51 ファンクラブと幼馴染 (下)
遠ざかる足音を聞きながら、柏木奏はスマホの画面から視線を上げ、二人の女子の背中を目で追った。
ほんの一瞥だったが、あのロングヘアの女子の容姿はしっかりとこの目に焼き付いていた。
色白で清楚、目元にはお淑やかで儚げな文学少女の気品が漂っている。そこに立っているだけで、温室で大切に育てられるべき白いキキョウの花のようだった。
「なるほどね……」奏はのろのろと背もたれに寄りかかり、心の中で密かに評価を下した。「暴君の幼馴染ってのは、ああいう感じか。あのお淑やかで儚げな設定は、確かに王道熱血モノの主人公の『高嶺の花』のデフォルト設定って感じだな」
彼はたまらず、コートの中央でレジスタンスバンドをつけてダッシュをこなしている黒いシルエットへと視線を投げた。
さて、あんなにプライドが高く、誰を見ても「遅い」と見下す天才少年は、この空から降ってきたような『幼馴染からの差し入れ』という王道イベントに直面して、一体どんな固有ダイアログをトリガーするのだろうか?
奏は少し思考を巡らせた。千野のあの氷点下の顔から吐き出されるセリフは、容易に想像がついた。
「いらない」
「そこ置いとけ」
「水なら持ってる」
「野菜ジュースの方がマシだ」
あああ、どの選択肢を選んでもバッドエンド直行ルートじゃないか。奏はソファからずり落ちるように、再びベンチの上でズルズルと姿勢を崩していった。
その時、奏はふと閃いた。待てよ、万が一、あのクソガキが『他人には冷酷無比だが、本命の好きな子の前では別人格になる』というギャップ萌え属性持ちだったらどうだ?
奏は眉をひそめた。可能性としてはあり得る。想像は1ミリもつかないが。
「ピィィーーッ!」
コーチの長いホイッスルと共に、永遠に続くかと思われた地獄のフィジカルトレーニングがようやく終了を告げた。
トラックには一瞬にして大量の死体が転がった。ユニフォーム姿の少年たちはゴムチップの床に無造作にぶっ倒れ、まるで陸に打ち上げられた酸欠状態の魚のように、口を大きく開けて狂ったように空気を貪っている。
奏はベンチの陰に座り、のろのろとペットボトルのキャップを開けた。スタミナを完全に搾り取られたリア充たちを見ながら、もし自分が同じメニューをやったら、間違いなく病院のベッドを事前予約することになるだろうと確信した。
「全員立て! 死んだふりすんな! 今のがウォーミングアップだ!」
色黒のコーチが容赦なく作戦ボードで金網を叩き、「ガンガンッ」と騒々しい音を鳴らした。「2分間だけ給水と息継ぎを許す! その後、全員ラケットを持ってベースラインに集合だ!」
阿鼻叫喚の嵐が巻き起こったが、コーチの命令に逆らう命知らずはいない。2分後、十数名のレギュラー陣が鉛のように重い足を引きずり、ラケットを手にしてコートに一列に並んだ。
いつものルーティンなら、フィジカルトレーニングの後は、2人1組でのベースラインでのラリーかボレーの練習になるはずだ。
しかし今日、コーチは後ろ手に組み、鋭い眼光で全体を見渡し、最後に腕を伸ばしてビシッと指差した。
「千野、お前は向こうのコートに入れ」
名指しされた少年は、ちょうどタオルで額の汗を拭っているところだった。指示を聞いた千野柊斗は一糸の躊躇もなく、タオルをベンチに無造作に投げ捨てると、黒と赤のフルカーボンラケットを掴み、大股でネットの向こう側へと歩いていった。
彼一人だけが、何もないガランとした半面のベースラインに立った。
「コーチ、今日の組み分けは?」テニス部の一人が息を切らしながら尋ねた。
「組み分けはない」コーチのよく響く声が、コート全体に轟いた。「今日は『勝ち抜きローテーション』だ。お前ら全員一列に並べ。一人ずつ順番に千野柊斗と打ち合え。一人1球のみ。ミスしたら即次の奴と交代しろ。その間、一切のインターバルは認めん!」
その言葉が発せられるや否や、コートは騒然となった。
