40 偽の動作(下)
柊斗は姿勢すら変えようとしなかった。モニターの放つ蛍光が、彼の長い黒睫毛の影を頬に落とす。血色のいい唇が微かに動き、木で鼻を括ったような短い二文字を吐き出した。
「パスだ」
すげなく一刀両断されたが、それでも彼はソファに深く沈み込んだまま、一歩も動こうとはしなかった。
「なら勝手にしろよ」
奏は小声でブツブツと呟き、再び画面へと意識を集中させた。コントローラーを奪い取ったり、電源ケーブルを引っこ抜いたりさえしなければ、ソファの半分くらいはいくらでも占領させてやればいい。
ゲームの環境音はどこか虚無感を漂わせており、軍馬の蹄が荒涼とした石畳を叩く音が、重々しい残響となって響き渡っていた。
10分ほど経った頃、傍らに鎮座していた「彫刻」がようやく動いた。
ずっと肘をついているのがだるくなったのだろう。柊斗は腕の力を抜き、そのまま身体をズルリと滑らせて、ソファにさらに深く寝そべるような体勢になった。彼は長い腕を伸ばし、奏の太ももの上を真っ直ぐに横切って、ローテーブルの端にあった未開封の山芋チップスの袋を正確に掠め取った。
その際、彼の広くて逞しい肩が奏の胸元をかすめていった。
元の体勢に戻り、背もたれに深く寄りかかった柊斗は、チップスを一枚つまんで口に放り込み、パリパリと小気味よい音を立てて咀嚼し始めた。
まだ手をつけていなかった自分のストックがまんまと敵の手に落ちたのを見て、奏は口角をピクつかせたが、結局文句を言う気力も湧かず、大人しく画面へと向き直った。
リビングには一時、テレビの放つ青白い光と、チップスを砕く軽快な音だけが響いていた。
さらに地下墓地を一つクリアした後、奏は凝り固まった首筋を揉みほぐした。その瞬間、彼の左肩にズンッと重い質量がのしかかった。
千野柊斗はいつの間にか空になった山芋チップスの袋をラグの上に放り投げていた。よほど疲れていたのか、その高大な身体が柔らかいクッションに沿って少しずつ傾いてきたのだ。二人の距離は極めて近かったため、彼がわずかに頭を傾けただけで、その重たい頭の半分が奏の肩に沈み込み、頬が奏の決して広くはないが温かい肩口へと自然に収まってしまった。
少年のずっしりとした重みが衣服越しに伝わり、無視できないほどの圧倒的な存在感を放っている。
どうやら本当に寝落ちしてしまったらしい。いつもは冷酷な殺気を漂わせているあの瞳は今やしっかりと閉じられ、長い睫毛が目の下に柔らかな陰影を落としている。微熱を帯びた規則的な寝息が、奏の首筋を幾度もくすぐり、皮膚にむず痒い感覚をもたらした。
「……ほんと、手のかかるやつ」
奏は溜め息をつき、相手を突き飛ばそうと空中に上げた手を少しだけためらわせ、結局そのまま下ろした。
彼はソファの反対側の端に掛かっていた使い古しのブランケットを不器用な動作で引き寄せると、片手でバサッと広げ、千野柊斗の広い背中へとふわりと掛けた。それから再びコントローラーを握り直し、カチャカチャというノイズで彼を起こしてしまわないよう、無意識のうちにボタンを叩く指先の力を緩めた。
リビングには、ゲームの待機画面が発する微弱なBGMと、柊斗の規則的な寝息だけが残された。
その時、ローテーブルの下の影から、黄色い毛玉がのっそりと姿を現した。
ルルは優雅で気位の高いキャットウォークでテーブルの反対側から歩み出た。自身の領地を巡回する旗のように尻尾をピンと高く立てて、ゆっくりとソファの脇までやって来た。
ルルはそのまん丸の大きな顔を見上げ、緑色の大きな瞳でソファに寄り添う二人をしばらくじっと見つめた。そして、後ろ足で軽く蹴り出し、クッションの上へと軽快に飛び乗った。
まず、ソファの端にだらりと垂れ下がっていた千野柊斗の指先に顔を寄せ、ヒゲをピクピクと動かして匂いを嗅いだ。それから、ザラザラした舌を伸ばして柊斗の透き通るような白い指の関節をペロリと舐める。その後、クルリと首を巡らせ、そのぽっちゃりとした前足を伸ばして、奏の太ももの上へと遠慮なく踏み込んでいったのだ。
「うっ……」
奏はうめき声を漏らし、手元の操作をぴたりと止めた。この猫の体重は決して軽くはない。四つの肉球が太ももに食い込む感覚は、まるで鉛の塊をいくつも乗せられたようだった。
