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37 視線誘導と遅延攻撃(上)

瀬戸航平が第3球目のサーブのモーションに入る。


彼はその場に立ち、肩を規則的に揺らしながら、手首とつま先の向きを極めて不自然な角度に捻っていた。


テニス素人の柏木奏の目から見ても、瀬戸の動作は違和感だらけだった。筋肉の動きは明らかに右へ打ち込むと示唆しているのに、その重心は不気味なほど左足に沈み込んでいる。腕の振り上げは滑らかに見えるが、ラケット面がボールに触れる寸前、全身の骨格と関節が不自然な形で急激に強張った。


これこそが、テニス界において高度なテクニックとされる「視線誘導」と「フェイント」の複合技である。


だが、数万時間に及ぶ『死にゲー』のプレイ経験を持つ奏の目には、この人間工学を無視した欺瞞ぎまんに満ちたモーションが、一時的とはいえ着弾点の予測を困難にさせていた。


ボールが放たれる。千野柊斗は依然として微動だにしない。


奏の脳がフル回転する。脳内に蓄積された膨大なゲームライブラリを検索し、目の前の光景を、見覚えのあるピクセルの挙動パターンと照合していく。


(違う。この不自然な重心のタメ、最後の1フレームで攻撃方向を修正してくるような悪辣な直前での軌道変化は……)


刹那、奏の脳裏に、すべてのマゾゲーマーを絶望の淵に叩き落とした、ある忌まわしい黒い影がフラッシュバックした。


──『エルデンリング』における初心者の壁、「忌み鬼、マルギット」。


あの老いぼれが最も得意とするのは、杖を空中に振り上げたまま不自然に静止する、いわゆる「ディレイ攻撃」だ。


※アクションゲームにおいて、攻撃の振りかぶりから実際に判定が落ちてくるまでのタイミングを意図的にズラし、プレイヤーの回避ローリングタイミングをゴリゴリに狂わせる極悪な挙動のこと。


そして、強烈なホーミング(追尾)性能を持った「遅延斬り」によって、直感だけで回避を試みるすべてのプレイヤーをことごとく葬り去ってきたのだ。


マルギットを狩る時、絶対に上半身を見てはならない。武器や目線を見るのもご法度だ。なぜなら、やつの上半身の動きはすべて、プレイヤーに無駄な回避行動を誘発させるための「偽の前隙フェイント」だからだ。


唯一の攻略法メタは、足を見ること。


両足が地面を踏みしめ、骨盤が沈み込む際の『重力の軸』を見極めることだ。


コート上。瀬戸の返球が再びネットを越える。今度は上半身を右へと大きく捻り、ラケットが残像を生み出すほどの鋭いスイングを見せた。いかにも欺瞞に満ちたコースチェンジに見える。


千野柊斗の右脚の筋肉が微かに収縮し始めた。どうやら肉体の本能に従い、強引に右へ賭けるつもりのようだ。


その時、コートサイドに座る柏木奏の目つきが鋭く光った。


瀬戸航平のテニスシューズが赤土アンツーカーに沈み込む、そのソールのエッジの深さから、彼は真の『重力の軸』を視認したのだ。


(上半身はフェイントだ。こいつ、ディレイ攻撃のタメを作ってる)


広い袖口に隠された奏の右手が、スッと持ち上がる。人差し指と中指を揃え、ベンチの肘掛けの縁から、左斜め前方の角へ向かって力強くドンッと突き下ろした。


コマンド、送信。


すでに重心を右へ傾けかけていた千野柊斗だったが、周辺視野でそのモーションを捉えたのと完全に同フレームで、驚異的な体幹コアの強さを頼りに、赤土の上で身体の推進力を強引に捻じ曲げた!


彼の左足が外側に深く食い込み、派手な赤土の飛沫を上げる。一瞬の躊躇もなく、放たれた矢のごとく、何もないように見える左側の死角へと向かって暴烈に突っ込んでいった。


シュバッ──!


