断念
環は皆が身を乗り出して応援する自軍ベンチに戻り、ひとり腰掛ける。
体中の震えはまだ止まらない。腕で体を抱くようにして、体を安心させようとする。少しずつ、少しずつ震えが収まっていく。
環はすかさず立ち上がり、グラウンドを見る。どこにも焦点が合わない中で、どうにかマウンド上の千鶴へとフォーカスさせることに成功した。
この炎天下において汗ひとつかいていないように見えるほど涼しげな顔。それに相対する二番バッターの京は、どうやら二球で追い込まれたらしい。
すかさず投じられる三球目。京のバットは空を切った。沸き上がる相手側のスタンド。
京は、純粋な野球の能力でいえば東高校のトップだ。それはえりかも認めるところで、打順にしても京の二番というものがひとつのキーになっている。ほぼ確実に出塁できる環を塁に置いた状態で京に回し、京の打撃能力をもってあわよくばふたりで一点を取ることも狙える打順。それは京なしではできない戦術だ。
そんな京が三球三振。
どうする――環は頭の中で、先ほど見た球筋を再現しようと試みた。しかし実際に対戦して手も足も出ず打ち取られた瞬間の絶望と恐怖が勝り、上手く思い出すことができない。
その間にえりかも倒れ、初回の攻撃が終わった。
守備に就いている間も、守備が終わって攻撃の番になっても、環はひたすら脳内でシミュレーションした。どうすれば千鶴を倒せるか。いや、倒すと考えることがもはやおこがましいのかも知れない。一矢報いる。そのためにどうすれば良いか。三塁線がダメなら一塁線にプッシュする、いや、そもそもボールに当たらないのだからまずは当てることを考えなければ。でも最初から構えるようではダメだ。あくまでセーフティ気味に始動しなければ。
あてのない思考を繰り返す。しかし、どれだけイメージしても上手くバントを決めることができない。そうこうしている内に、四回の表になった。東高校は現在ひとりも塁に出ていない。つまりこの回の先頭は環である。
できるだけいつも通りを意識して打席に向かう。軽く地ならしをして、マウンド上の相手を見据える。千鶴は相変わらず無表情で気迫のようなものは感じられないが、そこから繰り出されるボールは気迫や気合といった精神的なものを超越したなにかであることを環は既に知っている。
千鶴はセットポジションから足を上げる。それに合わせて環はバントの構えを取る。しかし、実際にバントをする気はない。直前でバットを引き、球筋を見極めるのだ。
ボールはすぐにやって来た。瞬間、快速電車が目の前を通り過ぎた時のような風圧を感じた気がして環は慌ててバットを引いた。
まるでボールが『見るな、触れるな』と警告しているかのよう。剣呑な音を立てて向かって来ては、あっという間に通り過ぎていく。環は自らの両肩が小さく揺れるのを感じた。コイツは、球筋を見ることすらさせてくれないのか。
マウンド上の千鶴はなんともないような顔をして第二球を投じる。今度は環もバントを試みたが、反射的にまたバットを引く。まるで高速道路を速度超過で走る巨大なトラックの進行方向に無理やり立たされるような感覚に陥り、両肩の震えは全身に波及した。
狭いバッターボックスの中、環は懸命に震えと戦う。しかし、抗う術はどこにもない。どこにも。
限界まで迫った震えは、やがて環を脱力させた。これまで必死に対策を検討し続けていた頭が、機能をストップさせた。
もういいや、バントしなくて。
環はなにも考えず、自然体でバットを構えた。そうして投じられる三球目。
適当に振ったら当たるかな。
ぼんやりそんなことを思ったが、千鶴のボールはスイングすることすら許してくれなかった。反応できない、したくない。
ボールはキャッチャーミットに収まり、環の第二打席は終わった。見逃し三振。
頭はもはや思考停止している。本能だけでベンチへと戻る。
「環、待ちなさい」
ふと、誰かに呼び止められた。




