36 テストプレイ(下)
千野柊斗はラックからフルカーボンの黒と青のラケットを1本引き抜くと、手の中で軽く重さを確かめた。そして身を翻し、長い脚を踏み出して柏木奏の目の前へと一直線に歩み寄った。
今日はキャップを被っていない。ツバの陰影が消え、先ほどの薄汗でほんのりと湿った淡い金色の前髪が、幾筋か乱れて額に張り付いている。
室内の微かな光がその髪に落ち、上質な蜂蜜のような半透明の艶を滲ませていた。帽子の影がなくなったことで、青さを残しながらも冷徹で不敵なその端正な顔立ちが光の中に容赦なく曝け出され、いっそ眩しいほどだった。
柊斗は片手でグリップを握ったまま、わずかに上体を屈め、その瞳で奏を真っ直ぐに射抜いた。
「アンタの仕事の時間だ」
奏はギョッと目を丸くし、身体を後ろへすくませた。「またかよ!? 嫌だ嫌だ! だいたいこの新ボスのデータパックなんて、俺は1ミリも持ってないんだぞ!」
柊斗はラケットを握る手にぐっと力を込め、感情の起伏を全く感じさせない平坦なトーンで言った。「さっき中でコーチが言ってたよ。もし俺がこの試合に負けたら、明日から毎晩、夜の10時までクラブに残って居残り特訓しろってな」
彼は少し首を傾げ、奏を視線で雁字搦めにしたまま、地を這うような低い声で続けた。
「もし毎日そんな時間まで特訓させられたら、俺は睡眠不足のせいで、朝出かける前に機嫌が最悪になるかもしれない。メンタルのバランスを保つために、たぶん、家のテレビの電源ケーブルとモニターの映像ケーブルを全部引っこ抜いて、テニスバッグに突っ込んで家を出ることになる。俺が夜の10時に帰宅するまで、アンタは真っ暗な画面を見つめて人生の意義でも考えるしかなくなるな」
「…………」
奏はギリッと奥歯を噛み締めた。
こいつ、よりによってそんなもんを人質に取りやがった。
柊斗は奏のその苦虫を噛み潰したような顔を見て満足そうに身体を起こすと、ラケットを手のひらでクルリと一回転させ、ベースラインへと大股で歩いていった。
赤土のコート上で身体をほぐし、ウォーミングアップのスイングを始めた黒い背中を睨みつけながら、奏は憎たらしさに歯をギリギリと鳴らし、ポテトチップスを一枚、乱暴に口にねじ込んだ。
あのクソガキ、絶対に味を占めやがった!
オープンワールドのアクションゲームで、ステータスがカンストしているガチ勢アカウントのくせに、ボスのギミックを正確に先読みしてくれる『補助プラグイン』を偶然見つけた途端、開き直って思考を放棄し、意地でもシステムのガイドに従って戦おうとするようなアレだ。
自分は一切頭を使わず、コア操作の処理にかかる負担をすべてサポーターに丸投げし、ついでに見物しながら味方をいじめる快感まで享受している。
「ほんと、性格悪すぎだろ……」
奏は憤懣やる方ない様子でブツブツと文句を垂れながらも、嫌々ながらネットの向こうの瀬戸航平へと視線をロックオンした。
「フルセットやる必要はない。10球決勝だ」岩本弦一郎は傍らのカートからテニスボールを数個鷲掴みにし、サービスラインに立つ瀬戸航平へと投げ渡すと、不機嫌そうに顔を曇らせてコートサイドへと退いた。「先に10ポイント先取した方の勝ちだ。瀬戸、お前からサーブを打て」
「はい! コーチ!」
瀬戸航平が大声で応じる。彼はボールを床に数回力強く弾ませ、深呼吸をして身体をいっぱいにしならせると、ボールを高くトスアップした。
パァァン!
小気味よい打球音と共に、ボールは空中でやや不気味な弧を描いた。球速は決して速くなかったが、赤土にバウンドした瞬間、強烈なスライス回転によってボールは前方には弾まず、地面に張り付くようにして右側へと大きくスライドしていった。
しかしベースラインの中央では、千野柊斗が微動だにせず立っていた。彼はラケットを握る手を持ち上げることすらなく、片手でラケットを提げたまま、両足が赤土に根を張ったように突っ立ち、ボールが自分の2メートルも右側をすり抜けてアウトになるのをただ見送った。
「1-0(ワン・ゼロ)! 瀬戸!」岩本コーチの顔色は、豪雨の前の曇天のように淀みきっている。
続いて2球目。瀬戸航平の身体は明らかに左側へと傾き、両目は千野柊斗の左側の死角を執拗に睨みつけ、極めて大きなテイクバックを取った。
(左に来る)──場外にいる経験者なら、誰しもがそう結論づけるフォームだ。
だが、ボールがラケット面に接触するその1マイクロ秒の瞬間、瀬戸の手首が極めて素早く反転した。強烈なストロークを放つと見せかけたその動作は、一瞬にして柔らかいブロックへと切り替わったのだ。
ボールはネットを越え、ネットから半メートルも離れていない場所で急激に失速し、落下する。
ネット前のドロップショットだ。
それでも千野柊斗はベースラインに立ち尽くし、つま先一歩たりとも前へ踏み出さなかった。それどころか退屈そうに左手で髪を掻き回し、ボールがネット際で楽しげに2回跳ねるのを眺めている。
「2-0(ツー・ゼロ)! 瀬戸!」
「千野柊斗ぉぉぉ──っ!」岩本弦一郎がとうとう堪忍袋の緒を切り、猛然と一歩前へ踏み出した。太く響く怒号が赤土のコート全体に轟き、握りしめたホイッスルがギリギリと軋む音を立てる。「お前は狂ったのか!? 足の裏を接着剤で固められでもしたのか!? 走れと言っているだろうが!!」
向かいの瀬戸航平も困惑したようにラケットを握りしめ、言葉を失ってこちらを見つめている。録画映像の中では縦横無尽に暴れ回っていたスターの先輩が、なぜ突然ただの『等身大パネル』と化してしまったのか、理解できないのだ。
柊斗はコーチの咆哮など全く意に介さなかった。息一つ乱すことなく、ゆっくりと振り返ってラケットを肩に担ぐと、コート越しに、ベンチに座る柏木奏へとその視線を正確に突き刺した。
その眼差しが発するメッセージは極めて露骨だった。
『2ポイント捨てたぞ。アンタはいつ仕事を始めるんだ』
「こいつ……」
ベンチに座る奏は低く毒づき、とうとうスライムのように崩れていた姿勢を維持できなくなった。手元のポテチの袋を脇に置き、上体を前傾させると、再びサービスラインに立った瀬戸航平へとその両目を鋭くロックオンした。
もし自分の平穏な夏休み(とゲーム環境)がかかっていなければ、このクソガキが居残り特訓の罰を受けようと、間違いなく打ち上げ花火を上げて祝ってやるところだった。




