46 部活と逃げた魚(上)
千野柊斗の押し殺したような警告の声がまだ耳の奥で反響している中。
柏木奏は日よけのテントの陰に立ち、コートの中央へと歩いていく長身の背中を見つめながら、無表情のまま鼻梁のサングラスを押し上げた。
彼は心の中で鼻で笑った。(勝手にウロチョロすんなと言われて、はいそうですかと従うと思うか? 空気すら沸騰しそうなこの地獄に1秒でも長く留まるなんて、俺のHPバー(生命力)に対する重大な冒涜だぞ。これがスキップ不可の強制イベント(カットシーン)だとでも思ってんのか?)
奏は、青葉第一高校テニス部の部員たちがすでにコーチの前に2列に並び、完全に意識がそちらへ向いているのを確認した。
「よし」奏は小さく呟き、適当なカモフラージュ工作を開始した。
まずはわざとらしく腕を上げ、ゆっくりと腰をひねり、いかにも真面目にストレッチをしているかのように装う。だが、そのダボダボのUVカットパーカーの陰で、彼のスニーカーはまるで透明なキャスターでも付いているかのように、感嘆すら覚えるミリ単位の歩幅で、少しずつ、誰にも気づかれることなく、半開きになった金網のゲートへと向かってスライド移動していた。
コートの中央。
「ゴホン」日に焼けた黒い肌のコーチが後ろ手に組み、目の前の少年たちを見渡しながらよく通る声で言った。「まず、先日の選抜大会についてだが。個人戦における千野柊斗のパフォーマンスは、まさに『支配的』だったと言っていい。彼の試合の録画は後でグループLINEに共有しておくから、全員家に帰って1フレーム単位で見直すように! 彼がいかにして相手の隙を突いているか、しっかりと目に焼き付けて学べ!」
列の中から「おおっ」と感嘆の息を呑む音が漏れ、何本もの羨望の眼差しが、列の端で片手をポケットに突っ込んで立っている千野柊斗へと向けられた。
「千野柊斗」コーチは彼の方に視線を向け、少しだけ声のトーンを和らげた。「個人戦の成績は、お前自身の経歴において最も輝かしい実績だ。次戦の東京都ジュニア決勝でも、この勢いを維持してくれ。だが──」
コーチは口調を変え、表情を引き締めると、手にした作戦ボードをパンパンと叩いた。
「この先の数ヶ月には、さらに重要なミッションが控えている! インターハイ(全国高校総体)の予選がまもなく開幕するぞ! これは単なる個人戦ではない、我らが青葉第一高校の誇りを懸けた『団体戦』だ! シングルスもダブルスも、その1ポイント1ポイントが極めて重要になる!」
コーチの怒号が、広々としたコートの上空に響き渡った。「全員、今日から褌を締めてかかれ! 体調管理を徹底し、これからのポジション別特訓で少しでも気を抜いた奴がいれば、レギュラーの座はいつでも入れ替えるからな!」
部員たちは一斉に背筋をピンと伸ばし、「はいっ!」と大声で応じた。
コーチが引き続きトレーニングメニューを指示しようとした、まさにその時。
ずっと列の端で静かに立ち、うつむき加減で心ここにあらずといった様子だった柊斗が、何の前触れもなく列から歩み出たのだ。
「千野? どこへ行く?」訓示を遮られたコーチは呆気に取られ、周囲の部員たちも怪訝そうに振り返った。
千野柊斗は答えなかった。キャップのツバの影に隠されたその瞳は、コートの端の一点を恐ろしいほど正確にロックオンしていた。
あの銀灰色のUVカットパーカーを着た人物が、今まさにシームレスな動きで金網ゲートの端まで到達し、片足をドア枠の境界線の外へと踏み出そうとしているところだった。
千野柊斗の瞳の奥で、一瞬にして危険な暗い光が閃いた。
彼は一直線にコートサイドのベンチへ歩み寄ると、赤いテニスバッグのジッパーを「シャーッ」と引き開けた。無造作にラケットを一本引き抜き、同時にポケットから黄緑色のテニスボールを一つ取り出す。
ベースラインに向かうことすらなく、彼はベンチとコートの境界となる通路のど真ん中に仁王立ちした。
反転。
トスアップ。
跳躍。
その一連の動作は流れるようにスムーズで、もはや残像しか見えないほどの圧倒的なスピードだった。何の予備動作もなく、微塵の躊躇もなく。少年の右腕の筋肉が爆発的に収縮し、ラケットが凄まじい風切り音を立てて、空中のボールへと容赦なく叩き込まれた!
「ズドォォンッ──!」
まるで小型爆弾が炸裂したかのような轟音が、無防備な全員の鼓膜を容赦なく劈いた。
一方、柏木奏の片足はすでにゲートの外へと踏み出されており、心の中では自由を取り戻し、愛しのエアコンの胸へと飛び込める喜びにひっそりと打ち震えていた。
その瞬間、空気を切り裂くような、鋭い悲鳴にも似た凄まじい暴風が彼の耳元をかすめたのだ!
「ガァァーンッ──ギュルルルルッ!」
柏木奏からわずか10センチも離れていない場所。その黄緑色のテニスボールが、極めて暴力的な軌道を描いて、金網ゲートの金属製のドア枠に激しく突き刺さったのだ!
その桁外れの衝撃により、鉄扉全体がビリビリと激しく震動し、耳障りな金属の悲鳴を上げた。ボールには恐ろしいほどの殺人的なスピンがかけられており、金網の目にガッチリと食い込んだまま、超高速でギュルギュルと狂ったように摩擦を続け、かすかな焦げ臭い匂いすら漂わせている。
ボールが巻き起こした強烈な突風が、奏の被っていたUVカットパーカーのフードをそのまま乱暴に吹き飛ばした。
奏は、その場に完全に硬直した。
ボールがかすめた時に生じた微かな風圧が、まだ自分の睫毛の先に残っているのを感じる。もしこの球が、あと5センチでもズレていたら──何なんだこれは。まるで目の前で英霊に『乖離剣エア(エヌマ・エリシュ)』でもブッ放された気分だぞ。
コート全体が死のような静寂に包まれた。コーチも部員たちも、突突如として放たれたこの極限まで暴力的な一撃に度肝を抜かれ、誰一人として言葉を発することができない。
奏は、ゴクリと重い唾を飲み込んだ。
錆びついたロボットのように、首から「ギギギ」と幻聴が聞こえそうなほどゆっくりと、硬直した動きで振り返り、サングラス越しにコートの内側を見つめた。
10メートル先。
柊斗は依然としてフォロースルー(振り抜き)の姿勢を保っていた。彼はゆっくりと身体を起こし、ラケットを肩に担ぐ。淡い金色の前髪の奥、その切れ長の瞳は、すべてのチームメイトとコーチを飛び越え、絶対零度の冷酷なプレッシャーを纏って、柏木奏ただ一人を真っ直ぐにロックオンしていた。
太陽の光の下、少年は無表情のまま空いている左手を上げ、人差し指をスッと突き出した。
そして、ゲートで硬直している『脱走兵』に向かって。極めて傲慢に、そして一切の拒絶を許さない絶対的な態度で、挑発するように人差し指をクイッと曲げた。
その動作にはいかなる言葉も伴っていなかったが、そこに込められた命令は、どんな怒号よりも明確に伝わってきた。
『さっさと戻れ』




