深海の大星雲
それは泡沫の中に音声を一つずつ封じ込めて響かせているような、奇妙な声だった。
「Swapza────、Shi、chchch─────iru」
んー……神、氵、毎、同、戻……彼方……ぶくぶくと意味があるのかないのかわからない声。いや、わざわざ言葉を話すのだから目的自体はあるのだろう。自我が薄すぎて私にとってはかなり拾い上げるのが難しいだけで。
どうやら人のようにはっきりとした意識があるというわけではないようである。反響と残響、境界内の霊子が振動し、波のようにぶつかりあい生まれるランダムに近い精神構造。次元数で言えば3次元程度のものだろう。深海の大星雲と言うだけあって確かに反響の性質としては波や潮流、そういった形をしている。実際聞こえてくる声も音声というよりも殆ど波音に近い。響き渡る歌声も音に指向性を持たせたものではなく次元が擦り合う事で響いているものだ。ほーん……。取り敢えず踏んづけとこ。速攻で敵になりまーすなんて事は無さそうであるが念のためである。レベル40万……物質界にあっては遥かに限界突破の完凸性能という感じであるが、アスタレルの言う通り悪魔には似たようなレベル帯が確かにいるなってとこである。……私の常識が破壊されてないか?
いかんいかん。あいつらは常識でもないし普通でもない。ヨシ!
「Rishe────」
それにしても、これはもしかして私にコンタクトをとろうとしてきてるのか?
どうにもこちらに視線を向けているような感覚がある。目もわからんし頭部もわからんが。実体も無ければそれらしい光だとかそういったものもない。ここにいるな、というのはわかるのだが。トイレしたら吸い込めたりしないだろうか。やらんが。そこらにいるヒトデにウニ、ナマコに貝がらにゴミ、藻に微生物に魚に海水、泥、揺れ、泡、ここにある全てがそうである、みたいな印象もあるし。しかし、推定おじさんが遭遇した時分には多分それっぽい実体を持っていたんだろうと思うのだが。何せおじさんが視認し、その体験を後々に聞かされたマリーさんが恐らくこの精霊だろうと当たりを付けられたわけであるし。二回現れたという神話だかでも名前が残るくらいだしもっとはっきりしていたと思うのだが。これは明らかに実体化とかそういうのはしていない。変な召喚になったのだろうか。まぁ恐らく召喚されるのものは海の影が実体化したものとおっしゃっていたしな。影だけがここにあると言われれば納得しなくもない。
精霊第一人者であるマリーさんとクロウディアさんが歩み寄って私の両隣に立ち、静かに目配せしあっている。
精霊は管轄外なのか、刺激をしないようにか。最小限の人数で対応となったらしく二人以外のメンツは距離を取ってこちらを見ている。何やら私に責任が掛かってないか? カグラと人魚さんはどうした。コイツを呼び出した張本人だろうに。まぁ限界カグラは精霊が暴走したら死ぬという事で秒でホテルに押し込まれたのだろうが。
うーん。耳をそばだててみるが理解不能言語を並べ立てているだけでなんとも言えないな。言葉はわかるが意味はわからんという具合である。あまりにも自我が薄すぎる。植物だってまだ色々考えているだろう。まぁ寝ている時の私よりはまだ色々考えているだろうが。寝ている時の私は1次元どころではなく0次元である。何も考えていないとも言う。
ふーむ……。
「何やら喋ってますが喋るとこう……格が落ちると言いますか……あ、喋るんだってなりませんか?」
未知の恐怖を描いたホラー映画の続編が政府の陰謀だとか悪魔祓いだとか走るゾンビだとかが出てきた気分というか。
萎えるという程ではないが人界の理に居る存在だってなってミステリアスさが下がるというか。一部が欠けた女神像、寺院の奥に隠された御神体、あえて見せないチラリズムが醸し出す神秘性というものがあるのである。神秘のヴェールが脱がされると何だこんなもんかと想像の中で高まりに高まった期待や興奮がスン……となるのだ。実物が妄想を越えるのは難しいものであるからして。
「……………………」
文句を言っているとマリーさんが無言で私の手を握った。しっとりとしたお手々がぎゅっと握り込んでくる。反対側のクロウディアさんが同じく無言で私の腕を掴んだ。静かに、それでも見逃すものがないようにという緊張感と慎重さを漂わせるように視線は周囲の観察に集中したたままゆっくりと顔を近づけてくる。腕を引いてこちらも顔を寄せるような合図。何やら内緒話があるらしい。
「あいあい」
耳を寄せたところで僅かに震えるような、小さな囁き声が吐息のように吹き込まれた。ちょっとくすぐったい。ムヒヒ!
