50 ファンクラブと幼馴染(上)
「あっ、そうだそうだ!」ポニーテールの女子が唐突に声を潜め、興奮を抑えきれない様子で言った。
「準決勝の時の千野くんの神プレイのシーンいくつかピックアップして、業者に頼んでクリアカードとアクリルスタンド作ってもらったの! 今朝サンプルが届いたんだけど、マジで神ビジュだった!」
「えっ、ヤバッ! 天才すぎる! 早く見せて!」周囲の女子たちから一斉に歓喜の悲鳴が上がる。
「私10個買う! そのままアクスタの共同購入開いてくれない? リンクどこ!?」
「シーッ、声大きい! コーチに聞こえるから。今夜LINEグループでスプレッドシート流すから、まずは送付先の住所入力して。週末には工場に発注かけるから……」
柏木奏はペットボトルの飲み口をくわえながら、彼女たちの圧倒的な行動力と商魂のたくましさに、心の中で密かに「いいね!」ボタンを連打した。
「でもさ……」ゴシップの話題はすぐに急展開を迎えた。ショートカットの女子がふうっとため息をつき、恨めしそうな声を出した。「ねえ、聞いた? 3年2組のあの美人の先輩、来週の月曜日に校舎の屋上で千野くんに告白するつもりらしいよ」
「はぁ!? また?」
「昔から千野くんに告白する人は絶えなかったけどさ、なんか……ここ半月くらい、異常なペースで増えてない?」
「そりゃ千野くんがネットでバズり散らかしたせいだよ!」
一人の女子がギリギリと歯ぎしりしながら恨み言を吐いた。
「もともと千野くんは、うちの学校と東京のテニス界隈だけで有名な、私たちだけの神だったのにさ。トレンド入りした途端、全国の顔ファンどもが一斉に群がってきたじゃん! マジでムカつく。机の引き出しにこっそり隠しておいた絶世の宝物を、無理やり掘り起こされて見世物にされた気分!」
「それな! 恋敵が指数関数的に増えてて、私のメンタルマジで削られてるんですけど!」
女子たちが同盟を結んだようにひとしきり文句を言い合った後。ショートカットの女子がハッと表情を引き締め、重要な作戦の号令を下すかのように言った。
「みんな、これだけ事態が深刻化してるんだから、私達『後援会』がもっとしっかり責任を果たさなきゃダメだよ! トレンドに便乗して湧いてきた厄介ファンどもを、絶対にコートに近づけさせちゃダメ。あいつらの非常識な行動のせいで、千野くんの全国大会に向けた特訓に支障をきたすなんてこと、絶対に許さない!」
「その通り! 千野くんの絶対領域は私たちが死守する!」
「あいつの練習の邪魔をする奴は、この後援会が黙ってないからね!」
ベンチでぐったりしている柏木奏は、この花も恥じらう乙女たちの義憤に駆られた「守護宣言」を聞きながら、(アイドルのファンクラブってのもなかなか大変なんだな……)と呆然と思っていた。
カサッ、カサッ。落ち葉を踏む微かな足音が近づき、奏がいる日よけテントの陰のすぐ端で止まった。
「あーあ、特等席は後援会のイカれた連中に完全に占拠されてるじゃん。隙間一つないわ」
おかっぱ頭の女子が小声で不満を漏らす。彼女の隣には、淡い色のワンピースを着たロングヘアの女子が立っていた。ロングヘアの女子はひどく落ち着かない様子で、指をソワソワと絡ませている。「やっぱり……私たち、帰った方がいいんじゃ……?」
「何言ってんの?」おかっぱ頭の女子がもどかしそうに彼女の腕を引っ張った。「このクソ暑い中、わざわざ遠くから歩いてきたのに。あんた、千野柊斗のテニスを見に来たんじゃないの?」
ロングヘアの女子は下唇を噛み締め、両手でギュッと握りしめた冷たいスポーツドリンクを見つめた。その表情には躊躇と逃げ腰の感情が入り混じっている。
「私の言う通りにしなさいって」おかっぱ頭の女子が猛烈な勢いで戦術指導を始める。「あとでコーチがホイッスル吹いて休憩に入った瞬間に、まっすぐ歩いてって、このドリンク渡しながら挨拶するの。ただそれだけでしょ、何をそんなに照れることがあるの?」
ロングヘアの女子は相変わらず何も答えず、手にしたペットボトルをさらに強く握りしめた。
「何ビビってんのよ」おかっぱ頭の女子が声を潜めながらも、変に堂々とした口調で励ました。「あんたたち、なんだかんだ言って昔からの『幼馴染』なんだからさ。いくらあの後援会の連中が幅利かせてようと、昔馴染みが挨拶するのまで止められる権利なんてないでしょ?」
日陰でだらけきっていた柏木奏の、熱でショート寸前だった脳細胞が、その「3文字」を聞いた瞬間、「ピコーン!」と強烈なアラートを鳴らした。
幼馴染!?
