5.運命の炎
空に穴が穿たれていた。
黒く、夜空よりも黒い異物は、穴としか言いようが無かった。
――神の怒りだ――
――いや、ただの雲だ――
――違う、巨大な生物だ――
口々に推測を口にするが、その全てが外れていた。
人々はその存在が分からず、困惑するだけであった。
――ただ一人、ムァンだけは違っていた。
「逃げて!」
叫んでいた。
彼女にはその穴の正体が分かっていた。
忘れるわけがない――
――前世において地球を食らいつくした『敵』。それが初めて観測された時と全く同じだったのだから。
「アンゲルスが来る!」
その警告は遅かった。
少女の叫びをかき消すように、黒い穴から光が放たれる。深紫の光線は大地に突き刺さると爆発した。
一つは村はずれの屋敷を。一つは、村の中央にある教会――そして、そこに集う人々を吹き飛ばす。
爆風が人々を襲う。ムァンの華奢な体は吹き飛ばされそうになるが、何かが盾になって防がれる。
「おかあ……さん」
母が、手を掴んで離さなかった。
瓦礫が飛んでくる。鋭い木片は母親の頬を傷つけるが、母は表情一つ変えずに娘を守り続けていた。
「ムァン、逃げるわよ!」
そうして、手を引いて走り出す。
背後で再び爆音が響く。爆風を背にするように走り出した。
◆◆◆
爆心地から炎があがった。禍々しい赤が夜空を照らした。
茜ではなく赤い空にクッキリと穴が浮かび上がる。そして、そこから出現したのは黒翼の化け物――人間の赤ん坊のように、肉体に対して大きな頭と細い四肢をした化け物たちがあらわれる。
その異様さは不快感とともに恐怖を呼び起こした。
――なんだ、あの化物は――
――魔法使いたちは迎撃を!――
地上から魔法使いたちの詠唱が響く。
村の自警団に所属する魔法使いたちが力の限りに魔法の炎を放つ――だが、それはアンゲルスの表皮を傷つけることも出来なかった。
反撃の光線が降り注ぐ。人々の僅かな抵抗も、無意味に散っていく。
そうなれば、出来ることは一つであった。
――分からない、逃げろ! 逃げろ!!――
人々は逃げ惑う。ムァンもまた、母とともに力の限り走る。
「逃げろ! 早く逃げるんだ!」
誰かの叫び声が聞こえた。
その声は、すぐに爆音にかき消された。
アンゲルスは世界を蹂躙する。
かつての地球と同じように、容易く破壊していく。
(……くそぉっ!!)
ムァンは記憶の中と相違ないその絶望を前にして、歯を食いしばる。
(何故、ヴェスキュリアスがないのか――)
その力があれば、このように逃げ惑っていない。
戦うことが出来る――皆を守ることが出来る――だと言うのに、今、少女の手は小さく、泣いている子供に手を伸ばすこともできない。
背後で爆発が起こる。母親と共に吹き飛ばされる。
倒れ伏し、口に土が入る。そんなムァンの手が力強く引かれる。
「しっかりするんだ、ムァン」
父の必死な顔があった。家族を守るために、必死になっている男の顔があった。
ムァンは母と、父と一緒に走る。
逃げるため――生きるため、炎の中を走り続ける。
けれど、脆弱な人の肉体ではアンゲルスの襲撃には耐えられない。
爆発起こった。瓦礫が吹き飛ばされ、父に直撃をする。
骨が折れる音がした。肉が爆ぜる音がした。
血を流しながら倒れる父の肉体は折れ曲がり、動くことも出来なかった。
「いやああああああああ!! あなたああああ!」
「泣くな……君は、まだムァンが居るだろう。早くいきなさい!」
それが、最後の言葉だった。
「う、うああああああ」
母が叫んだ。泣きながら叫んだ。
未練を振り切るように入り出す。ムァンは、その背中を追いかけることしか出来なかった。
(でも、何処に行けば)
街はどこも地獄であった。
どこに行っても死体と絶望が転がっていた。
最初は逃げていた人々も、疲れ、膝をついた。
それでも、ムァンと母は走り続ける。
そして、ようやく街の入口へと差し掛かった時。
そらから、黒い絶望が降り立った。
「危ないっ!!」
母が乱暴にムァンを押した。
次の瞬間、母はアンゲルスの黒い肉体に押しつぶされていた。
「……おかあ、さん」
呟いた言葉に、返事はない。
誰も居なかった。
ムァンの言葉に返事を返してくれる、生きた人間は存在しなかった。
炎が爆ぜる音が聞こえる。
物が崩れる音が聞こえる。
非力な少女は、炎の中でただ茫然と呟く。
「……何故」
その言葉には、怒りが込められていあ。
「何故、このような脆弱な肉体に生まれたのでしょうか」
きつく、きつく握りしめた拳には血が滲んでいた。
「拳一つ届かず、何の抵抗も出来ない肉体に……」
そして、今、逃げることも出来ない。
アンゲルスがムァンに振り返る。
黒い異形の化け物は、ゆったりと少女へと近づいてくる。
「……いやだ」
口でそう言っても、体は動かない。
ただ、目の前の絶望を前に、動けない。
(これが、彼女の感じていた恐怖……)
それが、死であると気がついた。肉体が壊されるだけではない、心そのものが死んでしまい、何もできなくなる。
――死にたくない、死にたくない――
何度も地球で聞いた言葉を思い出す。
(ああ)
ようやく、その言葉の意味が理解できた。
――死にたくない――
――諦めて、終わりたくない――
その言葉に込められた意味は、恐怖ではなく、それを押しつぶす覚悟の言葉だったのだ、と。
それを理解した時、自然と言葉が漏れていた。
「私『も』死にたくないっ!!」
足を一歩前に出す。
それが非力であろうとも、意志を乗せる。
(まだ終わらない)
たとえ小さくても、意志は宿る。
(まだ、終わらせない!)
――だからこそ、運命が応えた――
光があった。
空から銀色の光が降ってきた。
目の前にいたアンゲルスの巨体に、銀色の光が突き刺さる。
光は一瞬にして異形を蒸発させる。
黒い巨体が消え去ると、空が見えた。
遥か北の空に、銀色の星が瞬いていた――その星は、徐々に大きくなっていく。
「あれは――」
自然と、その名を呼んでいた。
「ヴェスキュリアス……」
その呼びかけに応じるように、空から銀色の巨人が舞い降りた。




