよう』と歩み寄っていた。
毎日毎日、朝は決まった時間にサンドイッチを作って、兄の部屋に届けた。
兄が好きだったローストビーフのサンドイッチだ。
手もつけられずに置いておかれる事の方が多かったが、サンドイッチが無くなっていた日の母はとても嬉しそうにしていた。
あの頃は何も言えなかったけど、本当は母が兄に寄り添う姿は理解できなかった。
夜、傷の手当てをしながら声を殺して泣くのなら、もう構わなければ良いのにって、そう思っていた。
そんな日々が2年ほど続いたある日、兄は、部屋の片隅で膝を抱えて座りながら、呟いた。
何かに怯ているかのように声を震わせて。
『僕は罪深いのだ』と。
どういう事かと聞くと、兄はポツリポツリと話し始めた。
兄は北の砦に配属されてすぐ、特別任務を命じられたらしい。
それは、当時帝国で起こったクーデターの後始末。クーデターにより被害を受けた、帝国のとある街の復興を手助けするという任務だった。
何でも、北の守護を任された王弟殿下が、クーデターを起こした革命軍から協力を要請されたそうだ。
兄は命令に従い、エフェニア王国とアシュタール帝国の国境沿いにある、比較的大きな街を訪れた。
その街は、クーデターによる領主邸の襲撃で巻き添えを食らい、かなり荒れていたらしい。
民が領主とは無関係の裕福な家を襲い、略奪の限りを尽くす様が日常で、人の憎悪が街に溢れかえっていた、と兄は言う。
兄はその雰囲気が、とても苦痛だったそうだ。
そんな状況下で、民衆の怒りを鎮めるために行われたイベントがあったらしい。
多くの民衆を集めた行われた、そのイベントの名は【公開処刑】。
『大人たちが嬉々として、子どもの首をはねるのだ』
兄は、膝に顔を埋め、消え入りそうなか細い声で呟く。
散々いたぶられた後、泣き叫ぶ気力もなくした幼い少女が、髪を掴まれ断頭台へと引き摺られていく。
傍で、少女の親がやめてくれと泣き叫ぶ。
しかし、その言葉が聞き届けられる事はなく、民衆の『早く殺せ』という声が飛び交う中、虚ろな目をした少女の首が飛ぶ瞬間を、兄は見たのだと言う。
小さな頭を掲げ、勝利に歓喜する民。
その後も、次々と首を切り落とし、自分たちの時代が来たのだと騒ぐ民。
憎悪に包まれた街は、優しい兄の心を壊した。
兄が最初に見た小さな頭は、おそらく貴族の子どもだったのだろう。
アシュタール帝国は、貴族による貴族のための政治により、民を苦しめていたと聞く。
長年虐げられてきた民にとって、子どもだろうとそれは憎き貴族。
でも兄は言う。
『僕は見殺しにするしか出来なかった。フィオナと同じ年頃の少女を見殺しにするしか出来なかった』
そう言って静かに涙を流した。
本当にそうだろうかと私は思った。
虐げられてきた民に、それは子どもだから罪はないと主張する事など出来るわけがない。
他国の、それも貴族である兄に出来るわけがないのだ。
兄は見殺しにしたのではない。助ける術を持たなかっただけだ。
でも、そう伝えると兄は言う。
『ではあの子に罪はあったのか?』と。
私は何も言えなかった。
だって、子どもが政治に関わっていた可能性の方が低いから。親の所業も知らぬまま、突然その罪を背負わされた子どもは、訳もわからぬままに死んでいったのかもしれない。
けれど、知らなかった事自体が罪なのだと言うのなら、その子どもは罪深い。
私には、正解がわからなかった。
確かに、子どもには慈悲を与えても良かったのではないかとも思う。でも、それも私が幸せに暮らしてきたから言える事。
帝国の民と同じ暮らしをしてきたら、多分、そんな事は言えない。
結局、私は何も言えないまま沈黙するしかなかった。
