35 テストプレイ(上)
「父親」という二文字を耳にした瞬間、千野柊斗の半ば伏せられていた長い睫毛が、微かに、ほんのわずかに震えた。
彼がゆっくりと眼差しを上げると、その瞳に浮かんでいた気怠さは完全に掻き消え、代わりに底知れぬ冷酷な光が宿っていた。彼は岩本弦一郎を真っ直ぐに見据え、静かな声でその説教を遮った。
「コーチ。俺が今日ここに立っていることも、テニスを選んだことも、あの男とは一切関係ありませんよ」
柊斗は身体を起こし、ポケットから手を抜いた。「このクラブにいられなくなったところで、俺はいつでも他へ移るだけです。東京でスポンサー枠を融通できる場所なんて、ここ以外にもいくらでもありますからね」
「お前……」全く取り付く島もないその言葉に、岩本は一時言葉を失い、顔色を険しくさせた。
「それに、俺はアンタの意見には同意しません」柊斗は青筋を立てたコーチを見つめ返し、平坦だが一切の妥協を許さない、明確な偏愛を帯びた声で続けた。「あれが、表舞台で通用しない素人の我流だとは微塵も思っていない」
彼は口角を歪め、極めて傲慢な笑みを浮かべた。
「素人のお遊びなんかじゃない。あれは最も効率的な『最適解』だ。最小限の運動量と最も省エネな方法で相手の防衛線を崩壊させられるのに、どうしてわざわざ、とっくに時代遅れになった教科書通りの戦術でプレイしなきゃならないんです? 点を取れる戦術こそが、正しい戦術だ。来週水曜の決勝も、俺はこのやり方で優勝をもぎ取りますよ」
オフィス内の空気は、一瞬にして氷点下へと凍りついた。
その頃、壁一枚を隔てた廊下のベンチでは。
柏木奏が革張りの長椅子に四肢を投げ出し、スライムのようにぐったりと丸まっていた。アイスレモンティーはとうに飲み干し、今はラウンジで調達した高カロリーなポテトチップスの袋を抱え、無意識に一枚、また一枚と口に運んでいる。周囲があまりにも静かな上、高級クラブの完璧に調整された空調が全身を心地よく包み込み、彼のまぶたは重力に負けて沈み始めていた。頭がカクン、カクンと揺れ、今にも本格的なスリープモードへ突入しようとしていた、その時。
バァァンッ──!
何の予兆もなく分厚い木製のドアが乱暴に押し開かれ、壁に激突して重々しい轟音を響かせた。
その爆音に驚き、奏はビクッと全身を跳ねさせ、危うくベンチから転げ落ちそうになった。指先につまんでいたポテトチップスが、パキッと粉々に砕け散る。
ヘッドコーチの岩本弦一郎は怒りで顔を真っ赤にし、額に青筋を浮かばせながら、怒り心頭といった様子でオフィスから大股で出てきた。その足取りは極めて重く、磨き上げられた床に靴底がキュッと鋭い音を立てる。どう見ても怒りが頂点に達している。
そのすぐ後ろから出てきた千野柊斗はといえば、対照的にのんびりとしたものだった。片手をパンツのポケットに突っ込み、その俊美な顔には気怠さと無関心が張り付いている。はだけた黒いジャケットの襟元を直そうとすらしない。
奏はポテチを半分くわえたまま、激怒するコーチと全くどこ吹く風の柊斗の間を、怪訝そうにキョロキョロと見比べた。
(このクソガキ、一体中で何を言いやがったんだ……)
奏が心の中でツッコミを終えるより早く、千野柊斗はすでにベンチの脇まで歩み寄っていた。彼は奏の顔に視線を1秒たりとも留めることなく、長い腕をすっと伸ばすと、骨ばった大きな手で奏の手首を正確にガシッと掴み取った。
そのまま手首に力を込め、上方へと強引に引き上げる。
「え? ちょっと待っ……」