ボールが赤土に激突する鈍い音が響く。奏の予測通り、その球は瀬戸の上半身が暗示していた右のベースラインへは飛ばなかった。代わりに強烈なトップスピンを帯び、空中で不気味なほど急激に失速して落下し、左側のネット際へと直行したのだ。


この高度に偽装されたドロップショットは、本来なら9割以上のレシーバーが慣性によって逆方向へ釣られるほどの代物だ。


だが、その時のネット前には、すでに黒い影が悠然とそびえ立っていた。


千野柊斗は、ボールがバウンドするよりもコンマ5秒早くその位置に到達していた。彼は余裕たっぷりに重心を沈め、手にした黒と青のラケットを下から上へと伸びやかに振り抜く。ボールが弾み上がる最高到達点において、ミリ単位の狂いもなく正確に迎撃した。


ズドォォンッ!


複雑な回転など一切必要としない、圧倒的な運動エネルギーの爆発。ラケット面がボールを完全に押し潰した瞬間、凄まじい反発力によって弾き出された球は、視認することすら困難な一条のレーザーと化した。瀬戸航平のバックハンド側のサイドラインすれすれを鋭くえぐり取り、赤土の境界線に重く突き刺さって、細かな土煙を空中に舞い上がらせた。


コートは死の静寂に包まれた。


瀬戸航平は打球直後の右へ傾いた体勢のまま硬直しており、遠くへ転がっていくボールを振り返る暇すら与えられなかった。


「2-1(ツー・ワン)」


千野柊斗は身体を起こし、ラケット面で靴底をコンコンと叩き、スパイクにこびりついた赤土を払い落とす。彼は瀬戸を見ることも、コートサイドで呆然とするコーチを見ることもなく、ただ眉を跳ね上げてベンチの方向へと視線を送った。


コーチの、ホイッスルを握る指先が微かに震えていた。


プロの目から見ても、今の千野の切り返しは常軌を逸している。相手がラケットを振った瞬間、千野の重心は明らかに右へ傾いていた。それなのに、球がラケットから離れたまさにその刹那、何の前触れもなくフルスピードで左へと飛び出したのだ──それはまるで、空中に描かれた弾道の軌跡ガイドラインをあらかじめ視ていたかのような動きだった。


「偶然か……」岩本は奥歯を噛み締め、低い声で独り言ちた。


第4球目が始まる。


重度のゲーマーの負けず嫌いな本性が一度火を噴けば、そう簡単には収まらない。


ベンチに座る柏木奏は片手で頬杖をつき、瞬き一つせずに瀬戸航平のつま先を凝視していた。無数のハードコアアクションゲームを完全攻略し、何百という高難易度ボスの行動ツリー(パターン)を脳内に丸暗記してきたこの廃人ゲーマーの目にかかれば、「手ではなく足を見る」という根本ロジックさえ掴んでしまえば、瀬戸がテニス界で誇りとするフェイントの数々など、バグだらけのポンコツモーションに過ぎない。


正直に言おう。『エルデンリング』で狂ったようにディレイ攻撃を連発してくるあのマルギットに対し、奏はとうの昔に数十種類にも及ぶノーダメージ・タイムアタック(RTA)の攻略法を開拓し尽くしている。


極まるところ、やつの足元を見る必要すらなく、風切り音と振りかぶりの効果音(SE)を聞いただけで完璧にパリィ(弾き)を決められる次元にまで到達しているのだ。


それに比べれば、目の前で視線誘導を駆使して重心を騙そうとしているこの「偽マルギット」なアスリートの動きなど、攻撃の前隙モーションが長すぎる。


神経反射を使ってタイミングを予想する必要すらなく、赤土の上で絶えず重心を再調整しているそのテニスシューズを見ているだけで、このギミックの最適解は手に取るように導き出せるのだ。


(肩を左に揺さぶっているが、右足裏の内側がより深く赤土に食い込んでいる)


(またフェイントだ。本命の攻撃判定は右側)


奏は革張りの肘掛けに乗せた右手の人差し指を軽く弾き、右へと小さく払った。


コート上では、極めて正確なコマンドを受信したガチ勢のカンストアカウントのごとく、千野柊斗が瀬戸のインパクトと同時に足元の赤土を爆発させた。その肉体はすでに残像を引き連れ、右側のベースラインへと一寸の狂いもなく立ちはだかっていた。

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