あの性格最悪で、脳みその中身はテニス一色で、道端を歩く犬すら「歩くのが遅い」と舌打ちして通り過ぎそうなあの暴君に、まさかの『幼馴染』という隠し恋愛フラグが存在していたとでも言うのか!?
これはゲームのボスに第二形態(フェーズ2)の隠しギミックが実装されていた以上の衝撃的設定だぞ。
奏のオタク特有の好奇心メーターが一気に振り切れた。彼は顔を覆っていた冷感タオルをのろのろと顎まで引き下げ、首を1センチだけ外側へ突き出した。ベンチの肘掛け越しに、千野柊斗のあの最悪な性格に耐え抜いてきた「勇者」の顔面を、どうにかして拝んでやろうと試みたのだ。
しかし、彼が人間工学を無視した奇妙な体勢で頭の半分を突き出した、まさにその瞬間。ロングヘアの女子が緊張のあまり、ふと顔をこちらへ向けた。
視線が、完璧に交差した。
その1秒間、空気が凍りついた。
ロングヘアの女子が「ヒッ」と息を呑む。隣のおかっぱ頭の女子も視線を追い、ベンチの深い影の中に、巨大なサングラスをかけ、全身を銀灰色のUVカットパーカーでミイラのように包み込み、まるで殺人事件の現場の死体のように捻れた体勢で横たわっている「未確認生物(UMA)」を視認した瞬間、危うくその場で垂直跳びしそうになるほど驚愕した。
「ヒャッ!」おかっぱ頭の女子は慌てて自分の口を塞ぎ、悲鳴を無理やり飲み込んだが、顔面は真っ白だ。「なんでこんなベンチに……人が寝てんの!?」
ゴシップの立ち聞きを現行犯逮捕される。もし普通の人間なら、この社会的死の瞬間に耐えきれず、恥ずかしさのあまり穴を掘ってブラジルまで逃げたいレベルだっただろう。
だが、柏木奏は普通の人間ではなかった。エネルギー消費を抑えるために顔面の毛細血管の血流すら制御できる究極の省エネ人間として、彼は常人離れした強靭なメンタルを発揮した。
柏木奏は顔色一つ変えなかった。ベンチの縁を掴んでいた手を離し、まるで三ツ星の高級フレンチレストランで食事をしているかのような、極めて優雅でゆっくりとした動作で、ベンチから少しずつ上体を起こした。
彼は青白い人差し指を一本スッと伸ばし、鼻梁からわずかにずり落ちていたサングラスを上品に元の位置へと押し戻す。そして、パニックに陥っている二人の女子に向かって、極めて礼儀正しく、コクリとわずかに会釈してみせた。「こんにちは」と言わんばかりに。
その一連の動作はあまりにも流麗で、「俺が気まずいと思わなければ、気まずいのは君たちの方だ」という圧倒的な開き直りのオーラを漂わせていた。
一連のルーティンを終えると、奏はまるで今起きた事象が世界のバグでしかないかのように再びうつむき、スマホを取り出した。指先で画面を機械的にスクロールし始め、完全なる『DND(Do Not Disturb/応答不可)モード』へと移行した。
二人の女子は完全に狐につままれたような顔をしていた。困惑した表情で顔を見合わせ、この異次元から来た「サイボーグ」を前にして、最終的に「ヤバい奴には関わらない」という最適解を暗黙の了解で導き出した。彼女たちは腕を組み合い、小走りで休憩エリアを足早に通り抜け、千野柊斗の姿が見える前方へと消えていった。




