43 鉄板焼きとちゅ〜る
柊斗は眉をピクリと上げ、片手で奏の後ろ襟を掴むと、ジタバタと暴れる彼をいとも簡単にソファの背もたれへと押さえつけた。
「何ワケ分かんないこと言ってんだ。つべこべ言わずに、さっさと着替えてこい」
「助けてくれ! 俺の今月分の外出ゲージはマジでもうゼロなんだよ!」奏はソファの縁に死に物狂いでしがみつき、大声で抗議した。「だいたい、お前が練習に行くのに俺が何の関係があるんだよ!」
柊斗は高みから彼を見下ろし、氷のように冷たい声で言った。「20度のエアコンを一日中つけっぱなしにして、電気代がいくらかかるか知ってんのか?」
「エアコンを消して扇風機だけで耐えろって言われても、外に出て太陽に油を絞られる鉄板焼きになるよりはマシだ!」奏は決死の覚悟で顔を上げた。
柊斗は口角を歪め、最高に意地の悪い笑みを浮かべた。「エアコンに当たりたくないなら、コートの端で2時間ほど俺の球拾いでもしてもらうか」
『球拾い』という悪魔のワードを聞いた瞬間、奏の顔面からサッと血の気が引いた。彼は柊斗の手が緩んだ隙を突き、全身に油を塗ったドジョウのごとく、ツルリとソファの縁からフローリングへと滑り落ちた。
「ルル、助けてっ!」
最後の命綱としてすがりつかれたルルだが、当の本猫は先ほどから手足を投げ出して床に寝転がった姿勢をキープしていた。
ただ、一向にちゅーる(液状おやつ)を騙し取れないばかりか、頭上で騒ぎ立てる二人の人間の声を聞かされ続けたせいで、媚びを売るためにわざと丸くしていた瞳は、今や怨念に満ちた細い糸のように眇められていた。両耳はペタンと頭に張り付き(イカ耳状態)、ヒゲまで苛立たしげにピクピクと震わせ、自分を無視するこの二人を不機嫌そうに睨みつけている。
奏はルルの不機嫌な顔色など気にする余裕もなく、床に落ちていたモフモフをガバッと抱き上げた。
20度の冷気を浴び続けていたルルの分厚い黄金色の毛皮は、ひんやりとしていて触り心地が抜群だった。それはまるで、冷蔵庫から取り出したばかりの、ずっしりと重いモフモフの湯たんぽ(冷水ver.)を抱えているかのようだった。
奏はその規格外の重量を誇る「恒温水袋」を両腕に抱え込み、モフモフの盾として自分の胸の前にガッチリと構えた。
「ルルも、今の天気で外に出たら溶けちゃうと思ってるよな? 外の太陽なんかに当たったら、お前の自慢の毛皮が焦げちゃうもんな!」奏は身勝手極まりない同盟を持ちかけた。「一緒に昼寝しようぜ、あんなやつ無視してさ」
そう言いながら、親愛の情を示すように顔を近づけ、ルルのまん丸な頬に思い切りすりすりしようとした。
「ミャァァ〜〜ウ」
うんざりしたように間延びした鳴き声と共に、モフモフのオレンジ色の前足がニュッと突き出された。ピンク色の肉球が奏の頬にピタリと当てられ、一切の容赦のない力で、すり寄ってくるその顔を横へとグイッと押し返した。
千野柊斗は腕を組んで傍らに立ち、同盟相手から無惨に裏切られるこの茶番劇を見て、隠そうともしない冷笑を漏らした。
奏は人生のすべてを諦めたような顔で玄関に立っていた。
彼は再び、あの銀灰色のUVカットパーカーに身を包んで完全武装を果たしていた。ジッパーを顎の下までキッチリと引き上げ、つばの広い帽子と黒いサングラスで顔面を完璧に覆い隠している。
真っ黒なレンズの奥で、彼は目の前の相手を心の中のブラックリストに力強く書き込んだ。(このクソガキめ! 居候の客に向かって、ネット回線切断とデバイス没収をチラつかせて脅してくるとか! 千野の叔母さんが出張から帰ってきたら、絶対に告げ口ノートに書き連ねて、こいつの極悪非道な本性を暴いてやるからな)
視線の先では、千野柊斗がシューズボックスに寄りかかり、不気味な暗緑色の泡が浮いた手作りの特製野菜ジュースを手にしていた。
彼はスラリと伸びた首を仰け反らせ、喉仏を上下に動かしながら、見ただけで吐き気を催しそうなその健康飲料を、まるでキンキンに冷えたサイダーでも飲むかのように顔色一つ変えずに胃袋へと流し込んでいた。
奏はフェイスカバーの下でヒッと息を呑んだ。(あんな劇物をハッピーな飲み物みたいに摂取するなんて、やっぱりこいつ、人間じゃない)
ちょうどその時、廊下の奥から黄色い毛玉が転がるようにやって来た。
ルルは尻尾を振りながら玄関の框の縁まで小走りで近づき、前足を段差にかけ、まん丸の大きな顔を見上げると、全身の力を振り絞って、千々に乱れる甘ったるい声で鳴いた。「ミャァ〜〜ウ」
(愚かな人間よ、出かける前にとっとと戸棚のちゅーるをよこすニャ!)
