初めて殺した日
8歳になった春。
初めて父から、領都の外へ同行する許可が出た。
目的地は、領都から馬車で半日ほどの場所にあるラト村。
魔王領とは反対側に位置しているため、この辺境伯領の中では比較的安全な地域らしい。
「絶対に勝手な行動をしないでください」
馬に乗る俺の横で、バルトが念を押してくる。
「分かってるよ」
「以前もそう言って川へ走っていったでしょう」
「あれは珍しい魚がいたから」
「理由になっておりません」
相変わらず細かい。
今回は父の領内視察についていく形だ。
父とバルト、それから騎士団長のローデンを含めて数人の騎士が同行している。
そして馬車の窓から、見慣れた顔が覗いていた。
「ルーク!」
ミリアだ。
今日は父親であるローデンについてきたらしい。
「馬、いいなあ」
「代わる?」
「嫌。落ちそう」
「じゃあ言うなよ」
「いいなって言っただけで、乗りたいとは言ってないもん」
よく分からない理屈だった。
◇
ラト村は、想像していたよりずっと普通の場所だった。
広い畑があり、その周りに木造の家が建ち並んでいる。
家畜が歩き、子供たちが道を走り回る。
ただ、俺たちの一行が村へ入った瞬間。
村人たちは一斉に作業を止め、父へ頭を下げた。
これには未だに慣れない。
前世では、頭を下げる側だった。
営業先へ行けば頭を下げ、会社へ戻れば上司へ頭を下げる。
それが今では、俺が通るだけで知らない人間が頭を下げてくる。
正直、居心地が悪かった。
「ルーク」
隣を歩いていた父が俺を呼ぶ。
「はい」
「何を見ている?」
「村を」
「なら、もっとよく見ろ」
父が前を向く。
「道の状態、畑の作物、井戸、人の顔。領主になるなら、剣を振れるだけでは意味がない」
またその話か。
俺としては領主になるつもりはあまりない。
だが、今ここで言っても話が面倒になるだけだ。
「分かりました」
素直に答えておいた。
こういうところだけは、前世の経験がかなり役に立っている気がする。
◇
問題が起きたのは、村から領都へ戻る途中だった。
森沿いの街道を進んでいると、突然先頭の騎士が馬を止めた。
「止まれ!」
空気が変わった。
父とバルトがほぼ同時に剣へ手を伸ばす。
鳥の声が聞こえない。
俺も周囲を見回した。
嫌な感じがする。
その時、道脇の茂みが大きく揺れた。
「グルルルル……」
低い唸り声とともに姿を現したのは、灰色の狼だった。
ただし、俺が前世で知っていた狼とは大きさがまるで違う。
体長は2メートル近い。
額には黒い角が1本生えている。
「ホーンウルフだ!」
騎士の声が飛ぶ。
1匹ではなかった。
左右の森から次々に現れ、全部で6匹。
「子供を中央へ!」
ローデンが叫ぶ。
すぐに騎士たちが俺とミリアを囲む。
ミリアの表情が強張っていた。
俺だって怖い。
本では何度も見た。
魔物についての授業も受けている。
それでも本物は違った。
こちらを見つめる目。
口から覗く牙。
荒い息。
こいつらは本当に俺たちを殺そうとしている。
「来るぞ!」
ホーンウルフが一斉に走り出した。
最初の1匹をバルトが斬り伏せる。
首元から大量の血が飛んだ。
俺は反射的に目を逸らしかける。
だが、そんな余裕はなかった。
2匹目を騎士が盾で受け止め、3匹目がその横をすり抜ける。
その先にいたのはミリアだった。
「ミリア!」
叫ぶ。
ホーンウルフが地面を蹴った。
考えるより先に手を伸ばす。
魔力を集める。
狙うのは魔物そのものではない。
「吹け!」
横から強い風を叩きつけた。
空中にいたホーンウルフの身体が大きくずれ、そのまま地面へ転がる。
「やった……!」
だが、倒したわけではない。
すぐに起き上がった。
そして今度は、まっすぐ俺を見る。
目が合った。
身体が固まった。
訓練場とは違う。
失敗してもバルトが止めてくれるわけじゃない。
こいつが俺に届けば、本当に死ぬ。
「ルーク様!」
バルトの声で我に返る。
ホーンウルフが走ってきた。
逃げるには遅い。
腰の短剣を抜く。
魔力を脚へ流した。
飛びかかってくる。
横へ。
訓練通りに。
頭では分かっている。
なのに身体が重い。
それでも一歩踏み込んだ。
ホーンウルフの牙が顔のすぐ横を通り過ぎる。
俺は夢中で短剣を振った。
刃が肉へ食い込む。
腕に重い感触が伝わった。
ホーンウルフが地面へ落ちる。
まだ動いていた。
苦しそうに足をばたつかせる。
俺は動けなかった。
短剣には血がついている。
自分の手も赤い。
「ルーク!」
父の声。
その瞬間、倒れていたホーンウルフが再び頭を上げた。
俺は咄嗟に短剣を握り直した。
今度は首へ。
突き刺した。
魔物の身体が大きく跳ねた。
そして。
動かなくなった。
戦いが終わった後も、俺はその場から動けなかった。
◇
帰りの馬車。
俺は窓の外をずっと眺めていた。
さっきの感触が、まだ手に残っている。
生き物を殺した。
魔物だ。
放っておけば俺かミリアが殺されていた。
頭では理解している。
なのに気分が悪かった。
「ルーク」
向かいに座っていた父が俺を見る。
「はい」
「気分が悪いか?」
「……少し」
父はそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、俺から尋ねた。
「父上は初めて人を殺した時、怖くなかった?」
父の視線が止まった。
「人ではなく、魔物ではないのか?」
まずい。
俺は少し考えた。
「いつか戦争になったら、人とも戦うんでしょ?」
これなら不自然ではないはずだ。
父はしばらく黙ってから答えた。
「怖かった」
意外だった。
「父上でも?」
「私を何だと思っている」
「強い人」
「強くても怖いものは怖い」
父は窓の外を見る。
「慣れる必要はない」
「え?」
「殺すことを何とも思わなくなる必要などない。ただ、必要な時に動けなくなるな」
その言葉は、妙に胸に残った。
「今日、お前が動かなければミリアが怪我をしていたかもしれん」
俺は隣を見る。
ミリアは疲れたのか、母親代わりの侍女にもたれて眠っている。
無事だ。
それだけで少し救われた。
「俺が殺したから助かった?」
「少なくとも、行動したから助かった」
父が言う。
「そこは間違えるな」
俺は小さく頷いた。
この世界では。
剣を持つということは、誰かを傷つけることでもある。
魔法も同じだ。
強くなりたいと思っていた。
でも俺は。
その強さが何のためにあるのかを、初めて本当の意味で知った気がした。




