それでも日常は続く
ミリアが死んでから、3週間が経った。
不思議なことに、世界は何も変わらなかった。
朝になれば太陽が昇る。
街へ出れば商人たちが店を開き、子供たちは道を走り回っている。屋敷では使用人たちがいつも通り働き、騎士たちは訓練場で剣を振っていた。
俺だけが取り残されたような気がした。
ミリアが死んだ翌日も。
その次の日も。
誰かにとっては普通の一日だった。
それが、妙に腹立たしかった。
前世でも、人がいなくなったところで会社は動き続ける。
誰かが辞めても、翌日にはその人の仕事を誰が引き継ぐかという話になる。
当時の俺は、それを当然だと思っていた。
でも今は。
その当然が嫌だった。
「ルーク様」
声をかけられ、俺は木剣を止めた。
朝の訓練場。
まだ太陽が昇りきる前で、空気は少し冷たい。
目の前にはバルトが立っていた。
「今日はここまでにしましょう」
「まだ始めてから1時間くらいだけど」
「2時間です」
「……そんなに?」
「ええ」
言われて空を見る。
確かに、訓練を始めた時よりかなり明るくなっていた。
最近、時間の感覚がおかしい。
剣を振っている間だけは余計なことを考えずに済む。
だから気づけば、以前より長い時間訓練場にいるようになっていた。
「もう少しだけやる」
「駄目です」
「まだ動けるよ」
「動けるかどうかを聞いているのではありません」
バルトが俺の木剣を取り上げた。
力を入れて抵抗する気にもならず、そのまま渡す。
「手を見せてください」
「大丈夫だって」
「見せてください」
仕方なく両手を出す。
掌には何度も潰れた豆があり、ところどころ皮が裂けていた。
バルトが大きくため息をつく。
「これで大丈夫と言われても困りますな」
「治癒魔法で治る」
「治るから怪我をしていいわけではありません」
「分かってるよ」
そう答えたものの、バルトの表情は変わらなかった。
「本当に?」
「……たぶん」
「正直なのは結構です」
バルトが俺の隣に座る。
訓練場の端に置かれた長椅子だった。
少し迷ったが、俺も隣に座った。
「焦っていますか?」
突然聞かれた。
「何が?」
「強くなることを」
俺は答えなかった。
焦っていないと言えば嘘になる。
あの日。
何もできなかった。
俺がもっと強ければ。
父よりも。
バルトよりも。
魔王軍の使者よりも。
そして、魔王よりも強ければ。
ミリアは死ななかったかもしれない。
そんな考えが、何度も頭に浮かぶ。
現実的じゃないことくらい分かっている。
13歳の俺が魔王より強いわけがない。
それでも。
もし強かったら。
その「もし」が、頭から離れなかった。
「強くなりたい」
俺は言った。
「以前より?」
「うん」
「魔王を倒すためですか?」
少し驚いてバルトを見る。
「どうしてそう思ったの?」
「ここ数週間のルーク様を見れば、そう考えても不思議ではないでしょう」
魔王。
その名前を聞くだけで、胸の奥に重いものが溜まる。
嫌いだ。
会ったことすらない。
顔も知らない。
それでも嫌いだった。
ミリアを殺せと命令した。
ただそれだけで十分だった。
でも。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「倒せるなら倒したいとは思う。でも、今の俺じゃ何もできないし」
「それは当然です」
「はっきり言うなあ」
「13歳の子供が魔王を倒せるなら、我々はとっくに仕事を失っています」
少しだけ笑った。
バルトも笑う。
こういう会話をしたのは久しぶりだった。
「ただ」
俺は続けた。
「もう二度と、何も選べないのは嫌なんだ」
バルトが黙って聞いている。
「逃げたかったのに逃げられなかった。助けたかったのに助けられなかった。戦いたくても、戦えばもっと人が死ぬから何もできなかった」
口にしていくと、また腹が立ってきた。
「全部、俺が弱かったからじゃないかって思う」
