ウイルス
深夜 速水香織のマンション
ダウンライトの照度が落とされた薄暗い寝室。
サイドテーブルには、氷だけになったグラスがふたつ置かれている。
「抜けだしてきて大丈夫なの?」
ベッドの中で速水は、横の篠原に気遣う表情を向けた。
「ああ、司令室は息が詰まる」
篠原はそう言って軽く笑った。
わずかな照明でも目が慣れてしまえばお互いの表情は十分わかった。
「そうよね。今の状況じゃ、気も休まらないでしょうね」
「はっきり言って手詰まりだ。で、結局少年少女たちまでも呼び出すことになってしまった」
篠原は天井を見つめた。
やはり疲れているな、とその横顔を見た速水は思った。
「あのね。これまだ野嶋所長にしか話してないことなんだけど、とっておきのこと教えてあげましょうか」
速水は篠原に覆いかぶさるようにして、悪戯っぽい表情を向けた。
速水がこの表情をするときは、情報の見返りに何かを要求する。アクセサリーであったり、服であったり。前回は旅行に行った。
「今度は何が欲しい?」
「今回は腕枕でいいよ。久しぶりだし」
速水は返事を待たずに篠原の腕を引っ張ると、篠原にくっつくように体を寄せ頭をのせた。
そして、何度か体を動かし、姿勢が安定したところで話し始めた。
「これはきっとその少年少女たちの発想だと思うけど、物理的な攻撃が効かなくなったケルベロスに対抗する方法。名付けて魔法攻撃作戦」
「は?」
篠原は思わず出た声とともに横の速水を見た。
速水は澄ました顔を向けていた。
「話を最後まで聞いて」
「ああ・・・」
「つまりね、あの子たちはライフルとかの物理的な攻撃ではなくて、他の方法で倒せないかって考えたみたい。それがあの子たちの中では魔法攻撃なんだと思う。ゲームとかアニメの世界の発想・・・。じゃぁ、それをわたしたち大人の発想で考えてみるとどうなるか・・・」
上田から魔法攻撃と連絡を受けた速水は、しばらく考えたのちこれは使えるのではないかと思った。
仕組みや原理のわかっていない相手にしたら魔法のような方法。
最初は薬物による不動化を考えた。つまり、ケルベロスに鎮静なり麻酔をかけるのだ。オーバードーズで殺すことも可能かもしれない。
しかし、ケルベロスの巨体を考えると、必要な薬物の量だったり、投与方法に問題があった。
次に浮かんだのは免疫的な方法だった。
しかし、そもそも、ケルベロスは免疫を持っているのか?
そのとき、報瀬から聞いたことが思い出された。
ケルベロスは人工的に急速に発生させた生物だということ・・・。
あらゆる生物は、その進化の過程で多くの微生物に曝され幾度となくそれと戦う。そしてそれに対しての抵抗力、つまり免疫を獲得したものは生き、獲得できなかったものは死んでしまう。それは長い進化の中で何度も獲得し、種の維持のために受け継がれていくものだ。しかし、ごく短時間に発生進化し、外の世界に出たばかりのケルベロスはどうだろう。おそらく免疫を獲得するような時間はなかったはずだ。ならば、ちょっとした細菌やウイルスによって致命的なダメージを与えることが出来るのではないか。
「細菌やウイルスをケルベロス周囲で散布すれば、ケルベロスの硬さに関係なく叩けるはず」
「いや、ちょっと待ってくれ。生物兵器の使用は国際法で禁止されている」
「ケルベロスに使ってはいけない、なんてないでしょ」
「それはそうだが、細菌やウイルスをフィールドで使用するなんてことは、世論が許さないだろ。60年ほど前のウイルスによるパンデミックの記憶は消えていない。マスコミがこぞって叩いてくるぞ」
「だから、魔法攻撃なの」
速水は篠原の腕から頭を上げると、体ごと篠原に向けた。
「細菌にしろウイルスにしろ、その名称は一切出さない。別に魔法攻撃じゃなくてもいい、本当のことが分からないような作戦名にして、一部関係者のみの極秘で進めるの」
「しかし、そんなことが本当にできるのか・・・」
「やるしかないでしょ」
そう言って速水は笑顔を向けた。
「大川さんに提案できるまではわたしがやるから。まずは大浜大学の坂井教授にアポとった。明日行ってくる」
『実験はその準備が何よりも大切なの。特に誰もやったことのない実験はね・・・』
篠原は、以前に聞いた速水の言葉を思い出した。
「ホントはね、もう少し中身がしっかりしてから話そうと思っていたんだけど、またこうしてゆっくりとした時間が取れるのはいつになるかわからないから・・・」
