45 干からびた昆布と逃げられない視界(下)
奏がミントの香りに満ちた腕の中にがっちりとホールドされ、脳内で脱出の確率を狂ったように弾き出していたまさにその時。数メートル離れた場所から、からかいと驚きが入り交じった声が唐突に飛んできた。
「おやぁ? 千野柊斗くん、誰とそんなにイチャついてんの? 白昼堂々人前でハグとか。普段俺らがちょっと触れただけで親の仇みたいに睨んでくるくせに、今日は随分とキャラ違くね?」
この一言の破壊力は凄まじかった。
奏の腰に回されていた逞しい腕が、目に見えて一瞬硬直した。柊斗の動きに、わずかなタイムラグが生まれたのだ。
筋金入りのゲーマーにとって、1フレームの隙があれば形勢逆転には十分すぎる。
奏はこの一瞬のチャンスを見逃さなかった。普段の運動限界を突破したような敏捷性でガクッと身を沈め、わずかに緩んだ柊斗の腕の中からツルリと見事に抜け出した。そして、まるで泥棒を警戒するかのように素早く後ろへ3歩大きく飛び退き、絶対安全なソーシャルディスタンスを強引に確保した。
自由を取り戻した奏は「ふぅっ」と熱い息を吐き出し、ようやく声の主へと視線を向けた。
スポーツウェア姿の男子数人が、ラケットを手にフェンスの入り口に立っていた。その顔には野次馬根性と好奇心が全開に張り付いている。彼らは、肌を一切見せないほど着込んで巨大なサングラスまでかけている不審な人物を上から下までジロジロと見つめた。先ほどからかっていた男子が眉を上げ、たまらず口を開く。
「てかお兄さん、このクソ暑いのにそんな完全防備で……マジで何者?」
奏はクシャクシャにされたUVカットパーカーの裾を整え、ずり落ちかけたサングラスを指で押し上げると、一切の波風も立たない淡々とした口調で事実を陳述した。
「俺? 俺は君たちのテニス部の暴君によって不当に拉致されてきた、とても可哀想な被害者だよ。もし君たちが代わりに警察に通報してくれるなら、この上なく感謝する」
部員たちは顔を見合わせた。まさかそんな斜め上の回答が返ってくるとは思わなかったらしい。
「千野柊斗ぉっ!!」
彼らがさらに突っ込もうとする前に、後ろからもう一人、やたらと騒がしい部員が割り込んできた。彼は発射された大砲のごとく両腕を大きく広げ、興奮状態のまま千野柊斗の背中を目掛けて一直線にダイブした。
「準決勝の配信見たぞ! マジでエグかった! あの大原を赤子扱いとかヤバすぎだろ! 決勝進出おめでとう! 俺にもその『優勝候補のバフ』をあやからせろーっ!」
その勢いは、千野柊斗の肩にそのまましがみつく気満々だった。
だが、その部員が目標に激突するコンマ1秒前。
千野柊斗は振り返ることすらなく、極めて無慈悲かつスマートに、左へ半歩だけスッとスライドした。流れるような美しい回避モーションだった。
「うわああっ!?」
不幸な部員は見事に空を切り、凄まじい慣性のせいで足が止まらず、たたらを踏んで前方へ数歩つんのめった末に、もう少しでゴムチップの床に顔面から見事なスライディング土下座をかますところだった。
「千野柊斗! お前冷たすぎだろ!」どうにか体勢を立て直したその部員は、不満たらたらで振り返り、人を寄せ付けない千野柊斗の強烈な低気圧オーラを睨みつけた。「俺たちチームメイトだぞ! ハグの一つくらいさせてくれたっていいじゃねえか。相変わらず愛想悪すぎ!」
柊斗は片手をハーフパンツのポケットに突っ込み、もう片方の手でラケットを持ったまま。冷ややかな目でその部員を一瞥したが、クレームに付き合う気など毛頭ないらしい。先ほどの神回避も、飛んできたテニスボールを避けたのと同じくらい、彼にとってはただの自然現象に過ぎないのだ。
「いやマジな話さ、千野」最初に口を開いた部員も近寄ってきて、好奇心で目をギラギラさせた。
「お前最近どうしちゃったの? 準決勝の小林とか大原って、しぶといことで有名な厄介な相手だぞ。それをあんなに余裕でボコボコにするとか、プレッシャーがバグりすぎだって。吐けよ、俺らに内緒でどっかの達人に秘密特訓でも受けてるだろ?」
「そうそう! それにプレイスタイルも随分変わった気がするし」
「素直にゲロれよ、じゃないと帰さねーぞ!」
熱血で騒がしい少年たちは、瞬く間にスズメの群れのようにピーチクパーチクと騒ぎ立てながら、千野柊斗を真ん中に取り囲んだ。
チームメイトたちの熱狂的な質問攻めを前にしても、千野柊斗は群衆の中心に立ち、相変わらずピクリとも動じない冷酷な表情を崩さなかった。彼はわずかにうつむくと、骨ばった長い指で白いキャップのツバを掴み、グッと下に押し下げた。
そして、その形の良い唇を冷ややかに動かし、ゆっくりと一言だけ吐き出した。
「俺が特訓をしたわけじゃない」
少年の声はどこまでも冷徹で、もはやそれが当然とでも言うような、圧倒的な傲慢さと不遜さを孕んでいた。
「あいつらが、弱すぎるだけだ」
そのあまりにも尊大でイキり散らした発言に、周囲の空気が1秒ほど静まり返った。直後、部員たちから「うわっ、またこいつのイキりが出たよ!」と非難の悲鳴が爆発した。
群衆の外側に立っていた柏木奏は、無言で手を伸ばし、巨大なサングラスの縁をスッと押し上げた。
輪の中心でチヤホヤされながら、相変わらずふんぞり返っている千野柊斗を眺めつつ。彼の専属の『場外TAS』である奏は、心の中でゆっくりと評価を下した。
(本当に、イキり散らすのが得意なクソガキだ。俺の労働力をタダ働きさせておいて、手柄を全部自分のものにしやがった!)
少年たちがギャーギャーと騒ぎ立てていた、まさにその時。
「ピィィーーッ!」
鋭いホイッスルの音が、コート上空の喧騒を切り裂いた。
日に焼けた黒い肌に、濃紺のコーチウェアを着た中年の男が大股でコートに入ってきた。手には作戦ボードが握られている。
「何をそんなにペチャクチャと盛り上がっている! 全日本ジュニアテニス選手権はもうお前たちには関係のない話だ。千野以外の連中は予選すら突破できなかっただろうが。インターハイの予選がもう目前に迫っているというのに、まさかそっちでも予選落ちするつもりか?」
コーチの厳しい視線が全員を鋭く見渡した。
「全員、走って集合!」
コーチの号令とともに、先ほどまでだらけきっていた部員たちは一瞬にしてヘラヘラした笑いを引っ込め、慌ててコートの中央へと走っていった。
千野柊斗も振り返り、柏木奏のそばを通り過ぎる際、その足取りをほんのわずかに止めた。
彼はラケットのグリップエンドで、奏の腕をツンと軽く突いた。そして、柏木奏ただ一人にしか聞こえないほど低く押し殺した声で告げた。
「日陰で待ってろ。勝手にウロチョロすんなよ」




