~報瀬編2~ 誕生
2087年6月30日 バイオエレクトロニクス研究所 地下2階無菌培養実験フロア クリーンルーム
小さなコンテナを持ち無菌室用の防護服に身を包んだ速水は、クリーンルーム中央に置かれたインキュベーターを覗き込んだ。その上部は透明で中の様子を確認することが出来る。
その中には薄いピンク色の培養液に浸る一人のヒトが存在した。
ここに入る前に制御室で確認したところ、すでに全ての組織が完成されていた。
体から顔に視線を移す。
「報瀬・・・」
懐かしい顔だった。しかし、少し大人びた気がした。
水瀬の残した培養プログラムには、時間の概念が存在した。ゲノムなどの情報を取得した時と体が形成される時との時間のズレを補正するものだった。つまり、インキュベーターの中の報瀬は速水の記憶の中の報瀬よりも少し成長していたのだ。
完成された報瀬の体は、わずかに動いている。しかしその動きは随意的なものではなく、自律神経による内臓の動きだった。
報瀬の体は、生きているが自ら動くことはできない。
速水は手に持っていたコンテナを置くと、報瀬のバイタル情報が表示されているモニターを見た。
全ての数字が正常値を示していた。インキュベーター内にいれば、これは当然のことだった。
「ちょっと苦しいかもしれないけど、我慢してね」
速水はそう言うと、インキュベーターのコントロールパネルのスイッチに触れた。
ポンプの作動音が響き、インキュベーター内の培養液が徐々に抜けていく。液面が報瀬の顔よりも下がったあたりで、報瀬は大きく咳き込み始めた。咳に合わせて口から培養液が噴き出す。
バイタルモニターからは異常を示すアラームが出る。酸素飽和度の急激な低下だ。
しばらく咳は続いたが、口から吹き出す培養液がなくなると同時に咳も治まった。この咳も単なる反射に過ぎない。
そして、酸素飽和度は正常に戻り、他の数値も安定した。
「さて、インキュベーターを開けるよ・・・」
速水は再びパネルに触れた。
小さな作動音とともに、インキュベーターの上部が報瀬の足元を支点とするように大きく開き始めた。
モニターからアラームが鳴る。
通常の大気に触れたことで酸素飽和度が再び低下し、それを補うように心拍と呼吸が上がった。
体の中では環境の変化に合わせ目まぐるしい反応が出ているのに、報瀬はただじっと眠っているように見えた。
やがてモニターの数値が安定し、正常値を示すようになった。
速水は持ってきたコンテナを開くと、中から細い注射器を取り出した。そして、報瀬の右耳にかかった髪をかき分けると、耳の後ろの髪のない場所に注射器の針を刺し、数回方向を変えるように液体を注入した。
それは局所麻酔だった。
当然、この報瀬には意識がない。痛みは神経を伝わるが、それを処理する脳がないので局所麻酔を使う意味は全くなかった。しかし、それでも速水がこの無駄な工程を行ったのには、報瀬へのいたわりがあったからだった。
局所麻酔が効くまでの時間を置いたあと、速水は細いメスで耳の後ろの皮膚を少し切開した。わずかに出血があった。
次にやや太めの長い針のついた注射器を持つと、針先を切開した穴に差し込んだ。力を入れて押し込む。
すぐに抵抗がなくなり、針の先は本来脳のある空間へと到達した。
「これは無接点神経接続の受信部にあたる辺縁系。オリジナルは入れられないから1番機のコクピットからの複製だよ。だから、この体に入れても癌化は心配ないからね」
速水は報瀬の体に声をかけながら、ゆっくりと注射器の中の液体を注入した。
「再構築と末梢との接続に1日くらいかかるかな。そのあとは、もう自由に動けるよ」
速水は針が刺さったまま注射器だけを外すと別の注射器に取り替え、針の中に残った液体を押し流した。
そして、ゆっくりと針を抜くと、残った小さな傷に縫合用テープを貼った。
最後に、テープを隠すように分けていた髪を戻した。
「お前が手に入れたその体は、お前にとっての最大の武器にもなる。うまく立ち振る舞い、自由に生きるんだ・・・」
横の制御室でその一部始終をモニター越しに見ていた野嶋は、呟くように報瀬に声をかけた。
そして、全ての処置が終わったことを確認すると、ほっとするように椅子の背にもたれかかり大きく背伸びをした。




