27 プレイヤーとラケット(上)
昨夜、退屈しのぎに奏はスマホで、柊斗の口にしていた「プライベートクラブ」とやらを検索してみた。
画面に現れた全編英語のサイトと、入会するのに資産証明すら必要となる桁外れな会費の数字に、奏はその場で思わず息を呑んだ。
このレベルのクラブが選手を育成して試合に出すとなれば、その背後で動くスポンサー料や獲得ポイント、利権の絡んだリソースのやり取りは、決して端た金ではないはずだ。あのクソガキが本当にこんなふざけた理由で、準決勝でストレート負けを喫するようなことにでもなれば……。
万が一クラブ側から損害賠償でも請求されたら、自分のSwitchと限定版のゲームソフトをすべて売り払ったところで、一銭の足しにもなりゃしない!
「お前……」
奏はゴクリと唾を呑み込み、UVカットパーカーの長い袖の中に隠れていた手を弱々しく挙げた。事態が完全に手遅れになる前に、このワガママな暴君を宥めようとしたのだ。
「ふざけてないで、とりあえずちゃんと打てよ……」
ピィィーッ!
主審の鋭いホイッスルが奏の言葉をかき消した。チェンジコートの時間が終了したのだ。
「アンタのコマンドを待つ」
柊斗は最後まで聞くこともせず、そのまま踵を返した。ラケットを手にコートへと戻っていくその背中は、どこまでも真っ直ぐで、凛としていた。
第2ゲーム——千野柊斗のサービスゲーム。
テニスにおいて、サービスゲームはプレイヤーにとって最大の優位に立てるゲームだ。サーブの精度さえ保証されていれば、キープできる確率はレシーバー側よりも遥かに高い。
千野柊斗はベースラインの後方に立った。片手でボールを数回バウンドさせると、鋭くトスアップする。そのしなやかな体躯から放たれたラケットが、風を切り裂くような轟音とともにボールを引っ叩いた。
ズドォォン!
凄まじい球速のボールが、大原賀人の右側のオープンコートへと突き刺さる。大原は辛うじてラケットを伸ばし、ボールを高いロブで打ち返した。
それは威力のない甘いロブで、ちょうど柊斗のミドルコート付近へと落ちていく。本格的な訓練を積んだ選手であれば、誰もが絶好のスマッシュのチャンスと捉える球筋だ。
柊斗は数歩前進し、ボールの落下軌道の下に入った。ラケットを掲げ、いつでもスマッシュを叩き込める体勢を取る。観客席の誰もが息を呑んだ。
だが、ボールがまさにインパクトの瞬間に達しようとしたその時。
柊斗の動きが、またしてもピタリとフリーズした。
彼はラケットを掲げたまま、振り下ろそうとしない。ただ目を開けたまま、ボールが自分の頭上を越え、背後のインゾーンにバウンドし、そのまま転がってベースラインの外へと弾んでいくのを眺めていたのだ。
「ラブ・フィフティーン! 大原!」
主審の声が再び響く。スタンドから巨大などよめきが沸き起こった。
「何やってんだよ?!」
「あんなチャンスボールをスルーするか? コートで寝てんのかよ!」
「千野柊斗、どっか悪いんじゃないのか? さっきの何だよ?!」
実況アナウンサーの声は、もはや大袈裟なトーンを通り越して驚愕に満ちていた。
「なんと! 千野選手、絶好のスマッシュチャンスを放棄しました! まるで金縛りにでもあったかのようにその場に立ち尽くしています! 不気味すぎます、これはテニスコートの怪奇現象だ!」
VIP席に座る柏木奏は、サングラス越しに、失点しても眉一つ動かさないコート上の後ろ姿を見つめていた。
あいつは本気だ。コマンドを出さなければ、数千人の観客の前で本当にただの彫刻になり下がるつもりなのだ。
奏は深く息を吸い込むと、耳にかけていたノイズキャンセリングヘッドホンを猛然と剥ぎ取った。
物理的な遮音が失われた瞬間、数千人の喧騒の波が満ち潮のように鼓膜へと押し寄せる。彼は煩わしげに眉をひそめ、鼻梁にずれたサングラスを押し上げると、それまでの脱力しきった状態から、ゆっくりと上体を起こした。
コートのベースライン際で、千野柊斗は次のポイントのサーブの用意をしていた。手元でボールを握りながらも、その視線は広いコートの半分を飛び越え、真っ直ぐに奏を射抜いている。
「そこまでやるかよ、クソガキ……」奏は服の布地越しに、悔しげに奥歯を噛み締めた。
彼は柊斗から視線を外すと、スキャナーのように、ネットの向こうの大原へとターゲットをロックオンした。
寝食を忘れてゲームを周回し、ハードなぶっ続けのプレイで完全攻略してきた経験から、奏の脳は動く生命体のすべてを自動的にデータ化する悪癖が染みついていた。彼の目には、今の大原は高防御力、高HPを持ち、攻撃に持続的なスタミナ消費のデバフを付与してくる重装型のボスにしか見えない。
こうした重武器による広範囲の全体攻撃を繰り出すモブを相手にする場合、正面からスタミナを削り合うのは愚策だ。スキルを発動する直前の、ほんの数フレームの「予備動作」を狩るしかない。
千野柊斗がトスを上げ、ラケットを振る。バァァン!
