28 プレイヤーとラケット(下)
柏木奏は椅子の背もたれに体を預け、UVカットパーカーの襟元をぐっと引き上げて顔の下半分を隠した。
認めざるを得ない。指示がなければ平気でボイコットするあのトラブルメーカーが、ひとたび「指一本で思い通りに動く最強アカウント」と化せば、フィールドを完全に支配して敵を蹂躙していくその圧倒的なクリアの快感は、どんな3A大作を完全攻略したときよりもゾクゾクと鳥肌が立つものだった。
最初のコマンドが発効した瞬間から、この試合の性質は完全に変貌していた。
大原賀人が絶対の自信を持っていたヘビートップスピンの戦術は、千野柊斗の前ではまるで答えがすべて書き込まれたカンニングペーパー同然だった。
どんな死角に球を打ち込まれようが、どれほど強烈な回転をかけられようが、千野柊斗は常にコンマ5秒早く、まるで幽霊のように最も完璧な着弾点で待ち構えている。
バァァン!
「サーティー・フィフティーン! 千野!」
バシャシィン!
「フォーティー・フィフティーン!」
大原賀人は激しく肩で息をしながら、額から流れる汗をハードコートにボタボタと滴らせていた。ネットの向こうに立つ淡い金髪の少年を凝視する彼の胸中に、得体の知れない恐怖が湧き上がる。
不気味すぎる。
まるで、自分の戦術の裏コードにハッキングの回線を繋がれ、ラケットを振る意図も、球の軌道も、すべて相手のモニター上で狂ったように警告の赤ランプを点滅させているかのような感覚だった。
「これ以上、ベースラインでの打ち合いに付き合うわけにはいかない」大原は下唇を噛み締め、滲み出た鉄の味を舐めとった。彼は素早くポジショニングを調整すると、テンポを変えてドロップショットとネットプレーで相手のリズムを崩しにかかる決断をした。
スタンドでは、柏木奏が相変わらずの姿勢のまま、わずかに首を傾げて大原の重心の変化を視線でなぞっていた。
(ボスのHPが30%を割ったな。第二形態突入か)
奏の脳内で、使い古された行動ツリーが素早く更新される。
──立ち位置が遠距離の安全圏から外れた。重心は前傾、ラケットの打点と手首の角度がフラットに変化……これは遠距離の範囲攻撃(AOE)のチャージ技をキャンセルし、近接モードに切り替えてショートレンジのトラップを仕掛けるモーションだ。
大原がインパクトを迎えるまさに1フレーム前、奏は肘掛けに置いた手のひらを返し、上を向いた4本の指をそろえて、手元へとちょいちょいと軽く引いた。
コマンド、送信。
ベースラインの後方、千野柊斗は対面の大原など目もくれなかった。奏の指先が動いたのと完全に同ミリ秒、彼は猛烈に床を蹴りつけ、獲物をロックオンした若き豹の如き瞬発力で、ネット際へと猛然とダッシュした!
ふわり。
大原は手首の力を絶妙に抜き、ボールは空中で短い放物線を描いてネットを越えた。ネット際で急激に失速し、そのままぽとりと落ちる絶妙な軌道。
完璧なドロップショット。もし千野柊斗がまだベースラインにいたなら、確実に手も足も出なかったはずだ。大原の張り詰めていた肩の力が緩みかけたその瞬間、凄まじい風圧を伴った黒い影が、すでにネット際を完全に覆い尽くしていた。
「なっ……!?」大原は目を見張った。
千野柊斗のラケットが空中に残像を描く。彼はボールが跳ねるのを待つどころか、ネットを越えた瞬間の最高到達点に向けて身体を宙へと投げ出し、上から下へと容赦なくラケットを叩きつけた!
ズバァァァンッ──!
