42 推しの既視感(下)
「誰だよこれやったの、マジでデリカシーなさすぎだろ!」
奏はソファからガバッと勢いよく上体を起こした。エアコンの冷気を浴びてスライムのように溶けきっていた背筋が、一瞬にしてピンと伸びる。彼は虚空に向かって声を殺しながら抗議した。「プライバシーとか肖像権って言葉を知らねえのかよ! 赤の他人の頭を勝手に丸で囲むとか、デリカシーと礼儀作法はドブにでも捨ててきたのか!」
彼は憤懣やる方ない様子で、そのポストのリプライ欄をタップした。
上位のコメントはまだまともで、一様に「誰だか分からない」という声ばかりだった。
『こんな格好じゃ、実の親でも気づかんだろw』
『この猛暑でこんな完全防備、見てるこっちが熱中症になりそう』
だが、下へスクロールするにつれて、スレッドの空気がおかしな方向へ猛スピードで脱線し始めた。
『でもさ……千野くんが彼(?)を見てる姿、なんかすごく親しげじゃない?』
『それな! 私も現地にいたけど、千野くん、試合終わったあと周りの人ガン無視で、一直線にそっちの方向へ歩いてったんだよ!』
『この写真の瞬間めちゃくちゃエモい! 千野くんの肩の力が抜けてる。普段コーチに対してすらこんなにリラックスした顔見せないのに。この二人、プライベートで絶対ただならぬ関係でしょ!』
『まさか、極秘交際中の……』
「交際するわけねーだろッ!」
奏は目の前が真っ暗になり、思わず手が震えて、危うくスマホをガラスのローテーブルに叩きつけそうになった。
誰があいつと親密だって!? 写真を撮られたあの瞬間、千野柊斗は間違いなく『大人しくスタンドに座って最後まで試合を見てろ』と目で警告していただけだ。あれは一方的な威圧であって、「リラックス」だの「親密」だのといった要素は微塵もない! 推しフィルターを8倍スコープ並みの高倍率でかけているこのネット民どもは、普段一体何を燃料にして脳内補完してやがるんだ!?
「クソが……」
奏はギリギリと歯ぎしりしながら画面を睨みつけ、恨みがましく呟いた。彼は素早く画面右上のメニューアイコンをタップし、「興味がない」「このトピックの表示を減らす」、そして「プライバシーの侵害で画像を報告する」のコンボを立て続けに叩き込んだ。
この一連の操作を終えると、彼は空気が抜けた風船のように再びソファへ倒れ込んだ。傍らのクッションを引っ掴んで力一杯顔面に押し当て、暗闇の中で「ううっ」とくぐもった悲鳴を漏らす。彼の精神力(SAN値)は明らかに甚大なダメージを受けており、今日という日はもう1秒たりともこのクソみたいなインターネットの海を泳ぐ気になれなかった。
廊下から、慌てる様子のない一定のペースの足音が近づいてくる。
千野柊斗が自室から出てきた。今日の彼はいつものダークトーンから一転し、ブルーとホワイトのバイカラーが鮮やかな、薄手のスポーツウェアに着替えていた。白い半袖Tシャツが少年の広く真っ直ぐな肩のラインをくっきりと縁取り、袖口と襟元には爽やかなネイビーブルーがあしらわれている。
下には同系色のトラックパンツを合わせ、サイドに走る白いラインテープが、彼のただでさえ反則級に長い脚の比率をさらに際立たせていた。
浅い金色の前髪が額に無造作に散らばり、この爽やかで明るいカラーリングと相まって、眉間に普段潜んでいる荒々しく野性的なオーラを無理やりねじ伏せている。
今の彼には、この年齢の男子高校生特有の清潔感と眩しさが宿っていた。ただそこに立っているだけで、まるでスポーツドリンクのCMから抜け出してきた専属モデルのようで、全身から真夏の暑気を吹き飛ばすような清涼感を放っていた。
奏はソファにぐったりと寝そべったまま、クッションの端から死んだ魚のような目を覗かせた。
(あ、出たな。俺の麗しきサマーガチャ課金ムードを一方的に粉砕した諸悪の根源が)
そのうえ、このリア充イケメン特有の目に突き刺さるような眩しさは、画面越しだろうが現実だろうが、どう見てもムカついて仕方ない。奏は心の中で悪態をつき、手にしたクッションをスッと上に引き上げて視界を完全に遮断し、物理的な隔離を試みた。
ちょうどその時、ローテーブルの下からカサカサと物音がした。
ゴールデンシェーデッドのデブ猫、ルルがあくびをしながら這い出してきたのだ。ルルはまず前足をグッと前に伸ばし、お尻を高く突き上げて、これでもかというほど長い伸びをした。続いて、そのまん丸な緑色の瞳でリビングの中央に立つ千野柊斗をロックオンすると、すぐに尻尾を振りながらトコトコと駆け寄っていった。
柊斗の足元までたどり着くと、ルルは手慣れた様子でコロンと横に倒れ、モフモフのわがままボディを「ベチャッ」とフローリングに投げ出して、真っ白でフカフカなお腹を無防備に晒け出した。
さらには床の上でクネクネと二度ほど身をよじり、喉の奥から甘ったるい「ニャア」という声を絞り出す──この媚びへつらうような態度は、どう見ても『ちゅーる』を騙し取ろうという下心に満ちていた。
だが、柊斗は足取りを緩めることすらなく、その長い脚で容赦なく床に転がるその「モフモフの塊」の脇を通り過ぎ、ルルに冷酷な背中だけを残して去っていった。
見事にガン無視されたルルは、フローリングの上に呆然と転がったまま、イライラしたように尻尾で床をパタンと叩いた。
柊斗はソファの前まで直進すると、長い腕を伸ばし、ローテーブルからエアコンのリモコンを取り上げた。液晶画面の数字を一瞥し、微かに眉をひそめる。
「20度?」
「人類の生存に最も適した最適温度だ」奏は両手でクッションを死に物狂いで抱きしめ、布越しにくぐもった声で返した。その口調は、科学的真理を死守するような強い意志に満ちていた。
柊斗は鼻で冷笑し、リモコンをテーブルへ無造作に放り投げた。カチャリと乾いた音が響く。「寝たふりしてんじゃねえよ。さっさと起きて着替えろ」
ソファの上の干物は微動だにしない。
奏は目をギュッと固く閉じ、この20度という極上の快適環境の中で、すでに深いスリープモードに入っているフリをした。(聞こえない、聞こえないぞ)
1秒、2秒。
空間は静まり返り、エアコンの吹き出し口から流れる冷気の音だけが響いていた。
──その直後。
奏は、胸に抱いたクッションごと、自分の身体が凄まじい力でグンと上方へ持ち上げられるのを感じた。千野柊斗はまるで特大サイズの麻袋でも持ち上げるかのように、なんの苦労もなく、彼を柔らかいソファの沼から強引に引っこ抜いたのだ。
「イヤァァァッ──!」
1秒前まで「熟睡」していたはずの奏はカッっと目を見開き、クッションに死に物狂いでしがみつきながら、眠っている人間が出せるはずのない凄絶な断末魔を爆発させた。
彼は宙ぶらりんになった両脚をジタバタと乱暴にバタつかせ、再びソファへ根を張ろうと試みた。その表情は、まるで処刑台へ引きずり出される罪人のように苦悶に満ちている。
「出かけない! 外は37度だぞ! ドアを開けた瞬間に太陽光で蒸発しちまう! 離せ! 俺はエアコンと運命を共にするんだぁぁぁ──っ!」




