出現
和歌山県白浜町沖
東の水平線がぼんやりと明るくなる頃、小さな漁船が釣り客を乗せてポイントに向かっていた。
「ここのところマダイの大きいのが釣れてるから、今日も期待できますよ」
白髪頭の船長が釣り客に向かって言った。
「オヤジさんの言うことにハズレはないからな」
釣り客の一人がポイントに着くのが待ちきれない様子で釣竿をいじり始めた。
やがて太陽がわずかに頭を出す。
「!」
船長が、なんだ?とばかりに沖を見つめた。
「イルカだ」
船長が沖を指差すと、釣り客も一斉に目を向けた。
そこには、登る太陽を背にして何頭ものイルカが、何かから逃げるように漁船の方向に移動していた。
「何かあるのか?」
その直後、飛び上がるイルカたち後方の水面が大きく盛り上がると、巨大な黒い物体が飛び出してきた。逆光の中で赤く光るものが見えた。
「あれは、目!?」
黒い物体は、明らかに生き物だった。
するとそれは口を大きく開いた。
同時に周囲のイルカが一瞬で消える。
黒い生物は大きく水しぶきを上げ水面に落ちた。
「な、なんだ。今のは」
釣り客たちは立ち上がり、その方向を見つめた。
「こっちに来るかもしれん。逃げるぞ!」
危険を察した船長は、その場を離れるために舵を大きく切った。
「うわっ・・・」
全員が同時に叫んだ。それは絶望ともいえる声だった。
船は水面から覗くような無数の赤い目に囲まれて、行手を完全に塞がれていた。
その中の1匹が頭を上げる。そして大きく口を開いた。
その瞬間に、漁船の人たちは跡形もなく消えた。
神奈川県 国防省統合軍作戦司令室
早朝の作戦司令室は錯綜していた。
多くのスタッフが慌ただしく動き回り、情報の収集と確認を行なっていた。
「ケルベロスは海を渡れないはずだが、ケルベロスで間違いないのだな」
混乱の中、統合軍大佐篠原大輔は自ら通信オペレーターの周囲を移動しながら情報を確認していた。
「AIの画像解析でも形態は間違いなくケルベロスです」
「どこから出た? 巣穴はわからないのか」
「全く不明です」
「探査ドローンの映像来ました」
作戦室の巨大モニターに、緊急で飛ばしたドローンからの映像が映った。
海上で無数に蠢く黒い物体はまさしくケルベロスだった。しかし、それは今までの地上を飛び跳ねるイメージとはかけ離れるように、海上を滑るように泳いでいた。
これはまずいぞ・・・、篠原は直感した。
過去の戦いの中で、ケルベロスは海を渡れなかった。つまり、泳いで他の地域に行くことはできなかったのだ。しかし、今回は違う。早急に対処しないとあらゆるところにケルベロスが拡散してしまう。
「ケルベロスの向かっている場所の予測を行え。1匹も逃すな」
篠原はオペレータに指示を出すと、指令席に戻り長野の統合軍NCBM部隊本部との緊急回線を開いた。
すぐにNCBM部隊総司令笹村信幸少佐がモニターに映った。
「緊急出動の準備は出来ています」
笹村が少し緊張した表情で言った。
「NCBMの水中での戦闘は無理だ。輸送機からの狙撃と、万が一上陸するようなら早めに海岸線に回れ」
「了解しました。直ちに発進します」
笹村は敬礼をするとモニターから消えた。
「ケルベロスの予測進路出ました」
モニターに和歌山周囲の海上の地図とともにケルベロスを示すマーカーとその進路が表示された。
その多くは和歌山に上陸するコースをとっており、残りは四国の徳島に向かっていた。
「データをNCBM部隊とリアルタイムで共有」
「NCBM部隊輸送機、飛び立ちました」
「素早いな・・・」
あとは笹村に任せておけるだろうと判断した篠原は、少し席を外す、と作戦指令参謀に告げ司令室を出ると、本部長室へと向かった。
扉の前でノックし、名前を言う。
すこし遅れて返事があった。
中に入ると、大川はどこかと通信の最中だった。話の内容から相手はバイオエレクトロニクス研究所所長野嶋高雄だと思われた。
少しして通信が終わった。
「通信中に失礼しました」
篠原はデスクの前で姿勢を正すと、統合軍本部本部長大川平蔵に頭を下げた。
「いや、構わない。念のため、独立遊撃部隊にも招集を頼んだところだ」
「全員を、ですか」
「いや、あくまでも念のためだ。報瀬君もいることだし、まだ全員は必要ないだろう。うちの部隊の機動性も上がっているしな」
そこで大川は、司令室とミラーリングしているデスク横のモニターに目を移した。そこには海上のケルベロスを映すドローンからの映像があった。
「奴らは完全に消えたと思っていたが、今度は海からか」
「和歌山と徳島に上陸の可能性がありますが、すでにNCBM部隊が向かっています」
「海外を含め、今のところ他での出現はないようだが、海から何処かに回り込まれると厄介だな」
「はい。ドローンによる海での索敵を強化しています」
「政府は午前中にでも緊急事態宣言を出し、特に海岸への移動制限を行うだろう」
海水浴客で海が賑わう時季だ。そんな場所にケルベロスが現れなかったことは、不幸中の幸いだった。
「巣穴の場所はわかっているのか」
「今のところ不明です。戦闘が落ち着き次第、水中ドローンを送ります」
大川は立ち上がるとデスク後ろの大きな窓から外を見た。
「海か・・・。街中に出現してくれるよりはありがたいが、厄介なことには変わりない」
遠くに朝日に煌く海が見えていた。