奏は抗いようのない凄まじい力で引かれ、スライムと化していた身体をベンチから無理やり引き剥がされた。抱えていたポテチの袋が危うく床にぶち撒けられそうになる。スニーカーの踵をまともに踏みしめる暇すらなく、強制的によろよろと歩き出させられた。
「おい、千野柊斗、何すんだよ! ポテチがこぼれるだろ!」奏は背後でパニックになりながら小声で抗議した。鉄の万力のようなその手を振り解こうとしたが、結果として相手の指関節のホールドがさらに一段階強まっただけだった。
柊斗は一度も振り返ることなく、ただ奏を引きずりながら大股で廊下を進んでいく。向かう先は明らかに、クラブ内部にある室内アンツーカー(赤土)コートだ。
室内コートのサイドドアを、岩本コーチがバンッと乱暴に押し開けた。
「瀬戸、ちょっと来い」コーチはコートサイドに立ち、サブコートでフットワークの練習をしていた一人の青年に向かって手招きした。
声を聞き、その青年は即座に動きを止めた。年齢は18、19歳ほどだろうか。長身で、腕のラインは細くもしなやかな筋肉に覆われている。岩本コーチの背後にいる千野柊斗の姿を認めた瞬間、青年の目がパッと輝いた。
彼は小走りで駆け寄ってくると、千野柊斗の2歩手前でキュッと急ブレーキをかけた。そして両手をパンツの縫い目にピタリと揃え、腰からカクンと見事なまでの90度のお辞儀をして、大声で張り上げた。
「千野先輩! 初めまして、先週チームに合流した瀬戸航平です! よろしくお願いします!」
腹の底から出たその威勢のいい挨拶が、広々としたコート内に微かなエコーを響かせる。
(明らかに年齢はあっちの方が上なのに、柊斗が「先輩」なのかよ……)奏は心の中でひっそりとツッコミを入れた。
瀬戸航平は上体を起こした。興奮のあまり顔をわずかに紅潮させ、声のトーンは相変わらず高い。「ずっと前から大ファンでした! 去年の全米ジュニアオープンの録画は、もう50回以上リピートして見ています。本当に勉強になりました! 今日、この赤土のコートで先輩と打ち合える資格をいただけて、光栄の至りです!」
その溢れんばかりの熱量を前にしても、千野柊斗は片手をポケットに突っ込んだまま、冷淡に口角をわずかに動かし、鼻の奥から低く短い音節を一つ絞り出しただけだった。
「……あぁ」
あまりにも素っ気ないその返答に、場の空気が一瞬だけ凍りついたが、瀬戸本人は全く気にする様子もなく、背筋を伸ばして恭しい姿勢を保っている。
岩本コーチは傍らで腕を組み、鼻でフンと笑った。「瀬戸の最大の武器は、スライスによるコースチェンジと『視線誘導』だ。同世代でやつのフェイントに引っかからずにレシーブできる者は滅多にいない。柊斗、お前が自分の新しいプレイスタイルにそれほど自信があるというのなら、実戦で証明してみせろ」
柊斗は今日、そもそもテニスバッグを持参しておらず、完全に手ぶらだった。彼はコートサイドのラックへ目を向けた。そこには、クラブが会員やコーチのテスト用として用意している高級な貸出用ラケットがずらりと並んでいる。
一方、ベンチの脇では、柏木奏が半分粉砕されたポテチの袋を抱き抱えたまま、未だに魂が抜けかけたような状態で立ち尽くしていた。
彼はやる気満々の瀬戸を見て、顔をこわばらせているコーチを見て、最後にラックからラケットを選んでいる千野柊斗を見て──頭の中に無数のクエスチョンマークを浮かべた。
一体何が起きたんだ?
ついさっきまでオフィスでこってり絞られてたはずなのに、なんで一転してテニスでバチバチやり合う流れになってるんだよ?!