ほぼ垂直の角度で大原の足元へと叩きつけられたボールは、爆発的な轟音を残して跳ね上がり、観客席のフェンスを軽々と飛び越え、後列の空席へと直撃した。
「ゲーム、千野! 1-1(ワン・オール)!」
大原はネット際で立ち尽くし、冷気を孕んだ風が彼の耳元を激しく吹き抜けていった。
柊斗はしなやかに着地し、片手でラケットを提げた。汗に濡れた淡い金の髪が額に張り付くなか、彼は至近距離のライバルを見つめ、感情の失せた瞳のまま不敵に口角を歪めた。
「諦めろ」柊斗の声はひどく低く、場内の大歓声にかき消されて、二人にしか聞こえなかった。「アンタ、遅すぎるんだよ」
その一言は、氷水に浸したナイフのように大原の神経を直撃した。彼は奥歯を噛み締め、ベースラインへと引き返していったが、その足取りは開始时とは比べものにならないほど重くなっていた。
だが、これは一方的な公開処刑の序章に過ぎなかった。
サードゲーム、大原賀人のサービスゲーム。
連続して弱点を突かれたことで、大原のメンタルには明らかな乱れが生じていた。スタミナを消費するヘビートップスピンを放つ度胸を失った彼は、ボールを高く打ち上げ、強烈なアンダースピンをかけたロブでラリーのテンポを遅らせ、時間を稼ごうと試みた。
スタンドの柏木奏は、大原の明らかに後方にのけぞった背中と、完全に開いたラケット面を見逃さなかった。
(ボスが防御態勢に入ったな。滞空時間の長い対空スキルを放って、スキルのリキャスト時間を稼ぐ気だ)
奏は肘掛けに置いていた食指を持ち上げ、空中に小さな半円を描くと、最後に指先を下に向けて、ちょんと軽く空間を叩いた。
ベースラインの柊斗は、その半円の軌道を目にした瞬間、前線へ圧力をかけようとしていた足をピタリと止めた。彼は高く上がったロブに翻弄されるどころか、悠然と2歩後退し、ボールが落下してくる軌道の真下へと綺麗に回り込んだ。
グリップを握り直す余裕すら見せると、軽く膝を曲げ、宙へと跳躍する。
ズバァァァンッ!
何のサスペンスもない完璧な高圧スマッシュが放たれ、大原のコートに激突したボールは、そのまま2階の観客席へと弾け飛んでいった。
「ゲーム、千野! 3-1(スリー・ワン)!」
放送席にいる二人の実況の声がアリーナのスピーカーを通して響き渡り、上空にこだまする。
「決まりました──! 鮮やかな高圧スマッシュ! 千野選手、これでさらにゲームを引き離します!」主実況の絶叫がマイクを通して流れ、彼は隣の解説へと顔を向けた。「しかし前田コーチ、お気づきですか? 今日の千野選手、全体のプレイスタイルが普段とまるで違うように見えるのですが」
前田と呼ばれた特別解説員は鼻梁の眼鏡を指で押し上げ、手元のリプレイモニターを凝視しながら、わずかに眉をひそめた。
「違うどころか、まるで別人がコートに立っているかのようです」前田コーチは手にしたペンでデスクを軽く叩いた。「千野選手といえば、これまでは野生の獣のような直感のみでプレイするスタイルでした。球を見てから、持ち前の異次元の身体能力で力ずくで追いつき、叩き込む。しかし、今日は……」
コーチは画面のスローモーション映像を指差した。「彼のステップを見てください。大原選手がラケットを振り抜く1秒も前に、彼はすでに後退を始めている。無駄なスライドステップも、本能のままに飛び跳ねるような魅せプレイも一切ない。これまでの個人特有のルーティンをすべて削ぎ落とし、ただただ着弾点へと先回りして、ボールが落ちてくるのを待っているだけなんです」
「ええ! 冷徹という他ありません、まるで未来のシナリオが手元にあるかのようだ!」主実況がたまらず口を挟む。
「まるで将棋を指しているかのようだ。大原選手の棋譜が完全に読まれている」前田コーチは顎に手を当て、コート上の黒い背中を見つめながら、静かに息を呑んだ。
「長年培ってきたマッスルメモリー(本能)を1試合の中で完全に抑え込み、一切の隙のない戦術システムを即座に上書きしてのけるとは……。実に恐ろしい。千野選手の後ろに、新たな戦術コーチでも就いたのか、あるいは秘密裏に凄まじい特訓でも重ねていたのでしょうか……」