バルトはすぐには答えなかった。
しばらくして、静かに言う。
「強さがあれば、選択肢が増える。それは間違いありません」
「だろ?」
「ですが、どれほど強くなっても全てを選べるわけではありません」
俺はバルトを見る。
「旦那様は強い」
「知ってる」
「それでも今回、ミリアを救えなかった」
痛いところを突かれた。
「ローデン団長も強い。それでも娘を守れなかった」
「……うん」
「だからといって、強くなることが無意味だと言っているわけではありません」
バルトは俺の手を見る。
「ただ、力というものは焦って手に入るものではないのです」
「じゃあどうすればいい?」
「昨日より少しだけ強くなる。それを毎日続けることです」
随分地味な答えだ。
もっと特別な方法があると言ってほしかった。
伝説の剣。
秘密の修行。
一晩で強くなる魔法。
そんな都合のいいもの。
この世界にも、たぶんない。
「地味だな」
「剣術など、ほとんど地味なものですよ」
「父上の戦い方、全然地味じゃないけど」
「あれは何十年も地味なことを続けた結果です」
なるほど。
俺は自分の手を見る。
まだ小さい。
前世の俺の手とは違う。
13歳の手。
あと何年。
何年鍛えれば。
あの魔王に届く。
そんなことを考えていると、バルトが立ち上がった。
「今日は休んでください」
「午後から魔法がある」
「それはイリス殿に任せます」
「絶対止められるじゃん」
「そのために言いました」
やられた。
◇
案の定。
午後の魔法訓練も中止になった。
イリスは俺の掌を見るなり、呆れた顔をした。
「バルト殿から話は聞きました」
「早いな」
「ルーク様が無茶をしているので止めろ、と」
「そんなに無茶してない」
「では、その手は?」
「剣を振っただけ」
「それを無茶と言います」
結局、その日は魔法の実技ではなく座学になった。
俺としては不満だったが、イリスは聞いてくれない。
「魔法は身体だけでなく、頭も使います」
机の上に数個の魔石を並べながら、イリスが言う。
「今のルーク様に必要なのは、魔力量を増やすことではありません」
「じゃあ何?」
「効率です」
イリスが小さな魔石を手に取る。
「以前から何度も話していますが、同じ魔法でも使い手によって必要な魔力量は違います」
「制御が上手い方が少なくて済む?」
「その通りです」
イリスが指を立てる。
その先に、小さな火が灯った。
「例えばこれ。私ならほとんど疲れません」
火が少し大きくなる。
「ですが、初心者が同じ大きさの炎を作ろうとすると、余計な魔力を大量に消費することがあります」
理解できる。
前世の機械だって、同じ仕事をするなら効率がいい方が消費するエネルギーは少ない。
そこまで考えて。
俺は口を閉じた。
危ない。
こういう時。
前世の知識を普通に話しそうになる。
俺は転生者であることを誰にも知られたくない。
それは、ミリアが死んだ後も変わっていなかった。
むしろ。
余計に知られたくなくなった。
人間は簡単に死ぬ。
権力を持った人間が命令すれば、普通に生きていた少女が殺される。
そんな世界で。
前世の記憶を持っているなんて知られたら。
何に利用されるか分からない。
「ルーク様?」
「ん?」
「聞いていますか?」
「聞いてる。効率でしょ」
「そうです」
誤魔化せた。
「なら、しばらく大きな魔法は禁止です」
「え?」
「小さな魔法を、できるだけ少ない魔力で使う練習をしてください」
「地味だな」
「バルト殿にも同じことを言いましたか?」
「なんで分かったの?」
「顔に書いてあります」
今日だけで。
剣も魔法も。
地味な修行になった。
でも。
バルトの言葉を思い出す。
何十年も地味なことを続けた結果。
父は強くなった。
なら。
俺もやるしかない。
◇
夕方。
久しぶりに領都へ出た。
目的地は、ミリアの墓だった。
処刑された10人の遺体は戻ってこなかった。