「勝ち抜きローテ!?」
「コーチ、それは不公平すぎませんか! 俺たち十数人が交代で入るのに、千野だけ休憩なしのフル稼働なんて、いくらなんでも体力が持ちませんよ!」
「不公平だと?」コーチは冷笑し、作戦ボードの先で向こう側の孤立した黒いシルエットを指した。「全国大会のスケジュールがいかに過密か、お前らは知らないのか!? 1日2試合、下手すれば3試合なんてザラだ! いいか、千野が1球でも落とせばそこで次の奴と交代だ。もしこれしきの負荷にも耐えられないのなら、全国大会のディープゾーンに潜む怪物どもと、どうやってスタミナ勝負をするつもりだ!?」
コーチは振り返り、向かいの千野柊斗に向かって声を張り上げた。
「千野柊斗! これは特別にお前のために用意した持久力特訓でもある。この極限のスタミナ消耗状態において、一打一打のクオリティを確実に維持してみせろ! 分かったな!」
太陽が容赦なく照りつける半面のコート。
千野柊斗は片手でラケットを持ち、手の中で軽く2度回した。淡い金色の前髪が瞳の奥の感情を隠している。彼はただ冷淡に一度だけ頷き、低く短い声で発した。「……はい」
文句一つ言わず、一切の躊躇もない。それは強者のみに許された、当然の余裕だった。
「そしてお前らだ!」コーチはまだショックを受けている部員たちに向かって怒号を飛ばした。「大勢で束になって一人に挑むんだ! もし一球も打ち返せずに負けるような真似をしたら、明日のフィジカルトレーニングは倍にするぞ! さあ、始めろ!」
号令とともに、残酷なローテーション・サバイバルが正式に幕を開けた。
奏はベンチに座り、サングラスを少し下にずらした。いつもは気怠げなその黒い瞳に、今はワクワクとした興味の光が宿っている。
ガチのゲーマーである彼には、この『ボスラッシュ』のギミックの理屈が痛いほどよく分かった。
千野柊斗のスタミナゲージを強制的に上限固定させた上で、スタミナ配分など一切考慮しなくていい無限湧きの雑魚モブたちを次々とぶつけるという鬼畜仕様だ。ボス側からすれば、一度でも呼吸のペースが乱れれば、防衛ラインは一瞬にして崩壊する。
「パーン!」
一人目の部員がコートに入り、深く息を吸い込んで、力いっぱいのサーブを打ち込んだ。
柊斗は足の立ち位置を大して変えることすらしなかった。半身になり、テイクバックを取り、ボールがバウンドした瞬間、腕の筋肉を爆発的に収縮させた。
「ズバァンッ──!」
狂暴なストレートのパッシングショットが、その部員のバックハンド側の完全な死角に突き刺さった。文字通り、一撃必殺。
「次ッ!」コーチが吠える。
二人目の部員が即座に補充され、砲弾のようなボールが再びネットを越える。
「パァン!」柊斗のバックハンド・スライス。ネット際に極端に短いドロップショットを落とし、相手は飛び込むことすらできない。
「次ッ!」
「ドゴォォンッ──!」千野柊斗が跳躍し、高打点からの豪快なスマッシュ!
コート上では、破裂するような強烈な打球音が途切れることなく連続し、文字通り一息つく暇すらない。
奏はベースラインを縦横無尽に駆け回り、余裕すら感じさせる見事なリターンを連発するそのシルエットを見つめながら、思わず心の中で舌打ちをした。
十数人が入れ替わり立ち替わり挑み、コートに入る部員は全員がスタミナを一切度外視した全力のストロークを打ち込んでくる。
だが、千野柊斗は決して越えることのできない「絶望の壁」だった。
彼のフットワークは正確無比かつ超高速で、その安定感はもはや異常だ。スイングの軌道に至っては、まるで精密にプログラミングされた衛星の軌道のように完璧で、疲労によるフォームの崩れなど0.1度たりとも見受けられない。
「あいつ、人間の皮を被ったテニス専用のモビルスーツかよ……」
奏はペットボトルの口を噛みながら、心の中で感嘆の評価を下した。




