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33 アイスレモンティー(上)

柏木奏はリビングのシングルソファに深く身を沈め、ゲームを2、3局プレイしようとしていた。


ローテーブルの上でスマホが振動する。千野柊斗は電話に出ると、短い相槌をいくつか打って通話を切った。彼は大股でリビングに戻ってくると、短く言い放った。


「着替えろ。出かけるぞ」


奏はまぶた一つ持ち上げず、すでにコントローラーに指を滑らせていた。「行かない。俺の今週分の『外出時直射日光ゲージ』は昨日の試合で完全に底を突いた。今はクールダウン期間中で、一歩も動けない」


言い終わるか終わらないかのうちに、視界に巨大な黒い影が落ちた。


柊斗は最初から彼と問答する気など毛頭なかった。二歩でソファの前に詰め寄ると、上体を屈め、長い腕を伸ばして奏の腰をガシッと掴む。そして、米俵でも担ぎ上げるかのように、その長身を軽々と自身の広い肩に担ぎ上げたのだ。


視界が瞬時に反転し、ラグの幾何学模様が目の前に拡大される。胃の腑が硬い肩の筋肉に押し付けられ、奏は思わず「うっ」とくぐもった声を漏らした。血液が一気に頭に上り、彼の耳の裏までがカーッと熱を持った。


「おい! 千野柊斗! 降ろせってば!」奏は手足をバタバタとさせて抵抗し、コントローラーが「パシャッ」と床に落ちた。「俺の方が年上なんだぞ! お前には年長者を敬うっていう最低限の常識がないのか!」


自分より年下の男に、まるで荷物でも扱うように担ぎ上げられている。その強烈な羞恥心に、奏の冷や汗が吹き出し、こめかみがドクドクと脈打った。


柊斗はその抗議に一切耳を貸さず、ブレのない足取りでゲストルームへと踏み込み、そのままベッドの上へ奏を乱暴に放り投げた。彼はベッドの縁に両手をつき、上から覆い被さるように身体を沈めると、赤く染まった奏の顔を穴の開くほど見つめた。


「3分だ。着替えないなら、俺が直々に脱がしてやってもいいんだぞ」


柊斗の視線が、半分開いたパジャマのボタンを舐めるように滑る。平坦な語調だったが、その言葉は奏の口を完全に封じ込めるのに十分だった。


30分後、黒のハイヤーが東京都心にある完全会員制の高級テニスクラブの前に滑り込んだ。


ここは奏も一度来たことがある。あの熱中症になりかけた日だ。だが、あの時は外の屋外コートに少しいただけだった。


まさか施設内がこれほど絢爛豪華けんらんごうかな造りになっているとは思いもしなかった。大理石の床には重厚なペルシャ絨毯が敷かれ、壁一面のガラス張りの向こうには、ミリ単位で整えられた美しい芝生と、色鮮やかな室内アンツーカー(赤土)コートが広がっている。


ラウンジを行き交う人々は皆、一目でハイブランドと分かるオーダーメイドのテニスウェアに身を包んでいた。よれよれのパーカーに履き古したスニーカー姿で柊斗の背後を歩く奏は、まるで高級フレンチレストランに迷い込んだコンビニ弁当のようなアウェイ感に苛まれていた。


ヘッドコーチのオフィスは、長い廊下の突き当たりにあった。


千野柊斗はオフィスのドアの前で足を止めた。ジャケットのポケットに手を突っ込み、黒と金で彩られた重厚なブラックカード(会員証)を取り出すと、二本の指で挟んで奏の胸元へと無造作に投げ渡した。


「外で待ってろ。退屈ならラウンジに行け、欲しいもんがあったらそれで適当に決済しとけ」


奏はカードを受け取り、柊斗がオフィスに入って分厚いオーク材のドアが閉まるのを見送った。


特権を与えられた以上、遠慮する気などさらさらない。奏はのらりくらりと廊下の角にある自動販売機の前へ歩いて行き、見るからに限度額の高そうなそのカードをICリーダーにかざした。「ピッ」という軽快な電子音と共に、キンキンに冷えたアイスレモンティーのアルミ缶がガコンと転がり落ちてきた。


