距離
バイオエレクトロニクス研究所 所長室
所長室奥の給湯室からコーヒーののったトレーを持ち出てきた速水香織は、そのまま野嶋高雄のデスクに向かおうとした。
「あ、いい。そっちに行く」
野嶋は速水を制し、デスクから立ち上がるとソファーに向かった。速水もソファーに行き、テーブルにそれぞれのコーヒーをおいた。
ソファーに座った野嶋は、手を伸ばしカップを取ると一口飲んだ。そして、カップを持ったまま話を始めた。
「成れの果て物質の件だが、予備調査が終わり正式に探査を始めることが決まったようだ」
「予備調査で何か見つかったと言うことですか?」
「ああ、それが成れの果て物質かどうかはまだわからないが、かなり小さな未知の物質らしい」
野嶋はさらに一口コーヒーを飲むと、カップをテーブルにおいた。
「そうですよね・・・。報瀬ちゃんが嘘を言うなんてことはないでしょうから」
「まぁ、見つけようとして探せば、案外すぐに辿り着くかもしれんな」
報瀬はケルベロスとの戦いの中で、未来からやってきたという女性と会話をした内容を、後日全て報告していた。
ケルベロスとは人工的に発生させた生命体である事。
未来を汚染する成れの果て物質をなくすために、ケルベロスを使って過去を変えようとした事。
そしてこれらは、ケルベロスを介したその女性との会話によって分かったという事。
最初、報告書を見た全員があまりに現実離れしたその内容に、報瀬が覚醒する段階で何か夢を見たのではないかと思った。しかし、ケルベロスの突然の出現と消失の不自然さを考えると、それを否定するだけの根拠を誰も示すことはできなかった。
逆に、もしも成れの果て物質が見つかればそれが事実だと証明できるのではないかとの考えもあり、統合軍本部では成れの果て物質の調査を始めていたのだった。
「そんなものすごい経験をしたのに今では普通の女子大生なんて、なんだかちょっと不思議ですね」
速水は、友達に混ざって楽しそうに会話をしている報瀬の姿を思い浮かべた。
「あ、そうだ。昨日のNCBMの輸送は、問題なく終了したと李依ちゃんから報告を受けています」
「そうか、よかった。さすがに滋賀までの距離だとブースターは使用したのだろうな」
「そのことなんですけど」
速水は少々戸惑った表情を野嶋に向けた。
「ブースターはしっかりと持って行ったのですが、バッテリーの状況から使われた形跡がないのです。おそらく報瀬ちゃん本人も気付いていないのではないかと」
「もしも本当にブースターを使っていないのなら、あいつはどれだけその範囲を広げているんだ・・・」
野嶋は驚きながらもその表情には嬉しさも混ざっていた。
野嶋の長年の研究成果であり、NCBMの基本システムでもある無接点神経接続理論は、脳から出される微弱な信号を有線接続なしに別の神経系に伝えるものだった。これを使用したNCBMは、今までの機械を操作するというような概念ではなく、直接自分の体を動かすような感覚に近くなり、操作とは異なるラグのない俊敏な動きができるようになった。
しかし、脳からの信号はごく微弱なもので、数十センチも届けば良好とされた。
「確かに、ラグもなしにあの距離ですから・・・」
「最初、報瀬が何キロもの距離を離れることができた時、脳細胞の再構築の副作用を疑ったが、結局わからなかった。病気のせいで報瀬は脳の細胞をかなり減らしている。しかし、再構築によってその繋がりが強化され、通常では考えられないような機能を発現させたのかもしれん。まるで、脳の拘束が取れたように・・・」
「それが新たな感覚だとしたら、それを感じ取れないわたし達にはどんなものなのか全くわからないのでしょうね」
「わからなくてもいいだろう。わたしは報瀬が少しでも普通の生活が送れればそれでいい」
「ああ、今度友達と一緒に水着を買いに行くなんて言ってましたよ」
「そうか・・・」
野嶋は顔を綻ばせると、テーブルのコーヒーに手を伸ばした。




