31 アロエジェルと素直になれないモーニング・チャンネル(上)
翌朝。
スタンドの猛暑が一種の拷問だったとすれば、長年の運動不足に加えて酷暑と緊張がもたらした「遅れてやってくる筋肉痛」は、まさに大災害だった。
奏が客室のベッドから起き上がると、自らの背骨から「バキバキ」と嫌な音が鳴り響いた。
うつむいて熱を持ったうなじに触れる。昨日は完璧に防備したつもりだったが、UVカット服のフードと襟のわずかな隙間から紫外線が侵入したらしい。その部分の肌は真っ赤に変色し、火傷のようにヒリヒリと痛んだ。
スリッパを引きずりながら、バッテリー残量1%のロボット掃除機さながらに、硬直した等速直線運動で部屋を這い出した。
リビングのカーテンは半分だけ開いており、朝の柔らかな光がラグの上に一条の明暗の境界線をくっきりと描き出している。
「パシッ」
「ニャッ!」
廊下を曲がった瞬間、軽重二つの小気味よい音が奏の耳に届いた。
千野柊斗がラグの影のエリアに深くあぐらをかいて座っていた。今日の彼は、他者を拒絶するような漆黒のトレーニングウェアではなく、少し着古されてクタッとした白いコットンTシャツを身に纏っている。前傾姿勢になるたび、広めの襟元から白磁のような滑らかな肌が覗いていた。
キャップを被っていないアッシュブロンドの髪が額に柔らかく下りており、その姿は、ようやくこの年齢の少年らしい瑞々しさと青っぽさを残していた。
彼の右手とフローリングの間で、黄緑色のテニスボールが規則的なリズムで弾んでいる。
ボールが弾むたび、ゴールデンシェーデッドのルルが猛然と飛びかかり、モフモフの肉球でボールを捕らえようとする。
だが、柊斗の手首はルルの爪が触れる寸前、吸い付くようにしなやかに動き、ボールを猫の肉球すれすれで躱しては自分の手のひらへと戻してしまう。
ルルはそのぽっちゃりとしたわがままボディを必死にばたつかせ、何度も空振りを繰り返す。しまいには完全に体力を使い果たしたのか、フローリングの上にどてっと力なくひっくり返り、無防備に白くてフカフカなお腹を丸出しにした。
「バカ猫」
柊斗の口元に、一切の陰りのない、少年らしい悪戯っ子のような笑みが浮かぶ。彼は細い指先を伸ばすと、ルルの額を軽く小突いた。
奏は壁に寄りかかったまま、その珍しい「氷の暴君の猫吸い」的な光景をしばらく無言で眺めていた。声をかけることもなく、ただ水を一杯飲もうと、オープンキッチンへと足を引きずった。
だが、奏がどれほど気配を殺していようとも、グラスの底が大理石のカウンターに触れた刹那、ボールの弾む音がピタリと止んだ。
千野柊斗が首を巡らせる。
彼の視線は高性能のレーダーさながらに、奏のふらつく足取り、眠たげなタレ目を正確にスキャンし──そして、水を飲むためにうつむいたパジャマの襟元から露出した、あの生々しい赤色の火傷痕へと真っ直ぐに突き刺さった。
柊斗の口元から、笑みの残像が瞬時にかき消された。
彼はわずかに眉根を寄せると、手元のボールをルルの前足の間に押し込み、床に片手をついてスッと立ち上がった。
奏がグラスの水を半分ほど飲み干したとき、背後から凄まじい存在感を放つ影が覆い被さってきた。振り返るよりも早く、肩越しに冷たい物体が飛来し、綺麗な放物線を描いてグラスの隣に「コトッ」と落ちる。
未開封の、緑色をしたアロエジェルのチューブだった。
「日陰のスタンドに座ってただけで日焼けしてんじゃねえよ。アンタの皮膚は紙製か?」
後ろから聞こえる柊斗の声には、いつも通りの毒がたっぷりと含まれていた。彼は片手をルームウェアのポケットに突っ込み、カウンターの縁にアンニュイに身を預けている。だが、その視線は奏を全く捉えておらず、ベランダの外の虚空に向けられていた。
奏は、冷蔵庫の冷気をまとったそのアロエジェルを手にとった。
「昨日の服、襟が硬すぎてさ。下向くたびに首が擦れたんだよ」奏はのろのろと言い訳を並べ立てながら、不器用に手を後ろへ回して自分のうなじに触れようとする。「それに外の太陽、狂ったみたいに強烈だっただろ。俺、体質的にすぐ赤くなるんだよね……」