しかし、奏はそれが最後の救いの手であるかのように受け取り、サングラスの奥の瞳に一瞬にして感動の涙を浮かべた。
「見ろよ! やっぱりルルは俺との別れを惜しんでくれてるんだ!」彼は鼻をすすると、その勢いで身体を反転させ、履いたばかりのスニーカーを脱いで部屋に戻ろうとした。「こんなに悲痛な声で鳴かれたら、猫一匹を家に残して出かけるなんて残酷なこと、俺にはできない……!」
だが、踵がスニーカーから抜け出すより早く、マメのできた手が彼の肩をガッチリとホールドした。
「離せっ!」奏は首根っこを掴まれた猫のようにジタバタと暴れた。「ルルが俺を名残惜しんでるのが聞こえないのか!? 俺を引き止めてるんだぞ!」
足元のルルもそれに合わせるように音調を高くし、二人の足首の周りをせわしなく回り始めた。「ミャーオ! ミャーオ!(ちゅーるをよこせ! ちゅーるをよこせ!)」
千野柊斗はまぶた一つ動かさず、左手でずっしりと重い赤いテニスバッグを肩に担ぎ上げると、右手で羽のように軽い荷物でも扱うかのように奏の肩を掴み、有無を言わさず彼をドアの外へと引きずり出した。
ルルは玄関マットの上にお座りし、普段一番チョロくて一番おやつを騙し取りやすい人間が、問答無用でドアの外へ引きずり出されていくのを目の当たりにして、まるで今生の別れかのように喉を張り裂けんばかりに悲痛な鳴き声を上げた。
先を歩いていた千野柊斗が、唐突に足を止めた。
彼は振り返り、浅い金色の前髪の奥から、その色素の薄い眼差しでフワリと足元を見下ろした。その目には、一切の感情の色彩を持たない絶対零度の冷気が宿っていた。
たったその一瞥だけで、ルルの張り裂けんばかりの鳴き声は瞬時に喉の奥で詰まり、無理やり飲み込まされた。
「お前、ダイエットしろよ」
柊斗は、お座りしたせいでフローリングにべちゃっとたるんで乗っかっている白くて巨大なお腹の肉を見つめ、あっさりとその一言だけを投げ落とした。
その言葉が落ちるや否や。ルルの肥満体型はまるでメデューサの目にでも睨まれたかのように、一瞬にしてその場で石像と化した。先ほどまで空中で焦燥気に揺れていた尻尾すら、骨抜きにされたかのようにダランと力なく垂れ下がった。
バタン。
無情にも重い玄関ドアが閉まる音と共に、玄関は死のような静寂を取り戻した。
2秒後。多大なるショックを受けたデブ猫は「ミャゥ……」と凄絶な嗚咽を漏らし、四肢を投げ出して、魂の抜けた黄金色の絨毯のごとく、ひんやりとしたフローリングの上にがっくりと突っ伏したのだった。




