39 偽の動作(上)
家に着くなり、柏木奏は脱皮したばかりの老いたセミのように、息の詰まるUVカットパーカーをひん剥いて玄関に放り投げた。スリッパをちゃんと履く暇すら惜しんで、小走りでリビングの大きなソファへとダイブし、「カチッ」とコントローラーの電源ボタンを押し込んだ。
65インチのテレビ画面が点灯し、青白い光が一瞬にして彼の透き通るような肌を照らし出す。
今日の赤土コートで、あの瀬戸とかいうやつが手首の返しで放ったトリッキーなコースチェンジ。それはまるで小さな釣り針のように、奏の脳内にある『極めて苦痛だが無性にコントローラーを握りたくなる』初見プレイのトラウマを強引に釣り上げてしまったのだ。
『エルデンリング』のあの老いぼれボスを引きずり出してボコボコにしないことには、今夜は安眠できそうになかった。
ロードが完了し、重装備のキャラクターが霧の壁の前に立つ。奏はソファの隅であぐらをかいて丸まり、手慣れた手つきでコントローラーを握りしめた。全神経を画面に集中させ、指先がボタンの上で高速で踊り始める。
いつの間にかバスルームの水音が止んでいた。
廊下から、軽すぎず重すぎない足音が近づいてくる。シャワーを浴び終えた千野柊斗が姿を現した。ゆったりとしたグレーの半袖ルームウェアに黒のスウェットパンツに着替え、髪からはまだ水滴が滴り落ちている。濡れた浅い金色の髪をタオルで無造作に拭きながら、清涼感のあるミントのボディソープの香りを漂わせて、一直線にソファの横へとやって来た。
次の瞬間、奏の隣のクッションが大きく沈み込んだ。
柊斗がすぐ隣に腰を下ろしたのだ。少年の骨格はもともと奏より一回り大きい。一切の遠慮もなく座り込まれたせいで、ソファのスペースの大半が強引に奪い取られてしまった。彼は長い片脚をローテーブルの下へと投げ出し、もう片方の脚を立てて、奏の太もものすぐ横に我が物顔で寄せている。
柊斗は、画面の中で狂ったように武器を振り回す巨大なモンスターを一瞥し、口角を歪めた。シャワー上がりの少しかすれた声で言う。
「アンタ、毎日こんなくだらないもんに時間溶かしてんのか」
コントローラーのスティックがカチャカチャと鳴り、奏の操るキャラクターが間一髪でローリング回避を決める。
「くだらない?」
奏は画面を睨みつけたまま瞬き一つせず、細長い小指で視点を微調整しながら、早口で反撃した。「さっきの赤土コートで、この『くだらないもん』のおかげがなかったら、お前は今頃毎晩クラブで居残り特訓させられてるハメになってたんだぞ。ついでに俺まで理不尽に八つ当たりされるところだった」
画面上では、巨大なボスが高く武器を振り上げ、極めて違和感のある滞空状態に入ったまま、なかなか振り下ろしてこない。
「このボスの動き、分かるか?」奏はキャラクターを操作し、怪物の足元で忍耐強く円を描くように立ち回りながら解説する。「攻撃モーションにすでに入ってるのに、空中で不自然にコンマ数秒静止してから叩き落としてくる。これはゲーム界隈で『ディレイ攻撃』って呼ばれてて、プレイヤーの無敵フレーム(ローリング)を無駄撃ちさせるためだけに設計された悪意の塊なんだよ」
それを聞いた柊斗は、髪を拭く手をピタリと止めた。彼はタオルから手を離し、首にかけたまま上体を少し前へ傾ける。その視線が、画面から奏の高速で動く指先へと移った。
少年の重い影が、まだ散りきっていない水蒸気を纏ったまま、息苦しいほど近くまで迫ってくる。
