国境の向こう
9歳になった頃。
俺は初めて、魔王領との国境近くまで行った。
もちろん遊びではない。
父が国境砦を視察することになり、何度も頼み込んだ末、同行を許された。
「絶対に砦から外へ出るな」
出発前から、父に何度も言われた。
「分かってる」
「魔物を見ても追うな」
「分かってる」
「魔族を見ても近づくな」
「それも分かってる」
父が俺を見る。
「本当に分かっているか?」
「信用なさすぎない?」
「お前は好奇心が強すぎる」
否定できない。
◇
国境砦までは馬車で2日かかった。
近づくにつれ、景色が変わっていく。
畑が減る。
村も少なくなる。
代わりに兵士の姿が増えた。
砦の周囲には高い壁が築かれ、その向こうには巨大な山脈が見える。
あの先が。
魔王領。
子供の頃から地図では何度も見ていた。
でも。
実際に目にすると印象がまるで違った。
あの山の向こうに、魔族の国がある。
そして魔王がいる。
まだ俺にとっては、昔話の怪物と大して変わらない存在だった。
◇
「魔族って、そんなに強いの?」
砦の上から山脈を眺めながら、バルトへ聞いた。
「人によります」
「平均だと?」
「平均なら、人間より強いでしょうな」
やっぱりそうなのか。
「どれくらい?」
「普通の人間と普通の魔族なら、正面から戦えば魔族が勝つ可能性の方が高いです」
「じゃあ人間は不利じゃん」
「だから我々は集団で戦うんです」
バルトが砦の兵士を指す。
盾。
弓。
魔法使い。
騎兵。
「人間には人間の戦い方があります」
なるほど。
個人の強さだけが全てではない。
その時。
砦の鐘が鳴った。
カン、カン、カン。
兵士たちが一斉に動き始める。
「何?」
俺が聞くと、バルトの表情が変わった。
「魔族です」
身体が緊張した。
「来たの?」
「偵察兵でしょう。ここにいてください」
父とバルトが壁際へ向かう。
俺も少し離れた場所から外を見る。
森の中。
3つの影が動いていた。
遠くて顔までは分からない。
それでも。
人間とは違う。
1人は頭に角がある。
もう1人は明らかに身体が大きい。
魔族。
初めて見た。
「射程に入ります」
兵士が弓を構える。
父が手を上げた。
「まだ撃つな」
「しかし」
「境界線を越えていない」
しばらく。
魔族たちはこちらを観察していた。
そして。
何もせず森へ消えていった。
俺は拍子抜けした。
「戦わないの?」
父が振り返る。
「なぜ戦う必要がある」
「魔族だから」
言ってから気づいた。
父が少し険しい顔になる。
「ルーク。覚えておけ」
「はい」
「魔族であることと、敵であることは同じではない」
意外だった。
「でも魔王領の魔族でしょ?」
「そうだ」
「じゃあ敵じゃないの?」
父は首を振った。
「国が敵対しているからといって、その国に生きる者全員を殺していいわけではない」
少し考える。
当たり前と言えば当たり前だ。
前世でも同じだった。
「こちらへ攻めてくれば戦う。民を殺せば戦う。だが、境界の向こうを歩いているだけなら斬る理由はない」
「……分かった」
父が俺の頭へ手を置く。
「剣を持つなら、誰を斬るのかくらいは自分で考えろ」
その言葉を。
俺はずっと覚えていることになる。
◇
帰る前日。
小さな騒ぎが起きた。
国境を巡回していた3人の兵士が、負傷して戻ってきた。
魔族と遭遇したらしい。
ただし。
戦ったわけではなかった。
「魔物に襲われたところを、魔族に助けられた?」
父が確認する。
「はい」
怪我をした兵士が答えた。
「角のある男でした。オーガを一撃で倒して……その後、こちらには何もせず去りました」
俺は驚いた。
バルトも少し複雑そうな顔をしている。
「追わなかったのか?」
「追える状態ではありませんでした。それに……」
兵士が言いにくそうに続ける。
「命を助けられた直後に背中から斬るのは、違うと思いました」
父は頷いた。
「それでいい」
その日の夜。
俺は窓から遠くの山を眺めた。
魔族。
怖い存在だと思っていた。
実際。
人間より強い。
敵になれば恐ろしいだろう。
でも。
全員が同じではない。
この世界は。
俺が思っていたより、ずっと複雑らしい。
そして。
山脈の遥か向こう。
俺からは見えない場所に。
魔族たちですら恐れる王がいる。
その時の俺は。
その魔王が自分の人生と深く関わることになるなんて。
まだ想像すらしていなかった。