プルタブを引き開け、冷たくてほんのり甘い液体を喉の奥へと流し込む。


奏は缶を片手に、オフィスの外に置かれた本革製のロングベンチにそのまま身を沈めた。極上の柔らかいレザーに深く寄りかかりながら、悠々自適に脚を揺らす。


しかしその頃、壁一枚を隔てたオフィス内では、外とは正反対の緊迫した空気が流れていた。


ヘッドコーチの岩本弦一郎いわもと げんいちろうはデスクの奥に座り、指の関節で「コツ、コツ」と重々しく天板を叩いていた。壁の巨大な液晶モニターには、昨日の『6-1』で圧勝した試合のリプレイ映像が静止している。


「柊斗、お前は昨日、一体どんなテニスをしたつもりだ?」岩本の眉間には深い皺が刻まれ、こめかみには微かに青筋が浮かんでいた。「第3ゲームのこのバックステップを見てみろ。大原がラケットを振る前から、お前はすでに重心を後ろへ移している。こんなものは、お前のテニスじゃない」


千野柊斗はテニスバッグをソファの脇に放り投げ、自身は両手をポケットに突っ込んだまま、だらりとデスクの縁に寄りかかっていた。彼は画面を一瞥もせず、ただ口角を歪めた。


「スコアは6-1ですよ、コーチ。俺の勝ちだ」


「私が求めているのはこんな勝ち方ではない!」岩本はバンッと両手でデスクを叩いて立ち上がり、身を乗り出した。


「お前は自分が最も誇るべき『野性の直感』を完全に捨て去っている。コートの上のお前は、球の感覚タッチを失ったただの木偶のでくのぼうだ! 型にはまりきって、硬直している! 相手の予備動作をガン見するだけのそんなレシーブじゃ、フェイントを織り交ぜてくる本物の格上に当たった時、完全に逆を突かれて無様に体勢を崩されるのがオチだぞ!」


コーチの怒声は分厚いガラス越しに微かにくぐもって響いていた。激しく上下する胸の起伏が、その抑えきれない感情を物語っている。彼は千野柊斗を鋭く睨みつけた。「正直に言え。お前、外で勝手に専属のアナリストでも雇ったのか? 誰がお前にこんなプレイスタイルを教えた?」


コーチの厳しい追及を前にしても、柊斗の表情には一切の揺らぎがなかった。室内の照明に照らされたその瞳はどこまでも冷淡で、彼はわずかに首を傾けると、何もない虚空へと視線を落とした。


「誰の入れ知恵でもありませんよ」柊斗は淡々と口を開いた。声のトーンはどこまでも平坦だ。「ただ、この打ち方が一番スタミナを消費しないって気づいただけです。大原程度の相手に、俺がコートを走り回ってやる価値なんてない」


その狂気じみた傲慢な言い逃れに、岩本は喉の奥に言葉を詰まらせ、顔色を青や白へと怒りに変色させた。


一方、ドアの外では、柏木奏が最後の一口のアイスレモンティーを心地よく飲み干していたところだった。


分厚いドアの隙間から漏れ聞こえてくる怒声だけで、中でコーチがどれほど怒り狂って地団駄を踏んでいるかが容易に想像できた。


その元凶である少年はといえば、まるで他人事のようにデスクに寄りかかり、つまらなそうにシューズのつま先で絨毯をこすっていることだろう。


奏は手の中のアルミ缶をベコッと握りつぶし、軽く空中に放り投げた。


(あのクソガキ、盛大に絞られてやんの)


奏は心の中で愉快そうに鼻で笑うと、後でもう一本、今度はキンキンに冷えたコーラでも決済してやろうと心に決めた。どうせ支払うのは某暴君のカードだ。使える特権は骨の髄までしゃぶり尽くしてやらなければ損というものだ。

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