ルルは奏の硬直など全く気にも留めなかった。奏の膝の上で手慣れた様子でぐるぐると2回回り、前足で柔らかいルームウェアの布地をふみふみとマッサージすると、当然の権利だと言わんばかりにドカリと腰を下ろし、その身体を巨大な黄金色のパンケーキのように丸めた。
堂々と居座っただけでなく、大あくびを一つ打つと、そのモフモフの顎を、コントローラーを握る奏の手首に直接乗せてきた。喉の奥からは、極めて規則的な「ゴロゴロゴロ……」というモーター音が鳴り始めた。
左肩には休眠モードに入ったばかりの「大型猫」が重くのしかかり、太ももの上には規格外の重さのデブ猫が鎮座している。
奏は深く息を吸い込み、人生に絶望したような瞳で目の前のテレビ画面を見つめた。今の彼は首を1ミリ動かすことすら贅沢な願いとなり、コントローラーのトリガーボタンを押すのすら、膝の上で喉を鳴らすゴールデンシェーデッドを起こさないよう、ビクビクと指を浮かせて操作しなければならない有様だ。
彼は心の中で密かに溜め息をつき、観念して手首の角度を少しだけ上に持ち上げた。極限まで制限されたその窮屈な体勢のまま、ゲームの世界を必死に前進し続けるのだった。
◇
窓の外で鳴く蝉の声は防音ガラスによって微かな羽音へと濾過されているが、今日の東京は午前中からすでに気温が37度まで跳ね上がっていた。
柏木奏はエアコンの設定温度を20度に下げ、夢を失って抜け殻だけになった軟体ウミウシのように、手足を投げ出してリビングの大きなファブリックソファにだらりと横たわっていた。口には食べかけのサワークリームオニオン味のポテトチップスをくわえ、テレビ画面が青白い光を点滅させる中、手元にあるSwitchのモニターが明るく発光している。
長く厳密な実証実験の末、柏木奏は自らの一つの「究極の夏を生き抜く方程式」を導き出していた。
『キンキンに冷えるエアコン + 表面に水滴がびっしりついた氷点下コーラ + 無限供給されるジャンクフード + 一切の対人交流を必要としないソロゲー』
この4つのエレメントさえ組み合わせれば、太陽の放射能も、汗ばむ不快感もない、完璧な避暑地を構築できるのだ。
ピロリン。
ソファの隙間に放り込まれていたスマホが、唐突に通知音を鳴らした。奏はのろのろと寝返りを打ち、片手を伸ばすと、水面から落ち葉をすくい上げるような手つきでスマホを引っ張り出し、薄目で画面を覗き込んだ。
彼が特別通知(プッシュ通知)を設定している公式アカウント、『猫耳ヒーロー・カスピアン』の最新ポストだった。
来月リリースされるコラボゲームの「夏限定スキン」の情報が公開されていた。奏がタップして画像を拡大した瞬間、半分閉じていたまぶたがバチッと限界まで見開かれた。
イラストの中で、波がキラキラと光る浅瀬に立つカスピアン。彼が身にまとっている半透明のライトブルーのセーラー服は海水で半分透け、襟元はルーズにはだけ、鎖骨にはクリスタルのような水滴が幾つも張り付いている。少年の手にはシュワシュワと泡立つラムネ瓶が握られ、トレードマークである金色のショートヘアが潮風に吹かれて無造作に乱れていた。頭頂部では真っ白な猫耳がピンと張り詰め、その瞳には夏の爽やかさと、微かな傲慢さが同居している。
顔が良すぎる。
まるでシーソルトとサイダーの香りが混ざった真夏の涼風が、顔面に直接吹き付けてきたかのようだった。
奏は口の中のチップスを噛み砕き、心の中で密かに電子マネーの残高を弾き出した。課金したいという強烈な衝動が、開けたばかりの炭酸飲料のように、胸の奥でシュワシュワと泡を立てて湧き上がってくる。
彼は大満足で画面を下にスクロールし、親指を弾いてコメント欄を高速で流し見した。ファンたちの絶賛の声と目を輝かせるスタンプで埋め尽くされ、実に平和な空気が漂っている。
──彼の視線が、まだ数個しか「いいね」がついていない最新のコメントにピタリと止まるまでは。
『私だけかな……この立ち絵の顔立ちと目つき、なんか千野柊斗くんに似てない?』
画面をスクロールしていた奏の親指が、急ブレーキをかけたようにピタッと硬直した。