だから墓の中には何もない。
名前だけ。
石碑に刻まれている。
ミリア・ベルク。
13歳。
その文字を見るだけで、まだ現実感がない。
「来ていたのですか」
後ろから声がした。
振り向く。
ローデンだった。
以前より少し痩せて見える。
「うん」
「お1人で?」
「護衛は少し離れたところにいる」
辺境伯家の長男だから、完全に1人にはしてもらえない。
ローデンが隣に立つ。
2人で墓を見る。
話すことが見つからない。
先に口を開いたのは俺だった。
「ごめん」
ローデンが俺を見る。
「なぜルーク様が謝るのです?」
「守るって約束した」
「ミリアと?」
「うん」
何年も前。
庭で何気なくした約束。
本気だった。
でも守れなかった。
「俺、何もできなかった」
「私もです」
ローデンが静かに言った。
「私は父親です。それでも何もできませんでした」
俺は黙る。
「だから、ルーク様が背負う必要はありません」
「でも」
「それでは私も、あの子を守れなかったことを一生謝り続けなければなりません」
何も言えなくなった。
ローデンは石碑を見る。
「正直に言えば、今でも納得していません」
声は穏やかだった。
「なぜ娘が死ななければならなかったのか。なぜ私が従わなければならなかったのか。魔王も、王国も、あの兵士も……全部憎いと思う時があります」
初めて聞いた。
ローデンの本音。
「だったら騎士団なんて辞めたらいいのに」
俺が言う。
「そうしようとも思いました」
ローデンが小さく笑った。
「ですが、私にはまだ守らなければならない人たちがいます」
「領民?」
「ええ」
国境警備の責任者。
それが。
娘を殺されても。
まだ仕事を続ける。
前世の俺なら理解できなかったかもしれない。
会社なら辞めればいい。
嫌なら離れればいい。
そう思う。
でも。
ローデンが辞めれば、誰かが代わりに国境を守らなければならない。
魔物も。
魔族も。
待ってくれない。
「強いな、ローデンは」
俺が言うと。
ローデンは首を振った。
「弱いですよ」
「そう?」
「毎日辞めたいと思っています」
少し意外で。
笑ってしまった。
ローデンも笑った。
「でも、今日だけは続けよう。そう考えていたら3週間経ちました」
「バルトと似たようなこと言うな」
「何と?」
「毎日少しずつやれって」
「彼らしい」
少しだけ。
胸が軽くなった。
◇
その夜。
父が戻ってきた。
夕食の席。
久しぶりに家族全員が揃った。
母。
父。
俺。
弟のカイル。
カイルはもう7歳だ。
俺が剣を習い始めた頃と同じ年齢。
「兄上、明日剣を教えてください」
食事中、突然言われた。
「バルトがいるだろ」
「兄上とやりたいんです」
「俺、教えるの下手だよ」
「では勝負してください」
「もっと駄目だろ」
母が笑う。
父も少しだけ表情を緩めた。
こんな空気。
久しぶりだった。
それだけに。
俺は気づいた。
俺には。
まだ家族がいる。
ミリアはいない。
その事実は変わらない。
でも。
俺まで全部を止める必要はない。
世界が続いていることが腹立たしかった。
なのに。
今は少しだけ。
世界が続いていて良かったと思った。
◇
翌朝。
いつもの時間に訓練場へ行った。
ただし。
昨日までとは違う。
無茶に剣を振らない。
1回。
姿勢を確認する。
2回。
魔力の流れを確認する。
3回。
足の位置。
呼吸。
1つずつ。
バルトがやって来た。
「今日は随分落ち着いていますな」
「昨日より少しだけ強くなるんだろ」
バルトが笑う。
「覚えておられましたか」
「忘れないよ」
俺は剣を構えた。
ミリアを忘れるつもりはない。
だからといって。
ずっと立ち止まるつもりもない。
魔王を倒す。
まだ。
そこまで大きなことは言えない。
ただ。
次に何かを奪われそうになった時。
今度こそ。
自分で選べるように。
今日も剣を振る。
昨日より。
ほんの少しだけ。
強くなるために。