大原がレシーブし、強烈な回転を伴ったボールが中盤へと戻ってくる。二人はラリーの応酬に突入した。
奏の視線はサングラスの奥で高速で動き、大原の肩、腰のライン、そして膝の屈曲角度を死に物狂いでマークした。
5ラリー目の応酬。大原が後衛を強襲する深い位置へのヘビートップスピンを放とうとした瞬間、右肩のテイクバックの角度が、それまでより僅かに5度ほど大きくなった。
その、わずか5度のブレ。
奏はUVカット服の広い袖口から手を覗かせた。青白く細長い食指をVIP席の黒い肘掛けに添えると、左側の縁に向かって、素早く、かつ周囲にバレないようトントンと2回叩いた。
それは、オンラインゲームでパーティを組んでボスを討伐する際、仲間に対して弱点の座標をマーカーで指し示す、ゲーマー特有の無意識の動作だった。
ベースラインの後方、コートを駆ける柊斗は、その卓越した周辺視野で、青白い指先が示した位置を寸分の狂いもなく捕捉した。
次の瞬間、さっきまで足元が重くコートを夢遊病のように彷徨っていた少年の呼吸が、一気に沈み込む。その瞳は刃の如く鋭さを増し、緊迫した下顎のラインが凌厲な弧を描いた。
彼は高く跳ねる球筋に備えて後退しようとしていた足を強引に止め、左足で地面を激しく蹴りつける。彼は退がるどころか前進し、今まさに着弾しようとするボールに向かって真っ直ぐに突っ込んでいった!
大原は呆気に取られた。
あれは強烈なヘビートップスピンだ。バウンド後の跳ね返りは凄まじく、普通の選手なら一歩引いてスペースを作るのが鉄則である。そんな場所へ柊斗が突っ込んでくれば、球の回転力に負けてラケット面が弾き飛ばされるのがオチだ。
だが、千野柊斗はボールが跳ね上がるのを待たなかった。
ボールがコートに触れて弾むその刹那、手首を押し下げ、強引極まりないハーフボレーの体勢で全身の体重をガットに乗せ、鋭くスナップを利かせた。
ズドォォン!
トップスピンの威力を発揮する暇すら与えられなかったボールは、直線のレーザーと化して地を這うようにネットを越えた。それはまるでバターを切り裂く刃の如く、大原が新たに晒したばかりの左サイドのベースライン際へと完璧に突き刺さった。
「フィフティーン・オール!」
審判がスコアボードを刻む。大原はラケットを引いたフォームのまま、驚愕に目を見張り、自分の左側の死角で虚しく転がっているボールを振り返った。
会場全体が一瞬だけ静まり返り、その直後、凄まじい歓声が爆発した。実況の声がそれに被さるように響く。
「決まった──! 千野選手、突如としてテンポを変え、神がかり的なハーフボレーで貴重なポイントを奪い返しました!」
千野柊斗はスッと上体を起こした。対面で顔色を変えている大原には視線すら向けず、片手でラケットのグリップを器用に回すと、VIP席の方向へと向き直る。
彼は広いコートを挟んだ向こう側から、奏に向かって不敵に顎をしゃくってみせた。ラケットを突き出し、フレームの縁で自分のシューズの側面をコンコンと2回叩く。
それこそが、二人にしか分からない合図だった──。
『次のコマンドをよこせ』