硬直した二本の腕を空中で泳がせるが、患部に指が届かないばかりか、背中の筋肉を巻き込んでしまい、思わず「……っつ」と小さく声を漏らした。
横で寄りかかっていた柊斗は、その不格好な独り相撲を冷ややかな目で見つめている。
少年はわずかに「チッ」と不機嫌そうに舌打ちした。彼は突如として手を伸ばすと、奏の指先からアロエジェルのチューブを強引にひったくった。
「後ろ向け。どんだけ不器用なんだよ」
柊斗の声はぶっきらぼうだった。彼は親指の爪でチューブのアルミ箔をパチンと弾くように剥がすと、透明なジェルを自分の指の腹へ無造作に絞り出した。
奏が身構えるより早く、固いマメのある、しかし長年ラケットを握り込んできたせいで驚くほど熱い手のひらが、容赦なくそのうなじへと押し当てられた。
「っ……!」
氷のようなジェルの冷たさと、少年の熱い指先がもたらす激しい温度差に、奏はビクッと身体を前方へすくませた。
「動くな」柊斗が低く威嚇するように呟く。
その手つきは決して優しくはなく、むしろどこかぎこちない硬さがあった。しかし、輪郭のくっきりとした少年の指先は、ジェルを広げる過程で奏の背骨の最も痛むポイントを的確に避け、ただ指の腹を使って、氷のような薬を真っ赤な皮膚へとじっくりと染み込ませていく。
ミントの爽快感を孕んだジェルが肌の上で融解し、火照った刺すような痛みの奥へと急速に浸透していく。
柊斗の指先は驚くほど熱く、グリップとの摩擦で鍛え上げられた手のひらの固いマメが、薄く繊細なうなじの肌を幾度となく擦る。
その粗野でいて温かい質量が、ジェルをごくわずかずつ筋肉の奥へと押し込み、頸椎のラインに沿ってゆっくりと圧をかけていく。そのゾクゾクとするような奇妙な感覚に、奏は背筋に冷たい粟が立つのを感じた。
朝の静謐なキッチンには、二人の静かな呼吸音だけが微かに響いていた。
奏がわずかに頭を垂れていると、うなじに薬をすり込んでいたその大きな手の動きが、ほんの一瞬──コンマ数秒だけ不自然に静止した。
奏は振り返らなかったが、目の前のガラス窓の反射を通して、背後に立つ少年の姿を克明に捉えていた。
朝の斜光が差し込み、千野柊斗の端正なアウトラインを鮮明に型抜いている。普段まといがちなトゲトゲとした鋭利な覇気は、いまやこの柔らかなルームウェアの質感によって完璧に霧散していた。
彼はわずかに顎を突き出し、高すぎる鼻梁が美しい横顔に濃い陰影を落としている。普段は氷点下の温度しか宿さないその瞳は、いまは伏せられ、自らの指先の下にある皮膚をただ熱心に見つめていた。長い睫毛が、朝光を浴びて目の下に静かな陰影の光斑を作っている。
柊斗の視線が、奏のわずかに赤みを帯びた耳尖へと滑り落ちる。
──次の瞬間、彼は弾かれたように視線を強制収束させた。
「……終わりだ」
柊斗は電流に触れたかのように素早く手を引っ込めると、残りのアロエジェルのチューブを「バンッ」とキッチンカウンターに叩きつけた。
そのまま身体を反転させ、大股のまま自室へと退却していく。その真っ直ぐな背中とせわしない足取りは、まるで背後から目に見えない怪異にでも追われているかのようだった。
奏はグラスを握ったまま、怪訝そうに身体を巡らせ、乱暴に閉ざされた自室のドアを見つめた。
空いた方の手で、彼はなぜか妙に熱を帯びている自分の右耳をつまんだ。
──断っておくが、これは決して、どこかの恋愛ゲームのような気恥ずかしさや胸のときめきのせいなどではない。純粋に、昨夜眠る際、うなじの痛みを避けようと不自然な姿勢で右半面の顔を枕に押し付け続けた結果、血流が滞って充血しているだけに過ぎないのだ。
「朝っぱらから何キレてんだよ。力任せに押し込みやがって、頸椎がへし折れるかと思ったわ……」
柏木奏は痛む首すじをさすりながら、小声で毒づいた。彼は柊斗の不可解な挙動など特に気に留めることもなく、グラスを手にリビングへとトボトボと戻る。まずはフードデリバリーのアプリを開き、自分の胃袋を救済してくれそうなセールの朝食でも探そうと考えながら。