「瀬戸くんが手首と視線で仕掛けてきたフェイントは、このボスの設計思想と全く同じだ」奏はコントローラーで重攻撃を叩き込み、ボスの態勢を崩し、一時的に身動きが取れなくなる『硬直』状態へと追い込んだ。
「あいつの上半身は、お前の本能的な先読みをバグらせるための『ダミーモーション(偽の動作)』に過ぎない。もし俺がやつの重力の軸を見張り、本命の『予備動作』を割り出してやらなかったら、お前はとっくにあのディレイ攻撃に引っかかって、足首を捻ってたところだ」
画面に眩い金色の火花が弾け、ボスのHPバーが一瞬にして底を突き、重々しい轟音と共に崩れ落ちた。
奏は「ふぅっ」と長く息を吐き出し、心地よさそうにソファの背もたれに深く寄りかかった。
膝の上に置かれていた柊斗の指がスッと引っ込む。彼は眉根を寄せ、さっきまで少し面白がっていたような顔を瞬時に曇らせると、ひどく不機嫌そうに舌打ちをした。
「誰が誰のおかげだって? あんな小細工、俺はコートに立った時点から全部見透かしてたんだよ、バーカ」
コントローラーのスティックが「パチン」と弾ける音を立て、画面内のキャラクターの足がピタリと止まる。
奏は勢いよく首を巡らせ、サラサラの黒髪を揺らして、隣に座る少年を呆れたように睨みつけた。「じゃあなんで、さっきコートで電源ケーブル引っこ抜くなんて脅し文句を使ったんだよ!? このコンセントぶっこ抜き男!」
「…………」
千野柊斗は首にかけていたタオルを乱暴に引っ剥がし、反対側の肘掛けへ無造作に投げ捨てた。彼はぷいっと顔を背け、蛍光の光を放つ画面の端へと視線を落とす。その口調はわざとらしいほど気怠げに引き伸ばされていたが、言葉の端々にどうしようもない素直のなさが滲んでいた。
「ただ、せっかく……俺が少しは『面白い』と思える暇潰しを見つけたから言っただけだ」
奏は、悪びれる様子すらないその傲慢な顔を横目で見ながら、脱力したように深々とため息をつき、クッションを引き寄せて胸に抱き込んだ。
「お前のコーチが毎日毎日、お前に向かって咆哮したくなる理由がやっと理解できたよ」奏は首を振り、再び画面へと向き直ると、ボタンを軽くタップした。「あの人に急激な同情を禁じ得ないね」
リビングに再び、コントローラーのボタンを弾くカチャカチャという音が響き始める。
奏は隣に座るクソガキを無視し、新たなマップ探索(探索フェーズ)へと意識を没入させた。だが、いくら目の前のゲーム画面に全神経を集中させようとも、すぐ隣から放たれる凄まじい存在感を伴った視线は、どうしても無視できるものではなかった。
千野柊斗はソファから離れる気など毛頭ないらしい。
彼は半身になり、肘をソファの背もたれにつき、片手で頬杖をついている。シャワー上がりの浅い金色の短髪がまだ湿った弧を描く中、薄暗いリビングにおいて、彼のその色素の薄い瞳は画面の戦闘など1ミリも見ていなかった。ただ瞬き一つせず、柏木奏の横顔をじっと凝視し続けていたのだ。
テレビ画面から放たれる光の波紋が二人の輪郭を交互に照らし出し、千野柊斗の高すぎる鼻梁と、シャープな顎のラインをくっきりと縁取っている。
そのあまりにも執拗で真っ直ぐな瞳にガン見され続け、奏は背中がムズムズとくすぐったくなるのを感じた。手元の操作が明らかに鈍り、連続でボタン入力をミスった結果、画面のキャラクターは崖っぷちで派手につまずいた。
「……お前も一緒にやるか?」
とうとう耐えきれなくなった奏は、ボタンの上で指を硬直させたまま横を向き、まるで彫刻のように傍らに鎮座しているこの年下の暴君を、なんとも言えない諦めのこもった表情で見つめ返した。