この時私が、『その子どもも罪人だから、裁かれて当然だ』と言えていたら、兄の心は少し軽くなっていたのだろうか。
母なら、兄をこのどうする事も出来ない罪悪感から、解き放つことが出来たのだろうか。
その話をしてから、兄は少しづつ変わり始めた。
少しずつ、まともに食事を取るようになった。
少しずつ、殴られる日も減ってきた。
だから私は、兄は話した事であの時見た惨劇を、過去にすることが出来始めているのだと思った。
そもそも帝国での事など、兄が気にする必要はないのだ。そんな事、早く忘れて欲しかった。
そうすれば、昔の優しかった兄に戻り、私の幸せだった日常は返ってくる。
そう思っていた。
兄が帰ってきて約3年。
少し回復した兄は、正式に退役の手続きをするため父と共に軍部に赴いた。
その日の夜、兄は私に言った。
『フィーは正しく生きるんだよ』
そう言って優しく微笑み、数年ぶりに頭を撫でてくれた。
その手は昔の優しかった兄の手だった。
漸くあの頃の兄が戻ってきたのだと、私は思った。
翌朝、兄は自宅近くの林で首を吊って死んでいた。
呆気ない最期だった。
母は泣き崩れた。父は嫡男の自殺はモートン男爵家の沽券にかかわると、この事実を隠すため走り回っていた。
あの夜見た兄は幻だったのだろうか。
私はあの日、軍部で何かがあったのだと思い、父を問い詰めた。
しかし父は煩わしそうに、王弟殿下と少し話をしただけと言い、それ以上は話してくれなかった。
結局、何がきっかけで兄は死んだのかわからなかった。
兄の葬儀の後、母は私に言った。
『どうか兄を恨まないでくれ』
『真に悪い人なんていないから』
『お前も覚えているでしょう?優しかった兄を』
そう言って、兄の遺書を私に見せた。
《親愛なるフィオナへ。不甲斐ない兄でごめん。たくさん傷つけてごめん。どうか、母上を頼みます。愛しているよ、ずっと。永遠に》
泣きながら書いたのだろうか、文字は所々滲んでいた。
文字は何も変わっていない、大好きな優しい兄の文字だった。
長い間ひどい暴力を加えてきたのに、愛している兄は言った。
兄のこの言葉は嘘でないとわかるのに、私はやはり兄が理解できなかった。兄がわからなかった。
何故、帝国で見た暴力を嫌悪しているのに、母や私を殴るのかも。
少しずつ日常を取り戻していた矢先、自ら命を絶った理由も。
首を吊る前夜に、『正しく生きろ』と言ったその意味も。
どれだけ考えても、やっぱりわからなかった。
けれど、私は分からなくても、この複雑な感情と向き合って生きていかなければならない。
兄の分まで、母と共に。
そう思った。そう、強く思う事で、その時は何とか立っていられた。
なのに。
そのひと月後、母も後を追うようにして首を吊った。
もう、心が壊れそうだった。
もう、どうすれば良いかわからなかった。
だって何一つ、理解できない。
自分とは無関係の人間の死を見て壊れた兄も、私がいるのに兄を追って死んだ母も、ずっと見て見ぬ振りをする父も、何一つ理解できない。
だからそっと心に蓋をして、目を瞑り、耳を塞いだ。
次に目を開けた時、そこに広がる世界はみんなが優しい心を持って、穏やかに暮らせる夢のような世界。
それは、単純明快でわかりやすい理想的な世界。
そんな世界であれば、私も兄も母も、みんなきっと幸せだったから。
***
ロッカールームで、びしょ濡れのまま、フィオナは語る。
微笑みながら、静かに涙を流して。
トウカは彼女をきつく抱きしめた。
そして耳元で囁く。
「ごめん、ごめんなさい。この話をさせてしまってごめんなさい…」
トウカもまた、薄っすら涙を流した。
そして自分の愚かさを、罪深さを、嘆いた。
もうちょっと、スムーズに物語を進められるようになりたい…