速水は体を起こし篠原を見た。
「できるだけの手回しはするから、だから、絶対に作戦を成功させて、そして出世して。わたしの可愛い妹のためにも・・・」
速水は覆いかぶさるようにして、また悪戯っぽい笑顔を向けた。
ああ、本当のおねだりはこれだったのか・・・。
篠原はおねだりの重さを感じながら、速水を抱き寄せた。
次の日、速水は母校である神奈川県の大浜大学に向かった。
そこで獣医学部微生物学教室教授、坂井順平に会うためだった。
教授室で速水は坂井に名刺を渡し簡単な挨拶をするとすぐに本題に移った。
「最初は薬物による不動化を考えたのですが、あの巨体に必要な量とそれを打ち込むのがやはり困難ということで諦めました」
「そこで、微生物、ということですね」
坂井は速水を来客用のソファーに座るように促しながら答えた。
速水は軽くお辞儀をしソファーに座ると話を続けた。
「そこで、ヒトには無害で動物に致死的な影響を与える微生物はないかと」
「連絡を受けたあと、わたしなりにケルベロスに関して調べてみたのですが、如何せん情報が少ない。何か臓器など解剖学的な資料はないのでしょうか」
「申し訳ありません。何分にも死体すら残らない厄介な相手です。肉眼での観察でしかその特徴がわかっていないのです」
速水はソファーの横に置いていたカバンからタブレット端末を取り出すと、何度か操作したのち坂井に見えるようにテーブルにおいた。
表示されているのは、軍内では大久保レポートと呼ばれるケルベロスの生態に関する部外秘の資料だった。
坂井は端末を手にすると内容を確認し始めた。
その中で、いくつかの特徴を呟いた。
唾液。
粘液。
鼻腔。
神経。
しばらくして、内容を確認し終えた坂井は、端末をテーブルに戻すと少し考えたのち口を開いた。
「動物の範囲内で、ケルベロスに致死的な影響を与えられそうなウイルスを3つほど考えていました。一つはパルボウイルス、二つ目はジステンパーウイルス、そして狂犬病ウイルスです」
速水はテーブルの端末を手に取ると、すぐにメモをはじめた。
「この中で最も致死率の高いものは狂犬病ウイルスです。このウイルスは神経系を介して脳に到達し発症します。また、唾液から他の個体へと感染します。ケルベロスが神経を持つのであれば絶好のウイルスなのですが・・・」
ケルベロスの神経系の存在は、実際に目にしたものではなかった。しかし、報瀬の報告からその存在は十分考えられた。
「ご存知の通り、狂犬病ウイルスをフィールド上にばら撒くのは人にとっても致死的です」
速水はメモを取りながら頷いた。
「次にイヌやネコのパルボウイルスですが、確かに感染力も致死率も高いのですが、これは腸などの消化管で増殖します。もしも我々が考えるような消化器をケルベロスが持っていない場合、効果的に感染、増殖しないでしょう」
ケルベロスが何かものを食べたという報告は全くない。ましてや排泄物も見つかってはいなかった。通常の消化管があるとは思えなかった。
「消去法でいくと最後の望みはジステンパーウイルスです。これは霊長類への感染報告はありますが、人への感染はありません。このウイルスは呼吸器や神経細胞でも増殖します。また、感染した個体の鼻汁や唾液には大量のウイルスが存在し、それらの飛沫によって他の個体に感染します。ケルベロスは鼻腔を持つことからおそらく呼吸器が存在するでしょう」
「フィールドにそのウイルスを撒いた場合、動物に対する影響はどうでしょうか?」
「野生動物を含めて、イヌ科の動物に対して高い感受性があります。家庭で飼われているイヌに対してはしっかりとしたワクチン接種を行えばまず問題とはならないでしょう。しかし、全ての野生動物に注射で投与というのは困難なので・・・」
坂井はしばらく考え込んだのち。
「そうだ。経口ワクチンが可能かもしれません。まぁ、餌に入れてばら撒くしかないですが」
「ジステンパーウイルスはお持ちですか」
「ええ、あります。先日研究用に凍結保存したものです。専用の運搬庫を用意していただければ、すぐにでもお渡しできます」
速水は向かう先に光が見えたような気がした。
「すぐに手配します」
速水はお礼の言葉とともに深く頭を下げると、これは極秘なので、と念を押し早々に教授室を後にした。