「……………………クーヤ、聞いて。
ここに居るのは、………………本体だわ………………」
「ほほー」
握られた手がぎゅむっと強くなった。しっとりしておられるのはもしや汗なのだろうか。汗ですらなんか薔薇から絞ったエッセンシャルな気がしてくるな。
頷いていると反対側のクロウディアさんもそっと内緒話に加わってくる。
「………………深海の大星雲、この圧、格、間違いなく三原天霊じゃ…………。
それが、今、ここに、おる…………! 物質界に、信じられん…………!」
「ふむふむ」
三原天霊…………源祖精霊、だったか?
アスタレルがそんな事を言ってたな。偉いヤツらしい。しかし流石に暗黒魔天に悪魔共を見ているとそんな気がしない。私の常識が完全に破壊されている。それにこう……既に踏んづけてしまった後である。問答無用で踏みつけるのはダメだっただろうか。もうこうなったら思ったより簡単に踏んづけられてしまったのが悪くないか?
なんか踏めそうだったからさくっと踏んづけてしまった。いやでも踏んづけたところで深海の大星雲が特に変な動きをしたわけでもないし……問題ないと見るべきだろうか。
「……クーヤ、あれは……喋っているのね?」
「…………余にはわからんが……」
人間の可聴領域を超えているらしい。まぁ音で言えばただのさざなみだしな……。ん、もしかしたら九龍やラムレトならわかるのか? 言語スキルはそんなにランクが高くないと言っていたが。
ちらっと視線を向けるとこちらの会話を聞いている、のか唇を読んだのかは謎だが理解しているらしく静かに首を振っている。無理らしい。なら生徒会長はどうなのだろう。私の考えを読んだのか、九龍が指で小さくバツを作った。ぱくぱくと口を動かしている。えーと……セイトカイチョー、話は理解できても、精神が保たない、とな。人類では脳みその処理が足りないらしい。なら無理にラーメンタイマーしてもしょうがないな。私の通訳はダメ出しされたばかりなのだが。背に腹は代えられないというやつであろう。
「なんかモニャモニャ喋ってますな。神と、なんか水っぽいワードと……遠く、とか。
人的な感情はないっぽいので選んでる言葉そのものに深い意味とかそういうのは無さそうですが」
私にコンタクトを取ってきているのはわかるが、声を掛ける際に込められるであろう感情がないから内容には意味がないのである。疑問、肯定、否定、確認、そういった込められた意志がない。なのでただ反響しているだけというか、波紋が広がってるだけというか。単に私の動きや活動に反射で反応してるだけと言ってもいいだろう。しかし思ったより自我みたいなのが無さそうだ。ウナギとかシルフィードとかを考えるとグワーッと襲いかかってくるのも考えてたのだが。
これ多分だがマリーさんが考えておられた海の影とやらが実体化したものの方がまだ意思の疎通とれたんじゃないだろうか。物質界に落ちた影ならもうちょっと物質界の影響化での実体化になっただろう。神話でも顕現した時の生物の声に反応して活動的な事をしたようであるし。
あんまりにも自我がなさすぎて何も出来そうもない。どうしたものか……ちょっと羊に聞くか。足元の地獄穴に向かって一声掛けてみる。
「アスタレルー。深海の大星雲とやらがなんか動かないぞ」
ぺたりと穴に小さな手が掛かる。にょきりと生えてきたアニマルがちらりと周囲を見回した。どうやら省エネ姿らしい。
「動かないのではなく動けないの間違いデショ。
やはり白化していたようで。古き旧世界の残響に最初はまだ敵意らしきものがあったようですが、既に勝負が付きました。土台ごと引っくり返されて新世界の理に従い与えられた天使の名も擬似霊魂ごと完全に吹き飛んで理が変わった。
あちらにはもう何も打つ手がない。本体が来たのが仇になりましたネ。依代でも持っていればまだ勝負になったのでショウが」
「む?」
「既にして死体、何をする前に初手で終わったという話デス。
戦いにすらならなかった、それだけですよ」
よくわからん事を言われて終わった。特にそれ以上言及する気はないのか、耳をパタパタさせながらマリーさんとクロウディアさんに向かってめんどくさそうに声を掛ける。
「召喚者を連れてこい。
ここに居るのはただの源祖精霊、対価は既に支払われた。
暗黒神様の代理として精々破滅しねぇ程度の身の丈にあった事を願え」




